第五章
第72話 こういう格好、好きじゃない?
「永作くん」
目を開けば、チカチカと煌めく眩い世界が広がっていた。まるでガラスで出来たカーテンが風になびいているかのように、光が四方に散らばり、視界は輝きに満ち、輪郭すらぼやけて真っ白な世界の中にいるようだった。
何度か瞬きするうちに、ようやく光に慣れた目は輪郭を捉え出す。見慣れた天井に、真っ白な壁。ベッド脇の窓からは朝日が注ぎ込み、その下にぼんやりと人影が浮かび上がる。
「永作くん」とその人影は優しく撫でるような声で囁きかけてくる。「起きた?」
天使かな――なんて思った。
聡明そうな顔立ちに、幼い印象を残すやや太めの眉。日の光を浴びて輝く白い肌に、慈愛に満ちた眼差し。艶やかに胸元まで流れる長い黒髪には、まさに天使の輪というにふさわしい、光の筋が浮かび上がっている。ふっくらとした薄桃色の唇は、遠慮がちに微笑を浮かべ、「おはよう」とそよ風のような心地の良い音色をこぼす。
それだけで胸が満たされる。心の中にまで朝の清々しい光が注ぎこんでくるようだった。
ああ、翼がなくてよかった、とその背後を確認してはホッとしてしまう。どこか儚げにも思える美を備えた彼女は、今にもどこかに飛んで行ってしまいそうで、つい不安に駆られる。
無防備そのもの、鎖骨もあらわにゆるっとした真っ白なワイシャツ一枚を身に纏い、そこにいることが不思議なくらいで――て、本当に不思議だ!?
「せ、瀬良さん!?」
ぎょっとして俺は身を起こそうとしたが、できなかった。瀬良さんがしっかりと両脚で俺の腰を挟むようにして、俺に乗っかっているのだから。しかも、すりっと脇腹に直に擦れる感触は、絹の如く滑らかで、明らかに素肌のそれ。
つまり……つまり、下は……!?
ものすごく確認したいようで、してはいけないような。見たいという欲望と、紳士たれというなけなしの理性が、心の中で取っ組み合いを始めていた。決着がつくまでは……と、俺は根性で視線をピタリと動かさず、瀬良さんを見上げていた。
しかし、だ、そちらはそちらで……目のやり場に困る。
きちっとした純白のワイシャツをだらしなく着こなすという罪深い所業。しかも、しっかりボタンを閉めているにも関わらず、ゆるすぎて隙間から肌が覗き見えてしまう悩ましさ。そんなあざとい格好を、純真無垢そのものの瀬良さんがしているというギャップが……。
ダメだ、と俺はぐっとシーツを握りしめた。諦めの境地に行き着きそうになるのをなんとか食い止まりながら、堪えるように目蓋を閉じた。
「瀬良さん、その格好は……どうしたんでしょうか!?」
正気を保とう、とまずは現状把握に取りかからんとした俺だったが――、
「こういう格好、好きじゃない?」
「大好きです!」
理性とは硬い握手を結んで別れを告げた瞬間だった。
もう無理だ。というか、これは……この状況は、もういい、てことで良いんだよな?
ごくりと生唾を飲み込んで、俺はゆっくり目蓋を開く。そして、瀬良さんをじっと見つめて、するりと手を伸ばし――、
「そんな人だと思わなかった」
「え!?」
もう少しで、瀬良さんの太腿に指先が届くか、というときに、冷たい声が氷柱の如く突き刺さってきた。
瀬良さんはいつのまにか泣きそうな表情で俺を見下ろしていた。その眼差しには明らかな軽蔑の色が浮かんでいる。
「え……いや……え!?」
「勉強するんじゃなかったの、圭!?」
いきなり野太い声でそう言われ、ハッと俺は目を覚ました。
「勉強!?」
思わず叫んだ俺の声は、開け放たれた窓から流れ込むセミの声に混じって部屋の中にこだました。
そこに朝の煌々と差し込む爽やかな光などなく、容赦ない直射日光が注ぎ込む真夏の昼下がり。あぐらをかいてローテーブルに突っ伏す形で眠りについた身体はガタガタに凝って、昼飯を与え損ねた胃は唸り声を上げて不満を垂らしている。
「夢……?」
周りを見渡しても、ワイシャツ一枚で俺に跨る瀬良さんの姿などあるわけもなく。
うわあ……とやるせなさが一気に襲いかかってきて、俺はがっくりと頭を垂らした。
そりゃそうだよな、と思いつつ、ものすごく惜しいことをした、と味わったことのないほどの壮絶な悔しさが込み上げてくる。
つい、瀬良さんの太腿に触れかけた右手に未練たらしく目が行った。しかし、当然のことながら、そこには固いシャーペンが握られているだけで、虚しさをさらに煽るのみ。
「せめて、あと少しだけでも寝ていられたら……」
「こんな時間まで寝といて何言ってんの!」と、まさに夢のようなひとときから俺を現実に引き戻した憎き野太い声ががなり立てる。「午後は学校行くんでしょ!? 早くお昼食べて用意しちゃいなさい」
ばっと振り返ると、全開に開けたドアの向こうで、母親が掃除機片手に仁王立ちしていた。
「まったく……返事がないからまさかと思ったら、やっぱり寝てた! いつ勉強する気なの!? 夏休みだからって怠けすぎよ。こっちは休みも無いっていうのに」
ぶつくさ言いながら、母親はドアを閉めもせずに去っていく。
せめて、閉めて行ってくれよ、と言いたいところだが、そんな気も起きずに、はあっと俺はため息ついて、再び、ローテーブルに突っ伏した。
また寝たら、続きが見れたりするんだろうか、なんてはかない希望を抱きながら、
「ワイシャツ姿の瀬良さん……良かったなぁ」
しみじみとそうつぶやいたときだった。
「私?」
涼やかな声が、さあっと春風の如く部屋の中に流れ込んできた。さっきまで――夢の中だったが――ベッドの上で聞いていた声と同じ……。
弾かれたように顔を上げて振り返れば、
「もしかして、私の夢見ててくれた……とか?」
膝丈の薄手のワンピースに身を包んだ瀬良さんが、はにかむような笑みを浮かべて扉の向こうに佇んでいた。
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