第二章

第30話 やっぱり、何かあったのね

「明日から夏休みだが、浮かれないようにしっかり勉強しろよー」と、ひょろりと痩身の中年男――担任の窪田が、なんとも気合いの入っていない声で言った。「高二の夏休みが、一番重要だからな。ここで怠けたやつが、来年泣くぞ」


 クラスの熱い視線が集まる中、窪田は、パシン、と軽く教卓を叩き、「じゃ、解散」と締めくくった。

 その瞬間、わっと歓声のようなものが湧き、我先に、と皆が教室から飛び出していく。

 高二の一学期が終わった。なんともあっけなく。

 明日から夏休み。青春のイベント目白押し。そりゃあ、皆、はしゃぐわけだ。ここで浮かれなかったやつが、二十年後くらいに泣くのだろう。

 しかし、その中で俺は一人、席を立つ気力すら湧かず、ぼんやりと座り込んでいた。開放感も興奮も何も無い。あるのは、虚無感のみ。

 はあ、と重いため息つくと、コツンと頭を突つかれた。


「ほら、部室行くわよ」


 振り仰げば、見慣れた端正な顔立ちの美少年――いや、万里が苛立たしげに顔をしかめて俺を見下ろしていた。


「もー、なんなのよ。いつになくアホヅラなんだけど。もう夏バテ?」

「いや……別に」

「しっかりしてよね。夏休み中に、撮影始まるんだからさ。今日は大事な打ち合わせよ」

「あー……」


 そういえば、そんなことを前に言われたような。まあ、別に、夏休みも何か予定があるわけでもないし。俺のスケジュールはガラ空きだ。もう何でもどんとこいだ。

 のっそりと腰を上げた俺に、万里は疑わしげな眼差しを向けてくる。


「なんだよ? ちゃんと行くって」

「そういうことじゃなくてさ……」と、なにやら曖昧に言葉を濁し、万里は短い髪を一束、指先にからめた。「あのさー……あんまり詮索するのとか好きじゃないから聞かなかったんだけど……あんた、印貴ちゃんと何かあった?」

「え……何か、て……」

「ここ一ヶ月くらい、あんた変よ。何かあったんじゃないの?」


 俺は何も言えずに閉口した。

 バレバレか。端から見ていて分かるって、相当だよな。そんなにあからさまだったのか。恥ずかしいやら、情けないやら。

 自覚はあった。何をしていても気が乗らないというか。何をやっても気分が晴れない。気づくと、瀬良さんのことばかり考えている。何か答えが出るわけでもないのに、あれやこれやと考えて、そのたび、もやもやと陰鬱とした気分になって自己嫌悪。その繰り返しだった。


「やっぱり、何かあったのね」


 してやったり、という感じでもなく、万里は呆れたようにため息ついた。


「印貴ちゃんも、いきなり弓道部入っちゃうし、あんたの話しても反応が変だし。何かあったんだろうな、とは思ってたのよ」


 そう。映研にあんなに興味を示していた瀬良さんは、ある日、突然、弓道部に入部したのだ。弓道部の面々はもちろん大喜びで歓迎し、瀬良さんの麗しくも凛々しい袴姿に校内の男子達は大興奮。ただ一人、俺を除いて。

 虚をつかれたとでも言えばいいのか。あまりにいきなりで、俺だけぽつんと置いていかれたような気分だった。

 部活どうしよう、と瀬良さんによく相談されていて、前の学校で弓道部だったのも聞いていた。前と同じ部活にしようか、新しいことを始めようか、と迷っていたのも知っている。そんな話をしながら、駅前まで歩いていたんだ。までは――。


「最近、印貴ちゃんと会ってる?」


 ぐさっとその問いは俺の心に槍のごとく突き刺さった。ぐらりとふらつきそうになるのをぐっとこらえ、俺はふいっとそっぽを向いた。


「会ってるも何も……前だって、偶然、朝、出くわしてただけで、待ち合わせしていたわけでもなし」

「やっぱり、避けられてるんだ」

「おほおっ!?」


 あまりに容赦ない言い草に、変な声が出た。


「さけ……避けられてる!?」


 ばっと振り返ると、万里の凍てつくような冷たい眼差しが。


「避けられてるんでしょ」


 何てやつだ。そんなにはっきり断言しなくてもいいだろう。

 気のせいだ、と思っていた。瀬良さんに避けられている、と考えることさえ自意識過剰な気もしたし。毎日のように会えていたのは、ただ、家が隣で、学校に行くタイミングが一緒だったから。それだけなのだから。ちょうど、弓道部に入ったタイミングだったし、朝練でもあるのだろう、と思っていたんだ。

 しかし……。


「偶然、廊下で出くわしても、目を逸らされるんだ」

「避けられてるんだものね」

「お前に言われた通り、連絡先も渡したんだが、メールもラインも一向に来ない」

「避けられてるからね」

「回覧板をウチに届けに来てくれたときも……」

「だから、避けられてんのよ!」


 万里は俺の耳をひっぱり、これでもかというほどその事実を鼓膜につきつけてきた。

 やはり……やはり、そうなのか!

 足元がふらつき、俺は近場の机に両手をついた。だらりと冷や汗のようなものが背中を伝っていくのを感じる。自分でも驚くほど、ショックを受けていた。

 避けられている。瀬良さんに避けられている。


「なんで……だ?」

「こっちのセリフよ! あんた、何したの? 印貴ちゃんがそこまで避けるって、よっぽどのことしたんでしょ」

「よっぽどのこと……」


 机の木目をじっと眺めながら、俺は記憶の中で瀬良さんの姿を捜した。ここずっと、気まずそうに俯く瀬良さんの姿ばかりだ。話しかけて確かめる勇気もなくて、気のせいだと自分に言い聞かせて、俺は見過ごしてきた。当然のように、また瀬良さんと話せると思っていたのがそもそも思い上がりなのだ、と自戒しながら。

 でも、どうしても物足りなさがぬぐえなくて。心にぽっかり穴が空いたような、満たされなさがまとわりついた。そして、毎朝、期待してしまう。玄関を出たら、そこに瀬良さんがいるんじゃないか、て。ふわりと春風のような、あの柔らかな笑みをまた見られるんじゃないか、て。

 そうして、期待と落胆を繰り返して一ヶ月。現実に向かい合わなくてはならないときがきたんだ。

 瞼を閉じれば、まざまざと浮かび上がる。薄暗い部屋の中、うっすらと差し込む夕陽。心細そうに身を縮こまらせる瀬良さんの切なげな表情。その朱色に染められた頰に伝って落ちていった涙……。

 机の上に置いた手でぎゅっと拳を握りしめた。


「俺は……瀬良さんを泣かせてしまった」

「はあ!?」

 

 すっかり誰もいなくなった蒸し暑い教室に、万里の呆れ返った声が響き渡った。


「めっちゃ避けられる心当たりあるんじゃないの!」

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