第45話 や……やりたい?

 早見先輩の演説で一気に引き締まった場の雰囲気。いい具合の緊張感の中、食い入るような視線が津賀先輩に集まった。

 それでなくとも、やつれたような痩せた顔に疲労を滲ませ、今にも倒れてしまいそうな顔色を浮かべていた津賀先輩だったが、皆の視線に気づくや、慌てたように咳払いをし、


「よし、始めるか!」


 と、眼鏡の奥の瞳を生き生きと光らせて言い放った。まるで、水を得た魚。虫取りに向かう子供。くるりと身を翻すと、津賀先輩はカメラ片手に意気揚々と皆の先頭を切って歩き出した。


「どこから撮るんだ、みっちー?」

「とりあえず、脚本の流れ通りに撮っていこう」

「じゃあ、まずはアケミとケイスケが鉢合わせるとこからね。どこで撮る?」


 早見先輩はきびきびと、国平先輩はのらりくらりと、それぞれのペースで津賀先輩についていく。そして、その背後を瀬良さんが――。

 遠ざかっていく瀬良さんの背中に、だめだ、と誰かが俺の声で叫ぶのが聞こえた気がした。このままじゃ、本当に瀬良さんが手の届かないところに行ってしまう。波のようにどっと押し寄せてきた不安に背中を押し出されるようにして、俺は駆け出していた。


「あ、瀬良さん……!」


 格好悪く上擦った声で呼び止めると、え、と驚いたように瀬良さんが振り返った。


「ちょっと、話があって……」

「話?」


 向き合った瀬良さんは意外そうに目を丸くして、俺をじっと見上げた。

 吸い込まれそうな瞳に息を呑む。参道に沿ってずらりと掲げられた提灯の灯りが映り込んで、まるでそこに星空でもあるかのようだった。顔を引き寄せ、もっと近くでその輝きを見つめたくなる。もっと、近くで……。


「なに?」


 ――と、ふいに、その瞳が曇った。瀬良さんは訝しそうに目を薄め、見るからに身をこわばらせていた。

 うわあ……。もはや、不審者への態度そのもの。いや、まあ、全身タイツの男に対するものとしては正解か。


「あの……さ」と、しどろもどりになりながらも、なんとか言葉を絞り出す。「この前のこと……謝りたくて」

「この前……」


 ぴくりと瀬良さんの眉が動いたのが分かった。明らかな警戒の色がパトカーのランプ並みに灯っている。


「俺、分かってなかったんだ。どれだけ、瀬良さんが本気なのか。だから、遊びで付き合うならいい、なんて言っちゃって……バカにするつもりはなくて……」


 バスケなんて苦手だし、ぶっちゃけ、体育でやるにしても楽しいと感じたことはない。それでも……瀬良さんのためなら、て思うんだ。瀬良さんの力になれるなら――いや、違う。それは建前だ。そんな善意からじゃない。そこまで、俺はお人好しな隣人じゃない。

 ただ、俺が瀬良さんのそばにいたいだけなんだ。


「俺、がんばるよ! がんばって、瀬良さんと――」

「がんばるって……?」


 ぶつりと俺の言葉を切って、瀬良さんは疑るように訊ねてきた。

 思わぬところで遮られ、きょとんとしていると、


「がんばって付き合うっていうこと? 好きでもないのに?」

「あ……まあ、そう……なるかな」


 まずかった? また、俺は瀬良さんのバスケへの熱い想いを軽んじるような発言をしてしまったのか?


「それって……永作くんはいいの?」


 責めるような声に、俺の心はさらに焦る。だめ……なの?


「俺は……瀬良さんとならいいというか……瀬良さんとやりたい、ていうか――」

「やっ……!?」


 ん? なんだ?

 瀬良さんはびくんと体を震わせたかと思うと、顔を真っ赤にして珍しい昆虫でも見るようにこちらを凝視していた。

 ナニゴト……? まさか、今更この全身タイツに気づいたなんて……あるわけないよな?


「や……やりたい?」と聞き返す瀬良さんの言葉は、人語を覚えたてのロボットのようにたどたどしい。「やるって……その、二人でする……行為のこと、だよね?」


 二人でする行為? ワンオンワン……てやつか? よく知らないが。


「いや、まあ、二人じゃなくても……他にうまい人、誘ってやってもいいと思うよ。俺も大したプレイができるわけでもないし、ポジションもいろいろあるしさ、他にも誰かいたほうが瀬良さんもきっとすぐに上達するよね」

「ぷれい? ぽ、ぽじしょん……? 上達!?」


 はわわ、となんだか良く分からないが、まるで愛らしい小動物の鳴き声のような声を発して、瀬良さんはあたふたと周りを見回し、最終的に両手で顔を隠すように覆ってしまった。


「瀬良……さん?」

「ごめんなさい、永作くん!」

「へ……?」

「お姉ちゃんから……男の人はそういうものだ、て聞いてはいたんだけど、永作くんは違う、て勝手に思い込んでて……だから、びっくりしちゃって。正直、ショックで……どうしたらいいか、分からなかったの。それで、避けちゃってた」

「はい……?」


 いきなり、なんだ?


「遊びで付き合う男もいるよ、てお姉ちゃんに言われたんだ。男を知らなすぎだ、て……怒られちゃった。永作くんは『本気で付き合うのは向いてない』て正直に答えてくれただけなのに……勝手にショック受けて、永作くんを避けて……」


 両手をほんの少しだけ下げると、瀬良さんは心許なげに揺れる瞳をのぞかせ、俺を見つめてきた。「――ごめんね」


 か……可愛すぎる! って、いや、違う違う。

 とりあえず、避けられてた理由は分かったような……分からないような?


「でもね!」と、さっぱり状況がつかめていない俺を置いてきぼりにして、瀬良さんはついと視線を逸らし、まくしたてるように続けた。「私は、やっぱり遊びは嫌なんだ。付き合ったら、もするのも、一応分かってるの。お姉ちゃんから、いろいろ聞いてるし。だから……だからこそね、本当に……本気で付き合ってほしいの。それで、本気で好きになった二人で……二人きりでしたい、て思うの」


 瀬良さんは両手を頬に当てたまま、首まで真っ赤にして、視線を泳がせ、もじもじと細身の体をくねらせて……恥じらう乙女の極限状態。ユリのごとき清楚な姿をそんなに乱れさせられては、こっちの心臓はもう爆発寸前、頭は暴走寸前です。

 いやいやいやいや。

 いかん、と平静を取り戻すためにも視線を逸らす。このままじゃ、本当に全身タイツを着た変態になってしまう。

 ちゃんと聞かなくては。

 悟りの境地にいざゆかん、としたときだった。


「私のせいで気まずくなっちゃったけど……包み隠さず、話してくれてありがとう」いつも通りの、瀬良さんらしい柔らかな声がした。「そういう正直で真っ直ぐなところが、永作くんの良いところだと思う。そういうところが……」


 何かを言いかけ、そして、その声は「でも」と切なげに続けた。


「私と永作くんは違いすぎるみたい。――性癖が」

「せ……?」


 ん? せいへき……? 性癖……て言った!?

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