第44話 クランクインよ、監督
おかしいな。俺はただ、瀬良さんの浴衣姿にやましいことを考えていたわけではない、と……そう言いたかったんだが。何か……違う気がする。脳から口への指示系統で、なんらかの伝達ミスがあったような……。
万里も見たこともないほど愕然としているし……。いつも冷静に物事を見据えている切れ長の目が見開かれ、悪鬼のごとくつり上がっている。
「あ、いや!」ゾッとするほどの嫌な予感がして、俺は慌てて瀬良さんに振り返った。「俺は、ただ、勘違いされたくなかっただけで……」
言いかけ、すぐに俺は言葉を失った。
振り返って目にしたのは、瀬良さんの笑顔だった。――頼りなく、儚げな、どこか陰のある危うげな笑み。今にもふっと煙みたいに消えてしまいそうな雰囲気を漂わせて、瀬良さんは俺に微笑みかけていた。
「大丈夫」と瀬良さんはゆっくりと口を開いた。「もう勘違いしたりしないから」
春の柔らかな光の中、ふわふわとタンポポの綿毛が舞う草原を思わせる――俺の知ってる瀬良さんは、そこになかった。
違う……と思った。俺が隣で見ていた笑顔はこんなんじゃない。こんな笑顔を見たかったわけじゃないのに。なんで? なんで、こんなことになってる?
何かが間違っている。気味の悪い違和感があった。まるでボタンを掛け違えたみたいな些細なズレ。でも、このままじゃ、取り返しがつかなくなるような……そんな漠然とした焦りに襲われる。それなのに、何がおかしいのか分からない。だから、なんの言葉も出てこない。
わいわいと楽しげな声はすぐそこから聞こえてくるのに。祭りの熱気はしっかりとこちらにも伝わってくるのに。ここだけ足元に凍土が広がっているかのように、寒々として、張り詰めた空気が立ち込めていた。息することすらしんどく感じるほどの重苦しい雰囲気の中、
「なにこの空気?」
と、早見先輩が鋭い声で切り裂くように沈黙を破った。
「道広はこういうの苦手なんだからやめてくれる? 胃がものすごい繊細なのよ」
早見先輩は厳しい口調で言ってから、ちらりと津賀先輩に一瞥をくれた。え、と俺たちもつられたように津賀先輩に視線を向ける。
ただでさえ真面目そうな顔をいつも以上に堅くして、津賀先輩は誰もいないのに真正面をじっと見つめていた。黒縁メガネがわずかに震えているように見えるのは目の錯覚か、はたまた……。確かに、キリキリと津賀先輩の胃が悲鳴をあげるのが聞こえてくるようだ。
「いい!?」ぱん、と早見先輩は切り替えるように手を鳴らし、いつもはとろんとまどろむような声を張り上げ、朗々と辺りに響かせた。「遊びに来たんじゃないんだから。夏とはいえ、どこでもいつでもお祭りがやってるわけじゃないの。今夜ここで撮り終えなければ、別のお祭りで残りを撮ればいい……なんて考えは捨てて。お祭りのシーンはクライマックス。重要なキスシーンもある。今夜、全部撮り切るつもりで、気合いを入れていきましょう」
「は……はい!」
なんというリーダーシップ。気質というものなんだろうか。そのオーラに呑まれるようにして、俺や万里、そして瀬良さん、二年生メンバー全員の声がたちまち統制の取れた軍隊のそれのごとくきっちりと揃った。
黒々と艶やかなミディアムヘアを満足げにさらりとはらい、早見先輩は「さ」と津賀先輩へとついと視線を流す。
「クランクインよ、監督」
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