第3話 俺、ちゃんと分かってるから

 そんな彼女――瀬良さんとの運命的な恥ずかしい出会いから一ヶ月。


「部活は決めた?」

「んーん。まだ。迷ってて……」

「いつもいろいろ誘われてるもんね。どこの部活行っても、瀬良さんなら大歓迎されるよ」


 照れたようにはにかむ瀬良さんの横顔に見とれながら、俺はぐっとこみ上げてくる幸せを噛み締めていた。

 ありがとう、まじでありがとう、父さん。あの家、買ってくれてありがとう。

 こんな何気ない会話を瀬良さんとできるのも、お隣さんだからだ。ご近所付き合い、最高! そうでなかったら……。

 転入してくるなり、その美貌と人当たりの良さで、瞬く間に学校のアイドルとなった瀬良さん。最初の一週間は、瀬良さんのクラスには一目彼女を見ようと見物人が押し寄せていたものだ。彼女が体育の授業で運動場に立とうものなら、全てのクラスの窓が開く。そんな熱狂ぶりだった。

 一ヶ月経って、さすがに落ち着いてきたけど、それでも、毎日、どこかで男子の口からは「今日の瀬良さん」が囁かれる。

 背だけ高くて、それ以外はパッとした特徴もなく、一人だけ解像度が低いかのようにクラスの中でもぼんやりとした存在の俺。中学の卒業アルバムも、クラス写真以外は「俺かな?」ていう見切れた写真一枚くらいしか載っていなかった。そんな俺が、こうして瀬良さんと一緒に登校できるなんて。お隣さんじゃなかったら、夢の中でも有り得たかどうか。俺の妄想のキャパを軽く越えている。

 もし、隣に住んでなかったら、俺は学校で瀬良さんと「おはよう」の一言を交わすことさえ叶わなかったことだろう。まして、変な噂が立つようなことなんて――。


永作ながさく君は……」


 ぽつりと頼りなげな声が聞こえて、俺はハッとして「はい!」と振り返った。瀬良さんが言うと「永作君」もなんて甘美な響きになるんだろう。全国の「永作君」に聞かせてやりたい。


「なんでしょう!?」

「永作君は映画研究部……だったよね?」

「そうそう。だらだら映画見るだけの部活」

「映画見るだけなんだ?」

「たまに作るよ。変なの」

「『変なの』?」


 口許に手を置き、ぷっと吹き出すその様さえ、なんと優雅なことか。平安時代だったら、この瞬間を思い描くだけで俺は一生分の和歌を詠める気がする。


「気になるな」微笑を浮かべ、ふっとそうつぶやいてから、瀬良さんは「あ」と咄嗟に俺を見上げた。「違うの、永作君が作る映画だから気になる、ていう意味じゃなくて」

「もちろんです!」


 ご心配なく、と心の中で付け加えて、俺は手をぴしっとあげた。

 瀬良さんはホッとしたような、気まずそうな、ぎこちない笑みを浮かべた。また気を使わせてしまったようだ。妙な噂のせいで! 一体、誰なんだ。不名誉な噂で瀬良さんを困らせようなんて神をも恐れぬ不届きものは。

 憤慨し、わらわらと沸き立つ怒りを拳に感じていたときだった。

 ふいに、誰かの笑い声が聞こえてきて、俺はぴたりと足を止めた。

 ちょうど、もうすぐ駅前という路地の角。夢のような朝の甘いひと時の終わりだ。


「ここでお別れです」今にも瀬良さんの手を引き、来た道を戻りたい衝動をぐっと押さえて俺は言った。瀬良さんの手に触れる勇気もないが。「お気をつけて」

「あの……さ」と、瀬良さんは言いづらそうに苦笑を浮かべて、ちらりと角の向こうを見やった。「ずっと思ってたんだけど……学校、一緒なんだし、ここで別れなくてもいいんじゃないかな。クラスも隣なんだし、その……学校まで一緒に行かない? 前みたいに……」


 ぎゅうっと胸元が締め付けられるようだった。

 もじもじとそんなこと言われたら……もう……もう、それだけで充分です! 妄想が爆発してしまいます。

 じーんと感動に酔いしれていると、「あ」と瀬良さんの慌てた声がした。


「違うの! もっと永作君と一緒にいたい、とかそういうんじゃなくて」

「あざす!」と頭を下げると、「ええ、なんで?」と瀬良さんはぎょっとした。

「いいんだ、瀬良さん。大丈夫! 俺、ちゃんと分かってるから」

「分かってる? なにを……」

「瀬良さんの気持ちです!」


 ビシッとそう言い、頭を上げると、顔を真っ赤にした瀬良さんとばちりと目があった。清らかな水を溜め込んだかのような澄み切った瞳が俺をじっと見つめていた。どこか、期待しているような熱い眼差し……に思えた。

 その期待に応えましょうとも。


「噂、聞いたんだ。瀬良さんが俺のこと好きだ、て噂」


 瀬良さんはその瞬間、びくっと肩を震わせ、それでなくても大きな目をぱっちりと見開いた。明らかな動揺を見せて、「えっと……それは……」と視線を泳がせる彼女に、俺は「でも、大丈夫!」と力強く言い放った。


「そんな噂、俺は絶対信じない。心配しないで。俺はちゃんと瀬良さんの気持ち、分かってるから」

「は……い?」

「誰がなんでそんな噂を流したのかは知らないけど……そんな噂が流れちゃってるのは事実だからさ。刺激しないように、一緒にいるところは見られないようにしたほうがいいと思うんだ」

「あの……永作君……」

「この先の駅前のとこから学校の奴が増え出すからさ、ここで別れるのがベストなんだ。だから、ここで別れよう!」


 三歳からここに住んでる土地勘を駆使しても、人目につかずに駅前から学校まで行くルートは思いつかなかった。悔しいが……ここまでが限界だ。そこの角を瀬良さんと一緒に曲がることは俺にはできない。瀬良さんを……瀬良さんのイメージを守るためには、俺はここで立ちどまらねばならない。これ以上、あらぬ誤解を招くような行動は慎まなくては。

 瀬良さんが俺を好きだなんてよからぬ噂は、俺が全力を持って風化させてやる。

 

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