第49話 次、ふざけたこと言いだしたら、その全身タイツ破り裂くわよ
ああ、なにやってんだ。
結局、だ。結局、瀬良さんを困らせている。こうしてNG出して、また瀬良さんに――演技とはいえ――悲しい顔をさせることになるんじゃないか。
何がしたいんだよ、俺は?
誰に向けたらいいのかも分からない怒りがこみあげ、どこに向けたらいいのかも分からない焦りに襲われる。どうしようもない腹立たしさに、ぐっと拳を握りしめていた。
いったい、どんな顔をしてたんだろうか。さっきまで憤怒の表情で責め立てていた万里が、急に顔色を変えて心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「なに、あんた……大丈夫?」
ぼそっと囁くように万里がそう訊ねてきたときだった。
「あの!」と重い空気を吹き飛ばすような澄んだ声が響いた。「お腹空きません!?」
瀬良さんが弾けんばかりの笑みを浮かべてそう切り出した。
あまりに唐突で、その場にいた全員がぽかんとしてしまった。
「まあ……そうだな」ややあって、津賀先輩がビデオカメラを下ろして、隣にたたずむ早見先輩に視線をやった。「結構撮ったか。休憩にするか」
「そうね。いい頃合いね。皆、それぞれ夕飯食べてきて。三十分後には戻ってくるように」
撮影の記録を取っていたノートをぱたんと閉じると、早見先輩はちらりと俺を見やった。
「永作は……分かってるわよね?」
「は……? 何を……ですか?」
早見先輩は唇をきゅっと閉じたまま、生い茂る草をざくざくと踏みしめ、俺のほうへと歩み寄ってきた。
なに? なに?
相変わらずの無表情。左目の下の涙ぼくろだけ悲しげで、あとはなんの喜怒哀楽も浮かんでいない。それが、逆に怖い……。
不穏な空気に圧されて後退りそうになるのをぐっと押さえてその場に止まる。その間にも、早見先輩は俺のパーソナルスペースをガン無視でぐんぐん近寄ってきて、つま先が触れ合いそうな距離まで来て立ち止まった。そして、ついっと人差し指を俺の胸元に当て、
「君はここに残って役作り。いい?」
「はいっ……!」
相変わらず、なんなんですか、その絶妙なボディタッチは!?
ぴたりと張り付くような全身タイツの生地を通して、つんと尖った早見先輩の爪の感触が生々しく胸に伝わってくる。痛いような、くすぐったいような、そのわずかな差を責めてくる。
わざと……なんですか!? それとも、天然……いや、天性のものなんですか!?
そんなことされたら、そりゃもう健康な男子なら、条件反射のようにぴしっと背筋を伸ばして威勢のいい返事もしてしまうさ。
「次、ふざけたこと言いだしたら、その全身タイツ破り裂くわよ」
蔑むような眼差しで俺を見上げて、早見先輩はしっとりと湿った声でそう囁きかけてきた。
いや、それはもはや、ご褒美……って、何考えてんだ、俺!? ――去りゆく早見先輩に「あざす!」と言いそうになって、俺はハッとした。
これじゃ、本当に見たままそのもの、変態じゃないか。早見先輩の指先一つに言いように踊らされて……。
しっかりしろ! と、俺は頭を振った。
ついさっき、瀬良さんに性癖がどうのと言われたばかりじゃないか。おそらく、全身タイツのせいであらぬ誤解を招いたに違いないが……これ以上、痴態を晒しては、その誤解を自ら裏付けることになってしまう。
ああ、そうだ。誤解は早く解いておかないと。手がつけられないほど悪化して広まる前に。そうやって、些細な誤解が根も葉もない噂となって知れ渡っていくのを俺は身をもって味わったんだから。
靄がかった思考が晴れ渡ったようだった。頭がようやく働き始め、俺は我に返ったように瀬良さんの姿を探して振り返った。
「瀬良さ……!」
しかし、呼びかけようとして目にしたのは――、
「国平先輩、何食べるんですか?」
「やっぱ、焼きそばかなー。たこ焼きもいいよね」
「一緒に回ってもいいですか?」
「いいよ、行こう」
こちらのことなど気にする様子もなく、国平先輩と並んで歩く瀬良さんの背中。和やかな話し声を響かせ、提灯の光が溢れる参道のほうへと向かう二人の後ろ姿を、俺は呆然と眺めた。
仲睦まじく肩を並べて歩く二人の様子に、お似合いだ、と思いながらも、落胆している自分がいた。寂しい、とも、悔しい、とも違う。敗北感にも近くて、虚無感にも似た……言い知れぬ絶望感。なんだろう、これは。もやもやとつかめない煙に覆われていくような、はっきりしない感情が心の中に蠢いている。
もしかして……とふいに思う。これは――嫉妬か?
――セラちゃんが永作圭ってやつのこと好きなんだって。
そう初めて聞いた時から、そんなわけない、て思っていた。瀬良さんが俺なんかを好きになるわけないだろ、てちゃんと分かっていたんだ。惑わされるものか、て覚悟を決めて、だから瀬良さんにも誓ったんだ。そんなよからぬ噂から瀬良さんを守る、て。
なのに……いつから? いつから……あの噂が本当ならいいのに、て期待してたんだ?
――本心を言えないのはつらいだろう! 気づいたときには遅いのだ。はっはっは。
どこからともなく、そんな憎たらしい妖怪の声が聞こえた気がした。
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