第9話 アルジェ

 

 夜になった。

 交易品を積んだ不死の丘の隊商は、街で宿泊した。

 カノエは荷馬車の中にいた里人と同じ部屋に泊まった。

 夕食後にユーリンから呼び出されて、カノエは部屋を訪ねた。

 川を流れてできた傷はまだ生々しいが、薬湯が効く頃には、もう皆を心配させないくらいには、動けるようになっていた。

 ドアを叩くと、奥で入れと声がして、カノエはドアを開けた。

 部屋の中にはベッドに腰を掛けている軽装のユーリンがいた。足を揉み解している。壁には武具が立て掛けてあった。

「カノエといったな。もう体はいいのか?」

「はい。最初は腕を骨折をしていると言われていましたが、そんなことはなく、痛みを鎮める薬湯ももらったので、傷も痛くないです」

「腕を見せてみろ」

 言われるまま、カノエはユーリンに近寄った。

 ユーリンは足を揉むのを止めて億劫そうにカノエの腕を取り、袖を捲り上げて腕を観察した。

「骨折はしていた。だが短い時間で回復したんだ。我々とは体の造りが違うからな。普通なら死んでいるような事故かもしれない」

「体の造りが違う……?」

 問う眼差しのカノエに答える代わりに、ユーリンはカノエの顎を捕らえた。

 脳裏に荷馬車で感じた時の恐怖が押し寄せてきて、カノエは身を竦めた。

 カノエが露骨に警戒していても、ユーリンは全く意に介さない。

「本当に、器量だけならロシスのところの妃候補も顔負けだな。伽でもさせたいが、お前はどうも、人として育てられているみたいだな。人形の自覚がない。生意気な目をしている」

「いくら偉い人でも、言っていいことと悪いことが……俺は、人形じゃ……っ」

 ユーリンの手から離れようとすると、突き飛ばされ、カノエは床に倒れた。

 鎮痛剤が効いているとはいえ、岩にぶつかってきた体だ。少しの衝撃でも応えた。

 起き上がれずに床で体の痛む場所を押さえて呻いている姿を、ユーリンは傲然と眺めていた。

 忘れていた痛みがぶりかえして、カノエは悲鳴を上げそうになった。

 だが皆が心配するので、咄嗟に唇を噛んで声を堪えた。

 額に脂汗が浮かべて苦しむカノエが意識を喪失させるのを見届けてから、ユーリンは立ち上がった。

「痩せ我慢なんかするからだ」

 吐き捨てると、ユーリンは床に倒れたカノエを抱き上げて、ベッドに放り投げた。

 そして面倒臭そうに旅嚢から小箱に入った丸薬を取り出してから、テーブルの水差しから杯に入れた水を口に含んで、再びカノエの元に向かう。

 丸薬をカノエの唇の中に無理矢理押し込んでから、ユーリンはカノエに口付けて口に含んだ水で流し込んだ。

「我が家に伝わる秘薬だ。これで帰り着くまで痛みを忘れて眠り続ける。有難く思え。人形ごときに贅沢過ぎる処方だ」 

 翌朝。カノエが眠っている間に隊商は取引を終えて、里に向かっていた。

 隊商は日没前に帰還した。使用された荷馬車は城塞の車庫に入れられ、カノエは取引で得た荷物と一緒に城の中へ運び入れられた。

 配下の兵隊に訊かれて、ユーリンはカノエを医務室へ運ぶように命じたのだった。

 医務室に運び込まれて、ベッドに寝かされたカノエは、薄く目を開けた。

 見慣れない天井と、簡素な造りだが、家のものよりも格段にいい寝心地の布団に違和感を感じて起き上がる。

 棚に薬瓶が並ぶ光景を見渡しながら、恐る恐るベッドを降りた。

 誰もいない部屋から外に飛び出ると、磨き抜かれた板張りの長い廊下が続いていた。

 廊下の窓を除くと、地面が随分下にあり、高い建物の中にいることがわかった。

 遠くを眺めると、豆粒代の家々に明かりが点っていた。その中に、カノエが住んでいる小さな家がある。サウスの家もある。

 カノエは混乱した。今いるここは、普段家の庭先から見上げている王の城だ。

 どういう経緯で城に訪れたのか、記憶の糸を辿る。

 川に流されて、運良く交易に向かう途中の不死の丘の隊商に拾われ、手当を受けた。

 宿泊先で隊の警護に当たっていたユーリン将軍の部屋を訪れて、細かいやり取りがあったが、忘れてしまった。ユーリン将軍から突き飛ばされたような気がする。それから記憶が途切れている。

 助けてくれたのはいいが、ユーリン将軍はぞっとするほど冷たい一面を持っていた。

(偉い人間は、身分の者を人形というのか……おっかないなぁ)

 心細くて、オドのところに帰りたくて、抱き締めてもらいたくて、カノエは階下に向かって走った。

 痛みはすっかり消えている。ぐっすりと眠ったのもあって、体がいくぶんか治癒したのだろう。腕の擦り傷もすっかりかさぶたになって、もう剥がれ落ちようと浮き上がっている。

 カノエは長い廊下をずっと走り回ったが、階下に行く階段がどこにも見当たらなかった。さっきからぐるぐると同じところを回っている。

 もう一周、廊下を回ったその時だった。

 角を曲がる時に人にぶつかり、カノエは尻餅を付いた。

 見上げると、薄暗がりの廊下に、深沈とした闇のような、ゆったりとした漆黒の衣を纏った背の高い男がいた。アルジェだ。侍女を数人連れている。

 カノエは言葉が出ずに、口をぱくぱくさせた。

「オドの息子か。迷い込んだのか?」

「いえ、俺も事情はよく……医務室から帰るところなんです。階段を探していて……アルジェ様、階段はどこに……」

「控えよ。王に案内役をさせるつもりか?」

 供の者が一様に気色ばむ。

 アルジェも少々不機嫌そうに顔を顰めた。

「あっ、いえっ、滅相もないですっ」

「では自分で探すがよい。邪魔だ、猫。退かぬのなら蹴飛ばすぞ」

 アルジェは冷たく言い放ち、カノエに退くように顎で示した。

 カノエが慌てて廊下の端に飛び退くと、アルジェは去って行った。

 それから、再びカノエは階段を探し始めた。

 魔法でもかかっているのか、階下へ降りる階段は、いくら探しても見つからなかった。

 帰り道がわからずに途方にくれたカノエは、廊下に座り込んで壁に凭れた。

 そうだ。薄暗いから見つけられないのだ。夜が明けたらきっと見つかるはずだ。

 カノエは自分にそう言い聞かせて、眠り始めた。

「──猫はまだそこにおるのか」

 寝室の文机で書き物をしていたアルジェが言った。

 カノエが眠りこけたのは、アルジェの寝室の側だった。

 アルジェの侍女が寝室から様子を見に出て来て、眠りこけているカノエを抱いてそっと王の寝室にさらって行った。

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