第19話 お風呂、沸かしといたよ

 なんてこった。なんで、こんなことに?

 お隣さんの門の前で、俺は着替えを詰めたビニール袋を片手になすすべもなく立ち尽くしていた。

 待たせるのは申し訳ない、と慌てて家に帰って制服を着替え、こうして来たものの。本当にいいのか? 

 岸田さんだったら……このままピンポン押して、風呂借りて、岸田のじいちゃんとセンベエかじりながら談笑して、さようなら。シンプルかつ円滑にことがなされていたはずなのだが。

 ここは……この家は、もう岸田さんの家ではない。ピンポン押しても、ハゲ散らかした陽気なじいちゃんは出てこない。出てくるのは……。

 ごくりと生唾を飲み込んだ。

 すぐ目の前にあるインターホンが何キロも先にあるように感じる。押せない。押すことを考えるだけで気が遠のく。

 もし……もし、瀬良さんが出てきたら――。想像しただけで、心臓がはち切れそうだ。なんて言えばいいんだ? どんな顔して挨拶すればいい? 『や、お風呂入りに来たよ』なんてどんだけ爽やかに言ってもキモイだろう!

 そもそも、Tシャツとジャージ姿でお邪魔していいものなのだろうか。ダサいだけならまだしも……これから、風呂をお借りするという身でこの格好はどうなんだ? TPO的にどうなんだ? お父さんが出てきて、『お前みたいなやつにうちの風呂は貸さん!』とか怒鳴られちゃったりしない? いや、でも、風呂入るだけなのにジャケットとか着てても変だし。浴衣なんて、頭の中、お祭り騒ぎか、なんて思われそうだし。っていうか、風呂を借りるような装いってなんだろう? 風呂借りる人ってどんな格好すんの? そもそも、風呂って借りていいものだっけ? 岸田さんとは家族ぐるみで長い付き合いだったから、なんでも貸し借りしてたけど……瀬良さんとはまだ知り合って数ヶ月だし。

 そもそも、瀬良さんは? 瀬良さんは……嫌だよな?

 だめだ。やっぱり、おかしい。瀬良さんが嫌がるようなことをしてまで、俺が風呂に入る必要はない。人間、一日くらい、風呂入らなくても死にはしないんだ。それよりも、瀬良さんと同じ風呂に入ることを考えただけで何かが爆発しそうで――。


「帰ろう!」


 ばっさりと思考をやめ、くるりと身を翻したそのときだった。


「なーにしてんの?」


 晴れやかな声が突如として、降ってきた。


「すみません!」


 思わず、俺は振り返って頭を下げていた。頭の中に後ろめたいことが山ほどありすぎて、反射的に身体が謝っていた。


「なに謝ってんの?」と、その声はコロコロと鈴を鳴らすように笑った。「そっか。君が例の『永作くん』ってわけだ」


 例の?

 そうっと顔を上げ、声のほうを振り仰ぐと――、


「中、おいで。お風呂、沸かしといたよ」


 二階のベランダから、その人はこちらを見下ろしていた。手すりに頬杖ついて、落ち着いた笑みを浮かべて。肩にかかるかどうかの茶色い髪は、夕日を受けて赤々と焼けたように煌めき、遠くからでもはっきり分かるその真っ白な肌によく映えている。

 全く同じではない。それでも、その賢そうな顔立ちや儚げな雰囲気はよく似ていた。まるで、瀬良さんみたいだ、と思った。

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