第6話 拐われちゃった

「瀬良さん!」


 慌てて、俺は瀬良さんの手を取り、教室を飛び出していた。無我夢中というか。五里霧中というか。何も考えてなかった。

 とにかく、瀬良さんを困らせたくなくて。瀬良さんに嫌な思いをさせたくなくて。その一心だった。

 助けたい――と、思ってしまった。


「身の程をわきまえず、すみません!」

「ええ、なにが?」


 雲ひとつない青空の下、俺は土下座をせんばかりの勢いで頭を下げて謝っていた。 


「どさくさに紛れて手を……手を握ってしまいました!」


 そう。俺はもう……瀬良さんに合わす顔がない!

 勢いで教室から連れ出したものの、意外とすぐ冷静になって、自分がしでかしたことの重大さに卒倒しそうだった。

 手のひらに感じる、ひんやりと冷たく滑らかな肌触り。「永作君」と背後から聞こえる息荒く戸惑うか細い声。

 俺、なにしてんの!? と、心の中で俺の全細胞が叫んだ。

 こんな状況に対処したことのない俺の脳は早々にシャットダウン。俺にできることといったら、黙ってそのまま人のいないほうへと、瀬良さんの手を引いて走り続けることだけだった。

 そうして、たどり着いた屋上で、俺はすぐさま手を離して振り返り、全身全霊をこめて謝罪した。まだ生々しく手に残る瀬良さんの柔らかな感触に良心をかき乱されながら。

 しかし。なかなか瀬良さんからの返事がない。もういっそのこと、「手汗、あり得ないんだけど」とかなんとか罵倒してくれたら、思いっきり土下座して楽になれるのに。そんな自分勝手なことを考えながら、俺は頭を上げることもできずに、じっと瀬良さんの言葉を待っていた。


「うん」ややあってから、瀬良さんはぽつりと言った。「永作君の手、力強くてびっくりした」


 障害沙汰!?

 ずざあっと罪悪感に胸が斬り裂かれたようだった。


「すみません! 痛い思いをさせてしまって!」

「あ、ごめん! 違うの、そういう意味じゃなくて。なんか……ドキドキした」


 不整脈を起こさせてしまった!?


「休憩もいれずに、階段、駆け上っちゃいましたもんね!?」

「ええ!? そうじゃなくて! 映画みたい、ていうか」

「そーですよね! まるでゾンビ映画のような怖い思いをさせてしまって!  ゾンビ映画って、屋上のイメージありますよね!?」


 おちつけ、俺―! パニクりすぎて、会話が我を失っているぞ!


「さあ……ゾンビ映画、見たことないから」


 瀬良さんらしからぬ、ずんと沈んだ声がした。

 疲れてる!? 呆れてる!? さらに、はあっとため息が聞こえて、ぞっと背筋に悪寒が走った。

 今まで別段、話が合うというわけでもなかったが、それでも、瀬良さんと二人でいるとき、会話が途切れることも、気まずい雰囲気になることもなかった。

 それが、今。今、とてつもなく重い空気が漂っているのを肌で感じる。

 屋上にさあっと風が吹き抜けていった。

 このまま、あっけなく終わるんだろうか。瀬良さんとの朝の穏やかな時間。玄関前から駅前までの、俺たちのほんのひとときの『ご近所付き合い』。

 それは、嫌だ――。


「あの、瀬良さん……!」

「ごめんね、永作君! 私、実はゾンビ映画どころか、映画ほとんど見たことないの!」


 自分でも何を言おうとしたのか分からない。でも、何かに突き動かされるように顔を上げ、そして、思わぬ瀬良さんの告白に俺ははたりと固まった。

 風になびく黒い髪。それをしなやかな指先でさらりと耳にかけながら、瀬良さんは頬を赤らめ、今に泣き出しそうな切羽詰まった表情で俯いていた。

 なんだろう、この感じ。この……ぐっと胸にくる衝動。目の前の瀬良さんが、すごく儚くて心許なく思えて……。また、その手を掴みたくなってしまう。そうしないと、どこかに行ってしまいそうで――焦る。


「やっぱり、ダメだよね! 映画、全然詳しくないのに。邪な気持ちで部活入ろうとして……」

「邪な気持ち?」


 瀬良さんの口からそんな単語が出てくるなんて。

 俺があっけに取られていると、瀬良さんははっとして弾かれたように顔を上げた。


「あ、違うの! 永作君と放課後も一緒にいたくて、同じ部活に入ろうと思ったわけじゃなくて」

「もちろんです。瀬良さんがわざわざそんなことしなくても、俺なんか珍しい生き物レアキャラでもないんですし、いつでも会えるんですから」

「そう……なの?」

「そう……ですよね? お隣だし、何かあればいつでも呼んでください! 味噌でも塩でも貸します!」

「そうなんだ……」


 瀬良さんはぱちくりと瞬きして、潤んだ瞳で俺をじっと見つめてきた。まるで子供のような無垢な眼差しを向けられて、俺は居た堪れなくなって、目をそらしてしまった。

 俺のほうなんですよ、瀬良さん。俺のほうこそ、邪な気持ちがいっぱいです! 俺も十七歳男子。瀬良さんの手に触れただけで、今夜、どんな夢を見るか分かったもんじゃないんです。


「まあ、あれですよね! 人前で会ったりするのは……避けたほうがいいですよね。あの噂を助長するようなことは控えないと、瀬良さんにいらぬ心労をかけてしまいますから」


 今朝みたいに――と言おうとして、俺は「あー!」と叫んでいた。


「すみません、瀬良さん! 俺、とんでもないこと……! 皆の前で瀬良さんを拐ってしまいました!」


 何をしてんだ、俺は!? あんな注目の中で、瀬良さんの手を引いて教室を飛び出すとか……自らあの噂に尾ひれ背びれをつけて放流したようなもんだ。

 おかしいだろう。意図せずとも地味で目立たず、何をしても背景と化す俺だったのに。なぜ、いきなり青春映画の主人公みたいな大胆なことを。

 俺は瀬良さんといると……らしくないことばかりだ。まるで、何かに取り憑かれてしまったかのように。

 もう気味悪がられて避けられてもいいくらいだろうに、それでも瀬良さんはいつものようにまっすぐに俺を見上げてクスリと笑った。


「そうだね。拐われちゃった」

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