第8話 ユーリン

 

 数週間後。

 オドを仕事に送り出してから、

 小川のせせらぎと、春の光のきらめきの中で、グラーネとカノエは並んで洗濯をしていた。

 カノエはこの時間が嫌いではなかった。冬場は別だが。

 グラーネと一緒にいられる時間だから。

 オドといる時と違って、カノエと二人の時、グラーネは寡黙になる。

 カノエはグラーネの喜ぶことを考えた。

 グラーネが探してくれたイサイ家の令嬢の話相手の仕事もうまくこなして、彼女が満足するように努めた。彼女の自慢の息子になりたいと思うカノエだった。

「グラーネ、今日はね、サウスと──」

「さっさと盥を持って行きな」

 予定が詰まっているのだろう、グラーネの声は険があった。

 カノエが最後の洗濯物を盥に入れて、それを持ち立ち上がった。

 その時、二人の目の前によその洗濯物が流れて来て、カノエは気を取られた。

 何故だか背中が揺れて、カノエはそのまま盥ごと川に落ちた。

 流れが急で、どんどん下流に流されて行く。

 その辺の岩に掴まろうとしたが、無理だった。水を吸った衣服が重くて邪魔をする。

 必死に息継ぎをするためにカノエは水面から顔を出した。

 そこには抜けるような青空が空しく広がっていた。

 実はカノエには小さな頃から抱いている疑問がある。

 でも、深く考えずに、そのまま心の奥にしまってある。

 深く考えたら、きっと発狂してしまう。

 最後の最後まで信じていたいものを、手放してしまう勇気はない。

 だから、叫び出したいような哀しい気持ちと一緒にしまってあるのだ。

 水の中でもがいているうちに、カノエは徐々に力が尽きていった。

 下流の水の流れがおだやかになった場所で、カノエは岩に引っかかっていた。

 昼下がり、不死の丘の行商の一団が川沿いを通過した。

「あれ、人がいる!」

 里人の声で、隊列を警護していた騎士が三騎、馬で土手を降りた。

 騎士の中に、マントを羽織った金髪の青年がいた。

 眉目秀麗で仏頂面のその青年は、他の騎士がカノエを検分するのを見守った。

「溺死体か?」

 青年が訊く。

「いえ、ユーリン様、息があります──ん? この子供、見覚えが……」

「オドのところの息子じゃないか? 城の門番の」

 二人の騎士が言うのを聞いて、青年はカノエに近寄った。

 いささか高慢なエメラルドの瞳で、カノエを見下ろす。瞳を縁取る睫毛も金色だった。 

「荷馬車に乗せろ。連れて行く。それしかあるまい」

 騎士の二人は馬から降りてカノエを介抱した。 

 交易で売られる特産品が載せられた幌付きの荷馬車の隅に乗せられたカノエは、同行していた救護班の手当を受けた。

 カノエは水は飲んでおらず、ただ気を失っているだけだった。

 流れて来た時に追った傷で、体は打撲や擦過傷だらけとなった体には包帯が巻かれ、毛布でくるまれて痛み止めの薬湯を飲まされた。

 荷馬車の中には近所に住まう者もいて、カノエは里人に救われたのだとすぐに悟り、安堵した。

 洗濯の際に川に落ちたのだとカノエが説明すると、皆カノエを気の毒がった。

 目的地に到着すると、幌の外の空気が変わった。

 異国の言語が聞こてきたり、嗅いだことのない料理の匂いが流れ込んでカノエの五感を刺激した。

 隊商を護衛している馬上の誰かに追いついて、幌から影が見えた。誰かと話し込んでいる。取引相手のようだ。

 馬上の人物が話ながら幌が開いた。

「容態はどうだ?」

 カノエの様子を見に来たのだ。燦然と輝く金髪の、峻厳な美貌の青年だった。王の側近で軍を指揮する将軍の一人で、確か、ユーリンといった。

 ロシス将軍やリリア嬢の家のような代々将軍職を務める家柄の子息だ。

 遠目でしか見たことはなく、言葉を交わしたことなど勿論ない。ロシスと同じで雲の上の人間だ。

 何かの行事の行軍で初めてユーリンを見た時、カノエはまるで黄金と象牙で彫られて、瞳にはエメラルドがはめ込まれた眩しい彫像だと思った。間近で見ると、本当にその通りだった。

 気圧されたカノエに代わって、一緒にいた里人が返事をした。

 ユーリンと話込んでいた商人らしい人物が、幌の中のカノエを見て目を丸くする。

「はぁあ……こりゃあ、また、随分と綺麗なお小姓で……お許しくださるのなら、言い値で買い受けますが」

「里の者だ。商品にはできない」

 呆れ顔でユーリンは言うと、今一度、カノエの顔をじっと見つめた。

 カノエはユーリンの緑色の瞳を見て、呼吸が止まりそうになった。彼から逃れようと反射的に床を蹴ってしまい、荷箱にぶつかった。

 一瞬、カノエの頭の片隅で暗い森と対峙する人物の光景が震撼して、掻き消えた。

 里の者達が震えるカノエを宥めにかかる。

「カノエ、しっかりしろ。ちゃんと家に帰してやるから。ユーリン様、この子はまだ意識を取り戻したばかりなので、きっと不安定なんですよ」

「そのようだ。刺激してしまったな」

 顔を引き攣らせたままのカノエに、ユーリンは妙に納得してから、幌を閉じた。

 

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