第23話 妹のこと、よろしくね

「印貴ね、こっちに引っ越すまで、中高一貫の女子校に通ってたの。親の方針でね。あたしは中学受験でそこ落ちちゃったから、ずっと共学で自由にやってきたんだけど。印貴は共学の学校通うの、小学校以来なんだ。だから、男の人のこと、よく分かってないところがあってさ。心配してたの」


 そうだったのか。俺は呆然と、蘭香さんの話に聞き入っていた。

 意外というより納得していた。周りが瀬良さんを祭り上げるように大騒ぎする中、瀬良さんは特に気にする素振りもなく、どんなに注目を浴びようと、たとえ俺との妙な噂が流れようと、常に自然だった。そんなのは慣れっこだから気にも留めていないのか、とも思っていたが……もしかしたら、ただ気づいていなかっただけなのかもしれない。男子達のへの警戒心が養われていなかったのだとしたら、有り得る。

 なんて危険なんだ。

 無防備なガゼルを、ハイエナの群れの中に解き放っているようなものだったのか。


「無垢というか、無知というか。あたしもいろいろと教えてあげてはいるんだけど、分かってるんだか分かってないんだか」と、蘭香さんは腕を組んで悩ましげに苦笑した。「そういうところにつけこんでくる奴らもいるからさ。君の話を聞いたときも不安だったの」

「お……俺は、決して、瀬良さんの純粋な心につけ入ろうなんて、考えたこともありません!」

「うん。今日、君に会ってそれが分かったよ。いい子そうで安心した」


 ふわりと――やはり、瀬良さんのように蘭香さんは微笑んだ。


「妹のこと、よろしくね」

「は……はい」


 あれ。思わず、はい、と言ってしまったが。よろしく……? よろしく、てどういう意味だ? 具体的に、俺は何をお願いされたんだろう? お隣さんとして、これからもよろしくーーということで良かっただろうか。なんか、話の流れ的に違うような気もするんだが……。

 混乱している俺をよそに、蘭香さんは「さて、と」とさっさと切り上げ、どこか清々しい表情で立ち上がった。


「そろそろ、いいかな。圭くん、今度こそちゃんと暖まった?」

「あ」と慌ててティーカップをローテーブルに起き、俺も立ち上がった。「そうですよね! 長居してすみません! これ……スウェット、洗って返します」

「いいの、いいの。サイズもちょうど良さそうだし、圭くんにあげる」

「え!? でも……」

「元彼が置いていったやつだし、うちにあってもパパが着ちゃうだけだから。気にしないで」

「も……元彼さんの……」


 余計、もらいずらいのだが……いりません、とも言いづらい。

 お父さんはこれが娘の元彼のだと分かってて着ちゃっているのだろうか。百八十近くある俺でもゆったり余裕のある紺のスウェットを見下ろしながら、俺は言い知れない感傷に陥った。


「ほらほら、ぼさっとしない。おいでおいで」


 お父さんの心情を想ってしんみり佇んでいると、ぐいっと腕を掴まれ、そのままリビングから連れ出された。

 さっきまでのんびり話していたというのに。それが嘘のような急かし方だ。もしかして、蘭香さん、このあと何か用事があったのか? そういえば、夜はバイトがあるとか言ってたし。本当は急いで出かけなきゃいけないのに、俺が暖まるまで待っててくれた? 俺が冷水かぶって煩悩と闘っていたせいで、実は遅刻ギリギリ? 情けないほどに、申し訳なさすぎる!


「すみません、蘭香さん! あの……俺、もうさっさと出て行くんで。玄関まで送ってもらわなくても――」


 言いかけ、俺ははたりと言葉を切った。

 リビングを出て、廊下をまっすぐ。右に玄関、というところで、蘭香さんは方向転換。左にある階段へと俺を引っ張っていく。


「あの、玄関はあっちじゃ……」


 しかし、蘭香さんは振り返りもせずに、俺の腕を掴んだまま、軽やかに階段を上っていく。なんだろう。このデジャブな感じ。同じようなことが、今日あったような……。

 脳裏によぎるのは、体操着姿の小柄な後ろ姿。ポニーテールに結った黒髪が波のようにたゆたっていた。

 そうだ。瀬良さんも、こんな風に有無を言わさず、半ば強引に俺を保健室に連れて行ってくれたんだ。

 やっぱ、姉妹なんだな。つい、頰が緩んだ。似ているのは外見くらいかと思ったけど――そういえば、瀬良さんも大胆なところがあったな。


「なにニヤついてんの?」


 おもしろがるような蘭香さんの声に、俺はハッとして顔を引き締めた。


「なにも浮ついたことは考えておりません!」

「そーですか」


 ふふ、と笑って、蘭香さんは俺の腕から手を離した。ちょうど、階段を上ってすぐ。目の前にある部屋のドアを背にするようにして、蘭香さんはくるりと身を翻した。口元にはうっすらと笑みを浮かべ、何か企んでいるような挑発的な眼差しで俺をじっと見つめてくる。それだけでゾクゾクとして、落ち着かない。これはなんだ? この無言の圧力。これが、もしかして、色気ってやつなのか……。

 てか、この状況はなんなんだ? この雰囲気は何事なんだ? なんで、俺、二階に連れてこられたの? 早く帰らないと、瀬良さんと鉢合わせてしまう。

 そわそわする俺をよそに、蘭香さんはゆっくりと唇を開いた。


「さっき、二人っきり、て言ったでしょ」

「はい?」

「あれね、嘘なの」

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