第73話 夢で……何してたの?

「まだ……夢見てるみたいだ」


 呆然とそうつぶやくと、瀬良さんはびっくりしたように目を瞬かせてから、ふふっと笑った。


「永作くん、寝ぼけてる」


 眩いほどの真っ白なワンピースに身を包み、輝くような笑みを振りまく彼女に、ただ見惚れた。

 瀬良さんが一歩部屋に足を踏み入れるだけで、部屋の空気が軽くなるのを感じる。ふわりと甘い香りが漂って、辺り一面に舞う真っ白な花びらが目に見えるような。

 ああ、今度こそ……夢なら覚めないでほしいと思った。もう少し、もう少しだけでも……。


「圭! 印貴ちゃんに変なことするんじゃないわよ!」


 白百合のごとく慎み深く佇む瀬良さんの横から、ぬっとふっくらとした大福のような顔が飛び出してきた。


「母さん、今からパートだから。お茶菓子、棚にあるから持って行きなさいよ!」


 気分よくまどろんでいたところを、いきなりバックドロップされた気分だった。

 現実だ。紛うことなく、これは現実だわ。


「分かってるよ。もう放っといてくれていいから!」

「あとね、お客様用のカップが棚の一番上にあるから、それ使いなさいね」


 聞いてねぇ!

 それどころか、「印貴ちゃん、どんな紅茶が好きかしら?」と部屋に入ってきて、居座る気満々か!?

 うがあっと苛立ちと恥ずかしさに悶える俺の代わりに、「お構いなく」と瀬良さんの朗らかな声が真知子ははおやを華麗にかわした。


「突然お伺いしてしまってすみません。すぐにお暇しますから」

「あら、帰っちゃうの? 残念だわあ。私もパートがなければ……」


 残念だわあ――じゃなくて!


「母さん、パートだろ!? 遅れるぞ!」


 我慢ならずに立ち上がり、俺は瀬良さんの横を通り過ぎると、母親を押し出すように扉を閉めた。

 バタン、と閉め終わってもなお、扉の向こうから「麦茶も冷蔵庫にあるからね」と余韻のごとく聞こえて来る。

 やがて、ぱたぱたと慌ただしく遠ざかっていくスリッパの音が聞こえてきて、ホッとするとともに、ぞっと悪寒のようなものを感じた。――ただ、遊びに来ただけで、この首のツッコミ具合。瀬良さんが俺の『彼女』だって知ったら、どんだけ面倒臭いことになるのか。想像しただけでも恐ろしい。お茶菓子だけじゃ済まない。赤飯でも炊いて振る舞いだすぞ。

 扉に手をかけたまま、はあっと重いため息が溢れた。


「ごめんね。急に押しかけちゃって」

「え!?」


 気まずそうな声に、そうだった、と俺は思い出し、咄嗟に振り返った。母親の急襲で、すっかり雰囲気をぶち壊されてしまったが……。


「迷惑……だった?」


 くんと小首を傾げ、心配そうに見つめてくる瀬良さんに、ぞわっと背筋が震えるのを感じた。

 母親も現実――だが、も現実なんだ。目の前にいるこの瀬良さんも本物。つまり……。

 下の階からバタンと玄関の閉まる音がして、心臓が大きく揺れた。徐々に実感が緊張となって湧いてきて、俺はゴクリと生唾を飲み込んだ。

 夢じゃない。今度は……手を伸ばせば、ちゃんと触れられるんだ。そして、もう誰も邪魔はしない――。


「大丈夫?」


 すいっと目の前を瀬良さんの手が横切って、俺はハッと我に返った。


「え……あ、はい!?」

「ぼーっとしてる。まだ、眠い?」俺の顔を覗きこんで、瀬良さんは申し訳なさそうに苦笑した。「お昼寝、邪魔しちゃったね」

「邪魔……て」


 アホかー! と自分の頭を壁ドンしてやりたくなった。

 そうだよ、夢じゃないんだ。瀬良さんがせっかく遊びに来てくれた、ていうのに……何をぼけっと突っ立って、瀬良さんを不安にさせてるんだ!?


「いやいやいや、邪魔なんてそんな……! 昼寝してる間も、夢で瀬良さんと会ってたんだし! 邪魔どころか、起きてからも会えるなんて、それこそ夢みたいっていうか――」


 って、そこまで言わなくても良かったんじゃー!?

 喉が焼けるように熱くなって、かあっと顔が赤くなるのを感じた。

 瀬良さんはきょとんとしてから、そんな俺を食い入るように見つめ、


「夢で……何してたの?」


 それ、聞いてしまいますかー!?

 ネタは上がってんだ、と言われてるような……もはや、取り調べだ。あまりの後ろめたさに、俺は思わず顔を逸らしていた。


「目を……ですね。目を覚ましたら……そこに瀬良さんがいて……」

「ワイシャツ姿で……だっけ?」


 うーん。ひどい。我ながらひどい夢だ。己の潜在意識を疑う。

 そんな人だと思わなかった――と、夢で聞いたあの声が生々しく脳裏に蘇る。そこだけ正夢になりかねん。

 別れましょう、とか言われたらどうしよう……?

 ふいに、そんな不安がよぎってぞっとした、そのときだった。

 クスッと笑う声がして、


「もう、やだなぁ」


 と続いた声に侮蔑の色など全く無く、あれ、と見やれば、瀬良さんは楽しげにコロコロと笑っていた。


「私、どれだけ真面目だと思われてるんだろ。ワイシャツ着て遊びに来たりしないよ」

「へ……」


 ま……まじめ……? 俺は何も言えずに固まった。

 すみません、瀬良さん。おそらく、思い描いているワイシャツとはサイズが違いそうです。――なんて、言えるわけもないし、言ったところで瀬良さんを困惑させるだけだろう。

 己の変態ぶりを思い知り、いたたまれない気持ちに襲われていると、


「でも……嬉しいな。夢でも逢えて」


 と、ぽつりと瀬良さんが呟いた。

 キューピッドが実在するなら、その矢に射られたらこんな痛みがするのだろう――そう思えてしまえるような痛みが胸を貫いた。

 瀬良さん……! ともう我慢ならずに、抱きしめようかというときだった。


「実はね……」とうつむき、瀬良さんは沈んだ表情で切り出した。「お別れを言いに来たの」

「ん……?」


 あれ。やっぱ、まだ夢……か?

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