運命を変える 前編

 高校卒業後、1年間の浪人を経て俺は遠方の大学に進学し一人暮らしをしていた。


 浪人生・大学生の頃の俺は人に語れないくらいに落ちぶれていた。


 月見里への想いを断つために、文字通り手段を問わなかった。誠実さも道徳性も捨てて、嘘を平気でつき、自分勝手に生きた。


 いろいろ得られたものはあっても、自己嫌悪もそれだけ積み上がっていった。それでも俺は、大嫌いになっていく自分自身を満たすために、方法を選ぶことをしなかった。


 本当にいろいろあったが、このことについて俺は誰かに話すつもりはない。



*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*



 そうした生活が続き、卒団してから4年が経った大学3年生の夏のことだ。


 夏休みに帰省して実家に戻ってきていた。


 俺の机の上にはKSからのOB・OGへの手紙が置かれてあった。卒団してからそろそろ5年も経つんだなと懐かしい気にもなりつつ、俺は手紙を手にとった。


 来年のKSの定期演奏会は節目となるようで、曲目もなかなか大変なものになることは想像がついた。だがそれでも俺は少し驚くこととなった。


 ベートーヴェン作曲 交響曲第5番


 日本では『運命』とも呼ばれて有名なこの曲は、俺にとって少しだけ思い入れのある曲であった。


 オーケストラとしては海外演奏旅行、その年の定期演奏会に次いで3曲目の演奏であった。


 俺が高校1年生の定期演奏会、つまりは卒団の2年前のことだ。この年にKSはドイツから演奏旅行に来たオーケストラ団員達とジョイントコンサートを行ったのだ。


 彼らは『運命』を弾く予定であったが、本番2日前に3楽章と4楽章はKSのメンバーも一緒に参加したらどうかという話に急遽なった。


 あまりにも急な話であったため、KS全員がちゃんと弾けるかどうかは怪しかった。そこで楽譜を見て演奏できると判断できる中学生以上が参加することとなったのだ。


 本番前日のリハーサル、いくら練習したからってほぼ初見で臨むこととなったこの練習で、隣になったのはドイツ人のお姉さんであった。KSメンバーのペアは全員、ドイツからのオーケストラメンバーなのだ。


 立ちはだかるのは言語の壁であったが、音楽はそれを超えるのだと、俺は海外演奏旅行以来、再び知ることとなった。


 隣から聴こえる洗練され、迫力あるヴァイオリンの音、周囲は音楽の渦そのもので、自身のヴァイオリンの音もそれに混じっているという一体感。そこに明確な言語はなく、あるのは1つの巨大な意思だった。


「Did you play for the first time?」


「い、いぇす」


「Your playing was good!」


「せんきゅー」


 1回通しで弾き終わったあと、隣のお姉さんから俺にも伝わるよう英語での褒め言葉を受け取るのだった。


 その後も細かい部分を練習していき、指揮者はドイツ人であったため言っていることはわからなかったが、隣のお姉さんが楽譜に書き込んでくれたり、ジェスチャーしてくれたおかげで理解はでき、なんとか練習を終えられた。


 そして本番の日。


 演奏会は着々と進み、曲目も終盤となり、いよいよ『運命』へと移った。


 第1楽章と第2楽章はドイツからのオーケストラ団員のみであり、俺達は舞台袖で彼ら彼女らの演奏を聴いていた。


 誰しもが聞いたことのある有名なフレーズから始まり、次いで第2楽章へと移り、そしてそれも終わった。


 第3楽章が始まる前に、演奏者で席替えが行われ、そのまま俺達は舞台袖を出てドイツ人お姉さんの隣に座った。


 上手く弾けるかどうかなんて不安も抱く間もなく、演奏が再開された。


 第3楽章は静かに始まり、直後に悲壮感を感じさせる不気味で爽快なフレーズを何回も繰り返す曲だ。そしてそのままフィナーレの第4楽章へと移った。


 第1楽章の激しい悲壮感や第3楽章の不気味さはどこかに行ってしまったかのように晴れやかな曲だ。水の流れのように時に軽やかで、時に爽快で、時に淀んでいて、そして時に激しいこの曲は『運命』の第1楽章しか知らない人には意外性を感じるだろう。事実、俺だって感じた。


 第4楽章もいよいよ最後の盛り上がりへと駆け上がっていった。曲は加速していき、まるでアンコールのように何度も何度も盛大な終わりを感じさせながら本当の最後を迎えようとしていた。


 そして最後のオーケストラ全員で鳴らす和音。フェルマータで長く伸ばしていくその音の残響がホール全体を満たした。


 指揮者の方を見ると、ヴァイオリンの弓がみんな一斉に天に突き向けるように上がっていき、そのままゆっくりと下がっていく光景が移った。


 俺はあの日の光景を忘れることはないだろう。


 弾ききったという達成感と、今この瞬間に一つにまとまっているという感覚、そして眩しいライトに照らされて照り返す何本もの弓の光景が俺の中で今でも残っている。



*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*



 手紙で書かれていたのは曲目だけではなかった。OB・OGにも定期演奏会の舞台に乗って欲しいと書いてあった。


 俺は演奏したいとすぐに思ったが、条件を見て俺は残念な気持ちにならざるを得なかった。


 演奏するからには10月からの練習に参加する必要があった。その回数、8回中3回以上の参加だった。


 一人暮らしの自宅から小塚を往復するのに片道1万5千円、4時間だ。大学の生活にとても大きな負担がかかることは考えなくてもわかることだった。


 参加したくてもできないことを、このときの俺は泣く泣く諦めるしかなかったのだ。

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