春 卒団演奏会 前編
いよいよ本番当日となった。
この1年間それなりに頑張ってきたし、演奏会が失敗に終わるなんてことはないだろう。思い思いに弾けばそれでいいんだ。そう思っていてもやはり緊張はした。
その日、目が覚めたのは朝の5時と予定より2時間早かった。
まだまだ眠いしもう1回寝ることもできたが、心はざわついていてそれどころではなかった。
春と言えど早朝はまだ寒く、布団から出たくなかったが、落ち着かない心は結局起きることを選んだ。
(こんなとき、アニメだったらスタッフロールがまず出るだろうなぁ)
今日で最後なのだ。月見里と毎週のように顔を合わせるのも、音楽をみんなと楽しむのも、今日で、最後だった。
そんな終わりの始まりを感じながら俺は朝食を取って、着替えては出発した。
母に送られる車の中では指が自然と動いた。ヴィヴァルディ作曲『調和の霊感』第10番――4つのヴァイオリンとチェロのための協奏曲 ロ短調 第1楽章が延々と頭の中で鳴り響き、俺の指が曲に沿って動いていた。
会場に到着すると、既に月見里がいた。少し遠いところにいたため挨拶はできなかった。
楽器を出していると鍋島も到着したようで、こっちにやって来た。
「……おはよう」
少し元気のないその声音がどういう意味なのかは考えるまでもなかった。俺と同じだったからだ。
「おはようございます」
俺はそんな彼女と同じ気持ちを、しかし隠すようにして敬語で挨拶をしてしまうのだった。
調弦を終えた俺はウォーミングアップがてらヴィヴァルディを弾き始めた。いつものように、いつもの感じで、いつも通りに。
ソロパートを終えるとやはり誰かがそのまま自分のソロパートを弾き始め、次第に4人そろって弾いていった。そんないつものやり取りであった。
「何か卒団って感じじゃないよね」
それは鍋島も感じていたようで、今日もまたいつもの練習で、来週にもまた練習があるのだろう。そんなものを俺も感じていた。
「小学校の卒業式みたいに言うなよな」
卒業しても中学でまた一緒になる。そんなきっと変わらないだろうと思わせる雰囲気だった。しかし事実は異なって、今日が正真正銘最後の日なのだった。
それでもいつも通りでありたかった。
「これやってみたら?」
本番前のリハーサル中の休憩時間に、俺は月見里に知恵の輪を渡した。それはいつかの海外演奏旅行で買った自身へのお土産であった。
「解けないに100円!」
どうせ解けないだろうと挑発して俺はこれまたいつも通りに揶揄うのだった。
「んー解けるに50円?」
そこに1つ年下の後輩が乗っかってくれた。
「50円かよ! 信用少なっ」
月見里がいかに解けなさそうかがわかる瞬間だった。
「じゃあ200円」
そうでもなかった。
「何!? これは300円にしなくてはならないのか……?」
なので俺はレイズすることにしたのだった。
*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*
そんな楽しい練習も終わってしまい、ついに本番となった。
「やべー、緊張する!」
明るく振る舞っているが、実際は心臓はこれ以上なくバクバクしていた。
最初の1曲目は本来はヴィヴァルディの協奏曲であったが、その前に急遽追加されたバッハ作曲 G線上のアリアであった。
「G線間違えたらごめんね」
俺は2つ下の後輩に冗談紛いに言った。
「え、でも広瀬くんの指使い見てやってるし……」
苦笑しながら彼女はそう答えたが、こんな先輩の動きを真似しても大変だぞと思ったりもした。優秀な彼女のことだから上手くやってくれるとは思ってもいたが……。
そんな話をしていると少し離れたところで月見里の声が聞こえてその方向を見た。
「誘ったんだけど来なかった」
誰を、とは少し考えればわかることだった。相変わらず胸が痛くなるが、俺は頭を振って湧き上がる気持ちを振り払った。
月見里を見てあることに気付いた。
「なんか似合ってないような似合ってるようなだね」
月見里の髪にはリボンが付いており、この6年と少しで彼女が何かを髪に付けている姿を見た機会なんてほとんどなかった。
似合っていたし、素直に褒めればいいものを褒められないのは、最後の日まで素直になれなかったからだ。そんな悪い意味でもいつも通りであった。
「あれ? 曲がってる」
よく見てみるとリボンは少し曲がっていて、俺はそれを月見里に指摘した。
「じゃあ直してよ」
「俺がかよ」
嫌というわけではなかった。まさか俺にやらせるとは思わなかったから驚いたのだ。
「なんか広瀬くんにやってもらってるのが」
さっきまで月見里と会話していた子がその意味を捉えにくい笑みを浮かべて言った。
「広瀬くんが言ったから直させてるだけだよ」
「じゃあパスします」
そう言うのなら別の人にやらせた方が穏便だろうと思って、俺は近くにいた吉井にバトンタッチしようとした。
「いや、おまえがやれよ」
しかし敢えなく一蹴されてしまうのだった。
*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*
G線上のアリアが終わって卒団生は一旦舞台から退場した。
次の曲の準備をしてもらっている間に俺と月見里と鍋島と吉井、そしてギリギリで留学から戻ってきたチェロの同期の子の5人は手を合わせた。
「「おー!」」
それ以外の言葉なんて不要だった。それだけの言葉だけで意思は通じた。ただ、大声で言うわけにはいかなかったので小声ではあった。
そして入場。
最初にして自分がメインの曲だ。
気持ちは緊張が一周して落ち着いていた。
今までやってきたことを全てそこにぶつける覚悟であったし、実際、悪くはなかったと思う出だしであった。
第1楽章中盤、俺の長いソロを終えて月見里のソロパートとなった。
大好きな女の子の演奏だ。思わず目頭が熱くなってしまった。
たとえ音を外していようとそれとこれとは関係なかった。
(絶対絶対最高の出来にしてやる)
心はそれだけで満たされた。
かくしてヴィヴァルディ作曲 4つのヴァイオリンとチェロのための協奏曲 ロ短調は終えるのであった。
出来としては良いか悪いか言われたら良かったし、満足いく出来だとは思えた。
ただそれは演奏した身であるからそう感じただけなのかもしれない。けれどそれでも良かったと思えた。
結局のところ、自身が楽しめれば、みんなが楽しめればどんな出来でもいいのだから。俺達はプロではないのだから、楽しんだもの勝ちだと、そう思えた。
「た、立てない……!」
舞台から戻ってきた俺は既にふらついていた。緊張が一気に解れたのだ。
「全部やった気がします……」
「まだあるのよ」
先生にツッコミを受けたが、その通りであった。むしろこれからだった。
だがそれからは早かった。
1曲、また1曲、次々とプログラムは進行していった。それはまるで1発1発銃を撃って弾がなくなってく感じに似ていた。
そしてあっという間にアンコールすら終わってしまった。
弾き終えたときには再び目頭は熱かった。けれど絶対に涙は流さないと決めていた。1年前、1つ上の先輩が大泣きしたところを見て、自分もきっとそうなってしまうだろうけれど、そうならないようにしようと決めたからだ。
こうして演奏会は拍手喝采の中で幕を閉じるのであった。
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