第9話 俺が瀬良さんを守ります!

「なに言ってんだ、万里!? そんな恐れ多い!」

「あんたが言ったんじゃん」と、万里は腕を組んで、鋭い眼差しで俺を睨みつけてきた。「何万回でも呼びたいんでしょー」

「言葉の綾だ! 何万回も呼んだら、うるさいだろう!」

「もうすでに、うるさいけど」

「そもそも、下の名前で呼んでたりしたら、また変な誤解を呼んでしまうだろ!?」

「別にいいじゃん。誰が何を言おうと」

「俺は何言われてもいいがな、瀬良さんが困るだろうが」


 そう。これ以上、俺は瀬良さんの名を傷つけるような真似はしない。瀬良さんを守ると決めたんだ。風評被害から。

 万里はどこか疑うような視線を俺に向け、ふっと不敵な笑みを浮かべた。


「へえ、そうなんだ。圭に『印貴』って呼ばれると困るの、印貴ちゃん?」

「ひぇっ!?」


 突然話を振られ、瀬良さんが隣で愛らしい声を発した。


「そんな……困るなんてこと……! 永作君に名前で呼んでもらえたら、私は嬉しい」


 ひゅうっと風が吹いて、それに誘われるように横に滑らせた視線の先で、瀬良さんはほんのわずかに微笑んでいた。まどろむようなとろんとした目でどこか宙を見つめ、うっすらと柔らかに口元を緩めて。

 ぞくりと心が震えるのが、自分で分かった。


「あ!」と、目が覚めたようにハッとして、瀬良さんはこちらを振り返った。「違うの、別に、永作君が特別、てわけじゃなくてね!」

「も、もちろん、分かっておりますとも! 社交辞令ですよね!」


 ぐっと拳を握りしめ、俺は声を張って断言した。動揺がバレるんじゃないか、と内心焦りながら……。

 瀬良さんの笑みがあまりにも慈愛に満ちて、『嬉しい』――そんな単純な言葉が、心を揺さぶるほどに甘く響いた。そこに深い意味でもあるんじゃないか、なんて勘違いしそうになるほどに。

 身の程知らずもいいところだ。偶然、隣の家になって、奇跡的にお近づきになれただけだというのに。あくまで、ご近所付き合いの延長線上。

 瀬良さんの心のこもった社交辞令を本気にしそうになるなんて、『お隣さん』失格だ。


「安心してください、瀬良さん! 俺は絶対に瀬良さんを名前で呼びません! これ以上、変な噂で瀬良さんが嫌な思いをすることがないよう……俺が瀬良さんを守ります!」

「……あり……がとう」


 瀬良さんは呆然としながら、ぽつりと言った。


「あんたたち、反対車線を全速力ですれ違ってる、て感じね」


 予鈴が鳴り響いたのは、ぼそりと万里がそんなことをつぶやいたときだった。


「あ」と間の抜けた声を漏らした俺の傍らで、「じゃあ、私、先に行くね!」と瀬良さんはこちらに目線もくれずに身を翻した。


「万里ちゃんも、またね!」


 すれ違いざま、万里にそれだけ言って、瀬良さんは屋上を後にし、階段を駆け下りて行った。

 引き止める理由もないのだが、あまりにあっけなく去っていく瀬良さんの後ろ姿に、つい、声をかけてしまいそうになった。

 あっという間だった。まるで、逃げるような……そんな勢い。

 え。待って。あれ。俺、何かした……?

 唖然とする俺をよそに、万里は「なーるほどねぇ」とため息まじりにつぶやいた。


「噂の出所が分かった気がする。印貴ちゃんって演技は下手そうねぇ」

「なに……?  噂の出所って……なんだよ、急に? 何が分かったんだ?」

「べつにー」と万里は唇をとがらせ、つまらなそうに言った。「あんたみたいなアホには教えてやらない」

「なんでアホには教えないんだ!? 俺はアホではないけども!」

「あんたはアホよ。すごいまっすぐなアホよ」ぶつくさ言って、万里はくるりとこちらに背を向けた。「だから、好きになったんだよ、きっと。分かっちゃうから、腹立つ……」

「なんのことだ? なんの話なんだよ? なんで腹立ってるんだ?」

「もー、ほんとうるさい!」


 ことごとく無視されながらも、階段を下りていく万里の背に、俺は執拗に問いかけ続けた。

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