第8話 だから、印貴、がいいの

「いつから、そこにいたんだ、万里?」

「そりゃ、もちろん、最初から。おもしろそうだったから、追いかけてきちゃった」


 階段室の扉からひょっこり姿を見せたのは、万里だった。にやにやとけしからん笑みを浮かべている。どれだけ大人っぽくなろうと、その笑顔は幼稚園のときから変わらんな。


「乃木さん……ずっと、聞いてたの? 全部? どこから?」


 瀬良さんは急に焦りだしてあたふたと万里に畳み掛けた。なにを慌てているんだろうか。聞かれてまずい話なんてしていたっけ?


「ごめんね〜。盗み聞きするつもりじゃなかったんだけどさ、かといって、お邪魔するのも気が引けて。つい、隠れちゃった」


 万里は手をパタパタふりながら、そう言ってこちらに歩み寄ってきた。


「てか、幼馴染として心中お察しするよ。こいつ、ほんとアホだよね!」

「いきなり、何を言うんだ!?」


 しかも、瀬良さんの前で!?


「自覚ないんだから、ほんと厄介よね」


 やれやれ、とでも言いたげに、万里は肩をすくめてため息ついた。


「いつでも相談乗るから言ってね。瀬良さん」

「ええ!? そんな……相談なんて……」


 ぶわっと瀬良さんの頬が花咲くように赤らんだ。

 いったい、なんの話をしているんだ? なんの相談だ? なにやら、二人の間で俺には分からない会話がなされているようだ。


「さて、と。ホームルームも始まっちゃうし、その前に……」


 そこまで言って、万里はすうっと息を吸い込み、びしっと頭を下げた。


「さっきは、調子に乗ってごめん!」

「へ」と瀬良さんと俺の声がかぶった。それだけで、ちょっとドキッとする俺は確かにアホかもしれない。

「瀬良さんがウチの部に興味あるって聞いて嬉しくなっちゃって、つい。私って直情型っていうか、熱くなると周りのこと考えられなくなっちゃうんだよね。瀬良さんってシャイっぽいし、あんな目立つことされて嫌だったよね?」


 きりっとした目で瀬良さんを見つめ、ハキハキと潔く謝る姿は、男気があるというか。そういえば、小さい頃から、万里は堂々として義理堅くて誰よりも男らしかったな。ガサツなとこもあるけど。


「そんな……大丈夫だよ! 気にしないで。ただ、私、ヒロインにふさわしいとは思えなくて……」

「何言ってんの!? イメージにバッチリだよ! てか、ふさわしいもなにもないし。興味持ってくれたんなら、それで十分! どんな理由であれ、ね」

「そう、なのかな」

「そうそう! 気兼ねなく、部室に遊びに来て。入部はそれから考えてもいいんだから」

「うん、ありがとう。乃木さん」


 かなり蚊帳の外だが。どうやら、解決したらしい。

 二人はすっかり打ち解けた様子で微笑み合っている。女子はいきなり団結力のようなものを発揮するよな。それをぼうっと突っ立って見守る俺の所在無さよ。


「あ、そうそう。私のことは万里でいいよ」


 思い出したように万里はニッと笑って言った。


「万里……ちゃん。素敵な名前だよね」

「変な名前、て言っていいよ。親が新婚旅行で万里の長城行ったんだって。だからって、直球すぎだよね。ひねり無さすぎ」


 ああ、クスクスと笑う瀬良さん、いとおかし。いつもの名前ネタで瀬良さんのいい笑顔を引き出した万里と万里の親御さんに、拍手を送りたい。


「瀬良さんは……印貴、だっけ。印貴ちゃん、て呼んでいい?」


 当然のようにそう訊ねた万里だったが、瀬良さんは一瞬、眉をひそめた。明らかな抵抗が見て取れて、万里も何か感じ取ったのだろう、「あ、ごめん」と口をゆがめた。


「いきなり、馴れ馴れしかった?」

「ううん! あまり下の名前で呼ばれることなかったから、新鮮で……」

「ふーん。まあ、確かに呼びづらいっちゃ呼びづらいかな。珍しい名前だよね」

「うん」と瀬良さんはうつむき、ぎこちない笑みを浮かべた。「いつもからかわれてばかりで」


 からかう!? 瀬良さんをからかうような不届きものが!?

 ぎょっとする俺とは違い、万里は「まあ、あるよねぇ、そういうの」と何やら納得していた。


「じゃあ、セラちゃん、とかにする? セーラとか?」

「ううん、いいの!」と、瀬良さんはぱっと顔を上げ、力強く言った。「前はね、名前、あまり好きになれなかったんだけど……今は、いい名前かも、て思えるようになったんだ。だから、印貴、がいいの」


 なんて穏やかに笑うんだろう。つい、その横顔に見とれた。

 降り注ぐ朝日で、ぼんやりと瀬良さんの身体が光を放っているようにさえ見えた。傍にいるだけで心が癒されるような、優しく朗らかなそのオーラ。ガードが緩んで、ニヤついてしまいそうになる。

 ――と、不意にこちらを見た瀬良さんと目があった。

 ガン見してたの気づかれた!? うわあ、と焦る俺以上に、瀬良さんはかあっと顔を赤くして慌てふためいた。


「違うの! 別に、永作君に『女神のような名前』て言われたからとかじゃなくてね!」

「そーんなこと言いましたね、俺!? すみません! 決してからかったわけでは! 本当にいい名前だと思いまして! 許されるならば、印貴、て何万回でも呼びたくなります!」

「ふわあああ!?」と、よく分からない言葉を発して、瀬良さんはそっぽを向いてしまった。


 まずい。まさか、名前を気にしていたなんて。そうとは知らず、軽はずみなことを言ってしまった。いや、本当に……本当に、からかったんじゃないんだ! 瀬良さんの類稀な美しさによく合った、神秘的な名前だと思ったんだ!


「それじゃあ、さ」と、呆れたような冷静な声がした。「圭も、印貴、て呼んであげればいいじゃん」

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