第10話 王の寝室
言い知れぬ馥郁たる香りが鼻腔に充満して、カノエは幸せな心地の中にいた。
瞼を通して柔らかい陽射しが差し込んでくる。
朝なのだと悟るが、もう少しこのまま、寝床の中にいたいと思うカノエだった。
握り締めたつるつると滑る布地は、誰かの衣のようだった。
そっと目を開けると、そこには窓から差し込んできた朝の光に照らされた王の寝顔があった。自身の長い黒髪に埋もれて、安らかな寝息を立てている。
優美さと厳格さを宿す眉、高い鼻梁、象牙色の頬に落ちる黒く長い睫毛。端正な唇。カノエの胸は一瞬熱くなった。
カノエが枕から頭を擡げると、アルジェは目を開けた。
昨晩、邪険にされたのを思い出して、カノエは身を固くした。
「階段が見つからなくて、俺……廊下で寝てしまって……」
「よい。帰りたくなかったのであろう? 望まなければ、階段は現れない」
夢の中のような話だ、とカノエは思った。
だが、アルジェが神秘の王だということは、不死の丘の者なら誰でも知っている。
アルジェはどこから見ても二十代半ばの美しい青年だが、実年齢はオドと変わらないらしい。
王族だけが継承する秘伝があって、アルジェは受け継いだ力で里人に恩恵をもたらしてくれるのだ。
神聖不可侵の、恐れ多い存在として崇められる王なのに、自分ときたら、だらしない寝姿をさらしてしまった。
オドやグラーネに叱られる。
カノエは落ち着かない気分になり、ベッドから降りようとびくびくしながら端に寄った。何せ錦の布団だ。
ベッドは支柱に金箔が貼られ、天蓋が襞を作っている。
「どこへ行く?」
アルジェが問う。
「帰るんです」
「また廊下を彷徨うことになるやもしれぬぞ」
「それでも、帰らないと。アルジェ様に悪いし、父や母に叱られます」
「朝餉にも付き合えぬと言うのか?」
「寂しいんですか? それとも、ご飯を食べさせてほしいんですか?」
「何?」
語気を強めたアルジェに、カノエはびくりと身を震わせた。
アルジェは迫力があって、彼が少し不機嫌になっただけで部屋の空気が瞬時に変わる。
見ると、カノエの発言に、入口に控えていた髪を結い珊瑚で飾った煌びやかな装いの侍女達が袖で口元を抑えて絶句している。
「俺、何かいけないことでも言いましたか? 王様だから、一人じゃごはんを食べられないのかと思ったんですが……」
アルジェは無言だった。
そんな中、入口で控えていた侍女達が運ばれて来た膳を受け取り、ベッドの上に用意し始めた。
二膳あって申し訳ないのだが、アルジェから睨み付けられて居たたまれないので、カノエはどさくさに紛れて部屋を出ようと急ぎベッドの下に揃えてあった靴を履こうとした。
即座にアルジェから引き戻されたカノエは、アルジェの膝の上に座らされた。さすがに赤ん坊ではないので必死に抵抗するが、アルジェは離さない。
アルジェは腕から抜け出そうとするカノエを押さえこんで、箸を取った。
野菜料理をつまんでカノエの口に運ぶと、同時にカノエの腹が空腹を知らせた。
カノエは真っ赤になりながら、仕方なく運ばれた料理を咀嚼した。
頬が落ちそうなほど美味しかった。朝食であっさりしているとはいえ、さすがは王が食する料理だ。
感心する傍らで、頭上で小さな笑いを零すアルジェが癪だ。
だが逃れようにもアルジェの力は意外にも力強かった。
解放してくれるまで、カノエは込み上げる屈辱に耐えることにした。
「ところでお前は昨日、城の医務室にいたと言っていたが、何故だ? あちこちに怪我をした痕跡があるが……」
「話せば長いです。洗濯の時に川に落ちて、流されたんです。そこを、交易に向かううちの人達の隊商が通りかかって、護衛のユーリン将軍に助けられて……」
「不幸中の幸いだったな。この寝室は疲労や傷の回復を早める力が作用している。しばらくいるとよい」
「いいえっ、帰らないと……みんな心配して……」
心配して、いるだろうか。
オドはきっと心配している。
けれど。
それ以上の思考を停止しているのは、やはり認めたくないからだ。
アルジェの言う事が本当ならば、階下に降りる階段が現れないのは、きっと、そのせいだ。
カノエは頭を横に振って、悲観的な考えを振り払い、アルジェの腕の中から逃れて、ベッドから飛び降りた。
後ろを振り返ると、アルジェは寂しそうな顔をしていた。否、しているように見えた。
アルジェは凍て付いていて彫像のようだが、カノエには少なくともそう感じたのだった。
「また来ます。貴方の寂しさが紛れるのなら」
カノエが口にした言葉に、さして感銘を受けた風でもなく、アルジェは鷹揚に眉を上げた。
さらにはアルジェは小首を傾げて、台詞が頓珍漢だと弄うようなそぶりを見せる。
「幼い子供の言葉は、理解に苦しむ。行け」
「言われなくても!」
カノエは部屋を飛び出し、昨日と同じように階段を探して走り回った。
アルジェの侍女達はカノエを案じて寝室を出ようとした。
「階段が見つからなければ、また戻って来る。それだけのことだ」
箸を置いて、アルジェは窓の外を眺めた。
しばらくして建物から駆け出した少年の姿を発見すると、肩を竦めた。
「ふむ。餌付けできなかったようだな」
「子供にはやはり菓子でしょう」
布団の上に放り出された卵焼きを始末をしながら、侍女は言った。
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