第57話 さっき言ったこと、気にしてる?

「あの……瀬良さん? ほっぺたって……」


 まさか、そんなわけはないだろう――と、祈るような思いでおそるおそる確認すると、


「ほっぺた……だったよね? 私、キスしたの……」


 ああ、なんてことだ。

 悟ってしまった。やっぱり、そうだ。瀬良さん、さっきはほっぺたにキスするつもりで……。偶然、その瞬間、俺が振り返って唇に当たってしまったんだ。つまり、正真正銘、事故。しかも、瀬良さんはそれに気づいてもいない。イコール、ノーカン……!?

 絶句する俺に「どうかした?」と瀬良さんは眉をひそめてから、ハッとして自分の唇に触れた。


「私、変なところにしちゃった!? ごめんね、恥ずかしくて目を瞑ってたから……」

「いや! 変というより、至極真っ当というか、どんぴしゃというか……」


 言いづらい。凄まじく、言いづらい……。

 初めてのキスは大事にしたい、て言ってた瀬良さんに、『さっき、実はもうしちゃったんだよねー』なんて言えるわけがない。いったい、どんな顔をするだろう……想像しただけで、胸が痛い。――でも……言わないのもどうなんだ? 瀬良さんにとってそんなに大事なことなら、ちゃんと言うべきだよな? 言うなら、早く言わないと……。

 そうためらっていると、


「どうかした? 浮かない顔してる……」

「あ、いや……!」

「もしかして……さっき言ったこと、気にしてる? 初めてのキスは大事にしたい……て」

「……!」


 図星、です。


「ごめんね。お姉ちゃんにも、面倒臭いやつ、て言われてるんだけど……」

「面倒臭い……?」

「お姉ちゃんね、一時期、荒れてたっていうか……いつも誰かと付き合うとすぐして、別れちゃって」と、瀬良さんは神妙な面持ちで切り出した。「そういうの見てきたからかな。キスとか……その先のこととか……時間をかけて大事にしたい、て思っちゃって。お姉ちゃんには、初めてにこだわる女なんて男の人に『面倒くさい』って思われるだけだ、て言われるんだけど……でも、私はちゃんと記憶に残したいの。永作くんとの『初めて』は全部……覚えていたいって思うんだ」


 恥ずかしそうに瞳を潤ませ、健気に声を震わせながら語る瀬良さん。

 胸がもうぎゅっと掴まれる。可愛すぎるんですが……! 苦しいほどの愛おしさ。今にも、思いっきり抱きしめたい……けども。同時に、どんどん息が詰まるような感覚に襲われていた。じわじわと首を絞められていくような罪悪感――。


「私……ずっと女子校で、男の人と話すこともあまりなかったの。だから、付き合ったりするのも初めてで……だから……その、本当に初めてなの。キスも、全部……」

「……」


 だらだらと冷や汗が背筋を伝っていくのを感じた。

 つまり……つまり、正真正銘のファーストキスだった、と……。それを俺は、振り返りざまに奪ってしまった、と……!?


「ごめんね、やっぱりそういうの、永作くんも面倒臭い……かな」

「全くもって面倒くさくありません! 大事にしていきましょう!」

 

 思わず、即答してしまった。

 絶妙な角度で頭を傾け――わざとではないのだろうが――浴衣の襟からのぞく白く滑らかな首筋を見せつけるようにして、上目遣いで見つめられたら、そりゃあ即答せざるを得ない。「実はさっき、キスしちゃっててさ」なんて言うタイミングは、遥か彼方。新幹線のごときスピードで過ぎ去ってしまった。

 いまさら、もう言えまい。ここまで聞いてしまって、どの面下げて言えようか。

 なんなんだ、これ。今、俺、最高潮に幸せのはずなのに……? 好きな人と恋人になって、キスして……なんでこんなに後ろめたいの!? 針の筵状態だよ。付き合いたてで、すでに罪悪感に窒息しそうなんだけど。

 でも――。

 ぱあっと花咲くように頰を桃色に染め、「よかった」と嬉しそうに微笑む瀬良さんを見ていたら、これでいいんだ、と思える。

 いきなり、とんでもない秘密を抱えてしまったような気もするが……瀬良さんのためなら、どれだけ刺々しい針の筵だろうと、俺はこの秘密を抱えて座り込んでやる。


「で?」とふいに、気まずそうな声がしたのはそのときだった。「もう話はついたか?」

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