第40話 大丈夫、ですか?
「相葉さん!」
ドーナツ屋を出て、歩道を競歩並みのスピードで突き進む相葉さんになんとか追いつき、息も絶え絶え声をかけた。
ふわりと柔らかそうなウェーブがかった髪が揺れ、相葉さんはぴたりと足を止める。
そこで、俺はハッとした。――声をかけたはいいが……どうするんだ!? 何を言い出すつもりだったんだ、俺は!?
「あの……」
当然ながら、言葉に詰まる。
流れる人混みの中、俺と相葉さんだけがじっと立ち止まっていた。
「ええっと」
気の利いた言葉をひねり出そうとするが、当然ながら何も出てこない。乾ききった雑巾並みだ。絞り出そうにも水滴一つありゃしない。
焦りばかりが募っていく。
「ちょっと待てよ!」なんて時代遅れなトレンディドラマでも気取るつもりか。そういうのは輝くようなイケメンがやるから様になるんだ。俺がやってもウザいだけだろう。似合わないことをするもんじゃない。不相応もいいところだ。
でも……それでも、やっぱり放っとけなかったんだ。さっきの相葉さんの様子が――怯えたように顔を青くして俯く姿が頭から離れなくて。
ああ、そうだ。聞くべきことは一つじゃないか。
俺はふうっと息を吐き、努めて落ち着いた声で訊ねる。
「大丈夫、ですか?」
すると、びくっと相葉さんの肩が小さく震えたのが分かった。ややあってから、「うん」とか細い声がした。
「ごめんね」と振り返った相葉さんの笑顔はどこか堅くて、無理しているのがすぐに分かった。「さっきの、中学んときの元彼なんだ」
「中学の……」
「真くん、て言うんだけど。超頭良くてさ……最初の頃、仲良くなりたくて、勉強聞きまくってたの。分かるとこも分からないフリしてさ。いつも超優しく教えてくれて大好きだった」
ぼんやりと懐かしむように相葉さんは語り始めた。長い髪を一房つまんで、くねくねといじりながら。
微笑ましい慣れ初め……のように思えるが、さっきの雰囲気を考えると「そうだったんですか、ヒューヒュー」なんてノリで相槌打っていいものではなさそうだ。いったい、どんな顔で聞いていればいいんだ。とりあえず、「なるほど」とだけぎこちなくつぶやいた。
「付き合ってからも、よく勉強教えてくれてたんだけど……ある日、聞いちゃったんだ」急に髪をいじっていた指先をぴたりと止め、相葉さんは見るからに沈んだ表情を浮かべた。「偶然、学校でね。真くんが友達に私のこと『バカノン』って言って馬鹿にしてるの……聞いちゃって……」
「あ……」
つい、声が漏れていた。
バカノン――耳に生々しく残るその言葉が、ぐさりと胸に突き刺さった。
「もちろん、すぐ別れたんだけどさ。そのあと付き合った人にも半年くらい浮気されてたのに気づけなくて」
ぱっと顔を上げ、相葉さんは恥ずかしそうに笑った。パタパタと手を振り、「だからだったんだよ」と続ける。「男を見る目ないっていうかさ、今まで誰と付き合ってもロクなことにならなくて。瀬良さんがなんで君を好きなのか分かったら、私も見る目が養えるのかな、なんて思っちゃって――って、もうその考えがバカなのかな。やっぱ、私がバカだから……」
「いや、相葉さんはバカじゃないですよね!?」
自然と、そんな言葉が口から飛び出していた。心からそのままぽろりと転がり落ちてきたかのように。考えるより先に、出てきていた。
相葉さんは大きな目をパチクリとさせ、俺を食い入るように見つめていた。
あれ。空気読んでなかった? 考えなしに流れをぶったぎるようなことを言ってしまったのか?
しかし、もう言ってしまったなら突き進むしかない。たとえ、進む先が斜め上だとしても……。
「だって、ほら」と俺はあたふたといらぬ身振り手振りを交えながら、弁解するように続けた。「さっきの……瀬良さんとの件でのアドバイスも的確でしたし、もう目から鱗というか。ちょっと俺の話を聞いただけで、あそこまで分析できるなんてすごいことですよ!」
「そう……?」
「そうですよ! 相葉さんはバカじゃないんですから、バカだって言われても気にする必要ないですよ」
いつのまにか、両手で拳を握りしめ、ガッツポーズしながら熱く語っていた。
通り過ぎていく人々の目が痛い。そして……相葉さんの眼差しはもっと痛い。まるで突き刺さるようだ。キラキラと澄んだ瞳にじいっと見つめられ続けて、そろそろ身体のどこかが火を噴きそうです。何か……せめて、何か喋ってください。
「あの……相葉さん?」
おずおずと呼びかけると、相葉さんは我に返ったようにハッとして、
「ごめん、ちょっとびっくりしちゃって」上擦った笑い声を響かせて、相葉さんはふいっと顔を前に向き直した。「そんなこと、初めて言われたから……」
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