第39話 あれ、花音じゃん
「あの」たまらず、俺は声を上げた。うっかり、誤解を放置するところだった。「魅力も何も……そもそも、瀬良さんは俺のことなんて好きではなく、全部根も葉もない噂なんです」
「え、そうなの?」
長い睫毛をぱちぱちと合わせ、相葉さんはぽかんとしてしまった。
申し訳ない。まさか、こんなかたちであの噂のとばっちりに遭う人がいるとは。考えもしなかった。
「瀬良さんと家が隣で、調子乗って一緒に登校してたら、瀬良さんが俺を好きだ、なんて悪意の塊のような噂が流れ出したんです。瀬良さんの人気に嫉妬した輩が瀬良さんの評判を貶めようと画策したか、身の程を知らない俺への当てつけなのか、分かりませんが」
「ちょ、ちょっと待って。あれ。でも……」と、相葉さんは納得いかない様子で何やら口ごもって、考え込んでしまった。
もはや洗脳レベルで信じ込んでいる? ここまで深くあの噂が学校中に根付いてしまっているとは。しっかり誤解を解かねば。瀬良さんを守る、と俺は誓ったんだ。
「瀬良さんもしっかり俺が特別というわけではない、て言ってましたし! ほんとデタラメなんです」
「そうなの……? そっか」しばらくぽかんとしてから、なぜか、相葉さんは落胆したようにしゅんとしてしまった。「なんだ。じゃあ、私の勘違いだったんだ」
「勘違い……? あ、いや、あの噂を本気にしてるのは相葉さんだけじゃないですし、そんなに気を落とすことでは……」
「あの日……君のとこに連絡先、聞きに行った日の朝さ、屋上から駆け下りてくる瀬良さんを見かけたの。顔真っ赤にして、見たこともないほどニヤけててさ。笑みがこぼれちゃう、て感じ。すごい幸せそうだったんだ。あー、あれが恋する乙女ってやつか……て、うらやましくなったの」
相葉さんが連絡先を聞きに来た日……ああ、そうだ、瀬良さんを拐うように屋上に連れ出した日だ。俺が瀬良さんを守る、と宣言したのもそのとき。でも、そのあと、急に瀬良さんは逃げるように屋上を去ってしまって……何かまずいことをしてしまったのではないか、と不安になったんだ。――だから、意外だった。
「すごい……幸せそうだった……んですか?」
今度は俺がぽかんとしてそう訊ねていた。
「瀬良さんっていつもすましてるじゃん? お嬢様、て感じ。気取ってるとは言わないけど、ちょっと近寄りがたいくらい。そんな子をあんなデレデレにしちゃうなんて、どんな奴なんだろ、て興味わいたの。それで、君を知りたいと思ったんだ。君の魅力が分かれば、私もちゃんと幸せな恋できるのかな、なんて思ったんだけど……」
幸せな恋? ――心ここにあらず、といった様子で語る相葉さんがどこか寂しそうに見えて、独り言のように呟いたその言葉が気にかかった。それ以上、口を噤んで黙り込んでしまった相葉さんに、何かあったんですか、と訊ねていいものか、考えあぐねていると、
「あれ、花音じゃん」
ふいに、誰かがそう声をかけてきた。
その瞬間、ハッとした相葉さんの顔は青ざめ、あきらかに表情が硬くなった。凍りつく――まさに、それだった。
振り返る様子もなく、固まってしまった相葉さんの代わりに視線をやると、そこにはブレザーの制服を着た同い年くらいの男子学生が立っていた。さっぱりとした短い黒髪で、縁無しメガネをかけ、秀才のイメージを絵に描いたよう。そういえば、そのブレザーの制服も知ってる気がする。このあたりで有名な進学校のそれだ。つまり……未来のエリート。
「なに、お前もデート?」
「真〜?」と甘えたような猫なで声が彼の背後からして、同じような制服を着た女子学生がひょいっと顔を出してきた。「なにー? 知り合い?」
「ほら、前に話したじゃん。元カノ」
え、と思わず大声を出しそうになって、その衝動ごと俺はごくりと呑み下した。
元カノって……元カノって、そんなスキャンダラスな単語、俺にとってはドラマとか漫画の中の単語でしかない。
そうか。それで、相葉さんはこんなに居心地悪そうにうつむき、手を震わせて――て、いや、明らかに様子が変だよな。元彼と会ったらそりゃ気まずいものなんだろうけど、それにしたって、動揺しすぎじゃないか。相葉さんのこの様子はまるで怯えているような……。
「相葉さん?」
不安になって声をかけると、相葉さんはきゅっと口を引き結び、いきなり立ち上がった。ドーナツもまだ半分以上、皿に残したまま、「行こ」とだけ言ってカバンを持って元彼の前を通り過ぎていく。
「おい、花音? 無視かよ」
品行方正たるエリート――とはかけ離れた品のない薄ら笑みを浮かべ、元彼は吐き捨てるように相葉さんの背中に向かって言った。
甘い香りが漂うドーナツ屋に、およそふさわしくない不穏な空気。なんだ、これ。肝がすり潰されそう。いつも以上に存在感を消すように息を殺し、俺もそそくさと席を立って、二人に会釈だけして相葉さんの後を追った。
「ああ、あれが例の?」と何か良からぬ含みをもたせて言う声が背後でした。
「――そう、バカノン」
バカノン?
思わず振り返ると、真とかいう元彼は空いてた席にさっさと座って、彼女らしき連れと話し始めていた。やはり、好感の持てない微苦笑を浮かべて……。
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