第27話 永作くん、お父さんの匂いがする

「そこは、ね。お話だからね」


 幼い子供をなだめるようにやんわりと瀬良さんはそう言った。その優しい声色に胸がくすぐられる。保育士さんにデレデレする子供の気持ちが分かった気がした。


「本当にこんな急にキスされたら、びっくりしちゃうだろうけど。でも、それでも、私はグッときちゃった。良かったーて嬉しくなったよ。アケミの気持ち、よく分かるからかな」

「アケミの気持ち?」


 やんちゃというか、粗暴というか。男勝りなアケミのキャラクターと、瀬良さんはかけ離れているように感じたが。瀬良さんがこの役を演じるのが想像できないほどに。

 ちらりと視線をやると、瀬良さんは寂しそうな笑みをその横顔に浮かべて、台本を見つめていた。


「恋してるときって、皆、こうなっちゃうよね。素直になれなくて、本音が言えなくなっちゃって、思ってもいないことしちゃったりして……好きだ、ていう一言が口にできない。あまのじゃくに取り憑かれたみたいに……」


 そう……いうもんなのか。

 どうしよう。まったく共感できない。ということは……俺は恋したことが無い、ということか。なんだろう、この虚しい気持ち。

 うーん、と眉間に力がはいる。初恋の思い出すらないというのは、さすがに……。


「万里ちゃん、すごいよね」

「万里?」


 急に出てきたその名前に、俺はハッと我に返った。


「なんで、万里?」

「だって、このお話書いたのって万里ちゃんなんでしょ?」

「え!?」と、すっとんきょうな声が飛び出していた。「そうなの!?」

「知らなかったの?」

「全然……。どうせ、また部長が変な宇宙人ものを書いたのとばかり……」


 あ、とそのとき、ようやく納得した。通りで、宇宙人の気配すらなかったわけか。確かに、あの部長にこんな恋愛ものが書けるとは思えない。でも、だからといって、万里がこれを書いたというのもにわかに信じられんが。


「へえ」と素直に感心していた。視線が自然と再び台本へと落ちる。


 万里がねぇ……。確かに、主人公の粗暴な感じは万里に近い気もするが、恋愛なんて興味ないかのようなあいつが、最後にキスしちゃうようなベタな恋愛映画を考えるとは。人は頭の中で何を考えているか分かったもんじゃ無いな。

 小さいころからあいつを知っている身としては、感慨深いものがある。思わぬ才能を垣間見たというか、意外な一面を知った気分で、ついぼうっと台本を眺めてしまっていた。

 自分が書いたんだ、とあいつなら自慢してきそうなものなのに。なんで何も言ってこなかったんだろう。照れくさかったのか、自信がなかったんだろうか。

 いつの間にか、しんと部屋は静まり返って、瀬良さんが隣で身じろぎのようなものをする気配がした。


「あの……あ! そういえば、私……お茶もなにも出して無かったね!」


 急に、お茶?


「いや、もうさっき、蘭香さんからいただいたんで――」


 そう断ろうと振り返った瞬間だった。ちょうど立ち上がった瀬良さんが「あ」と力ない声をこぼして、よろけた。そのままバランスを崩し、倒れかかってきた瀬良さんを、俺は思わず抱き止めた。ぎゅっと……思わず。

 はっと気づいたときには、瀬良さんの背中に手を回し、胸の中にその華奢な身体を閉じ込めていた。

 瀬良さんの髪が頬をくすぐり、瀬良さんの息遣いを首筋に感じた。少しでも顔を動かしたら、どこか肌が触れてしまいそうで、俺は凍ったように前を見つめて固まっていた。

 手のひらに感じる骨ばった背中の感触と、身体全体に伝わって来るやわらかなぬくもり。ほんのりと漂う甘い香りに包まれて、俺の中で何かが狂わされていくようだった。

 だからだろうか。すみません、とか言って、身体を離して、土下座でもするべきなのに。離したくない、と思ってしまった。

 どれくらい、そうしていたんだろう。やがて、「あの」と苦しげな声がした。


「永作くん……」


 その瞬間、ざわっと全身が粟立った。

 何やってんだー!? と思いっきり頭をハリセンでパシーンと叩かれた気分だった。いや、もはや叩いてください。


「すみません!」


 夢から覚めたように俺の身体は俊敏に飛び退き、するりと正座して頭を下げていた。恥ずかしやら、申し訳ないやら。顔、見れない。

 変態! とか怒られるかな。今朝、俺を信じて、とか偉そうに言っといて、どさくさに紛れて抱きしめてしまうとか……最低だ。そんなつもりは無かったんだ。倒れてきたから、支えただけで。やましい気持ちがあったわけでは……!

 でも、なんだろう。この後ろめたさ。手に残る感覚が――瀬良さんの背中をしっかりと抱きしめた感触が――罪悪感を煽る。あの一瞬、ただの『事故』の一言で済まされない、何か意思と言えるものが俺の中であった気がする。まるで、何かに突き動かされたような……取り憑かれていたような――。


「永作くん……」


 ふいに、か細い声が聞こえて、俺はぎくりとして「はい!」とさらに頭を深く下げた。そのまま、判決を待つ罪人のような気分で項垂れていると、クスッと笑う声が聞こえた。


「永作くん、お父さんの匂いがする」

「は……」


 ぽかんとして顔を上げれば、瀬良さんがちょこんと座って笑っていた。頰を赤く染め、恥ずかしそうに視線を逸らして。


「お父さんのにおい……って、あ」


 赤いパッケージの怪しげな全身シャンプーが脳裏をよぎった。


「『赤穂の恵み』……」


 ぽつりと俺はつぶやいていた。

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