第56話 まだ……だめ?

 ――一緒だよ。


 まだ、耳元に生々しく残るその掠れた声に、ざわりと胸がかき乱される。

 一緒って……つまり、そういうことでいいのか? 本当に、瀬良さんも俺のことを……?

 いや、でも……。こみ上げる期待を何かが必死に押さえ込んでいた。そんなわけないだろ、という声が警鐘のように頭の中に響いている。だって、そうだろ。――俺なんかをなんで、瀬良さんが好きになるんだ?


「まだ……だめ?」とか細い声がして、俺ははっと我に返った。「まだ、足りない? これでも信じてもらえないのかな」


 瀬良さんは視線を落としたまま、自信無げにしゅんと立っていた。そこにいつもの凜とした姿はなく、今にも消えてしまいそうな心許なさが漂っている。その華奢な体がずっと小さく見えた。たった一人、暗闇に残されて、心細く迎えを待っているような……。

 ギリっと俺は奥歯を噛み締めた。

 ――ああ、俺はなにやってんだ?

 燃え盛るような腹立たしさが腹の底からこみ上げてきた。

 瀬良さんが俺なんかを――なんて、いつまで言う気なんだ? 瀬良さんにここまでさせといて……。また、俺は瀬良さんを困らせているだけじゃないか。

 信じるまでもないんだ。瀬良さんは誰とでもキスできるような人じゃない。そんなこと、とっくに知ってる。そんな瀬良さんを好きになったんだろ。

 俺はぐっと拳を握りしめ、


「瀬良さん!」と邪念を追い払うように、高らかに声を上げた。「もし、良かったら、俺と……今度一緒に、ドーナツ屋に行きましょう!」

「へ……」


 顔を上げた瀬良さんは目を大きく見開きぱちくりとさせた。


「ド……ドーナツ屋、さん?」

「はい! 瀬良さんに似合いそうなドーナツ屋があるんです!」

「私に……似合う?」


 瀬良さんはしばらくぽかんとしてから、おずおずと慎重な口ぶりで訊ねてきた。「それは……デートですか?」


 で……デート!? その破壊力抜群の単語に面食らいながらも、俺はぐっと顔を引き締めて答える。


「で……デートです」

「じゃあ」と、瀬良さんはふわりと微笑んだ。「行きます」


 ぱあっとあたり一面が華やぐような……なんて嬉しそうに微笑むんだ。可愛すぎる……! その包み込むような笑みに心が満たされていくのを感じる。まるで温泉にでも浸かったかのようにほっと安堵する――と、今度はじわじわと実感がマグマのように湧いてきて、ぶわっと顔が熱くなった。

 俺……瀬良さんと恋人になったってこと? 瀬良さんが、俺の彼女? てことは、休日、二人で出かけたり……部屋で勉強会とかして、そのまま、流れでキスしたりとか……。

 って、キス――!

 しまった。なんてことだ……。

 ふにゃりと腰が抜けたように下半身に力が入らなくなって、俺はその場に崩れ落ちていた。

 そうだ、瀬良さんとの記念すべき、初キス……あまりに唐突で、もはや全然覚えていない。パニクってたことしか覚えていない。感触とか味とか、全く思い出せない! 

 絶望に打ち拉がれ、俺は愕然として頭を抱えた。

 不意をつかれたとはいえ、瀬良さんの唇をあんなにも粗雑に扱ってしまったなんて。味わうこともなく、あっさりと離すなんて、なんともったいないことを……!

 くそう。思い出せ……! なんとか記憶にかすかでも残っているはずだ。たしか、こうぷにっと柔らかで弾力があって……マシュマロみたいな……?


「どうしたの、永作くん!?」

「いや……瀬良さんの唇がどんなだったか、今、必死に思い出そうと……って、あ、いや!」


 うおおい、元栓閉め忘れか。本音だだ漏れだよ!?

 咄嗟に顔を上げると、いつの間にやらしゃがみこみ、「私も」と照れたように苦笑する瀬良さんと目があった。

 

「私も、すごい緊張してたから。実は、全然覚えてないんだ。――永作くんのほっぺた」

「……ん?」


 ほ……ホッペタ?


「永作くんの言う通りだったな。ケイスケって、すごいね。いきなり唇にキスなんて……私にはできなかった」

「できなかった……?」

「ほっぺたにキスだけで精一杯。だって……」と瀬良さんはいじらしく咲く一輪の花のように、はじらいながらもうっとりと微笑んだ。「初めてのキスは大事にしたいから。勢いでなんてしたくないんだ」


 俺は完成度の低い無残な作り笑いを浮かべて固まった。何か……何かが激しくおかしいぞ?

 まさか……瀬良さん、キスしたこと、気づいていない!? 『ほっぺにチュー』だと思ってる!?

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