7年目

冬 ゼロ距離

 暦の上では冬となった。年末だ。


 高校の学校行事もあれば、年が明ければ音楽関連でも行事がある。そんな準備に追われる日々であった。


 この日もKSの練習があり、いつも通りに練習が終わった。


 いつもと違ったのは練習後のことであった。


 この日、先生方と団員の親とで演奏会運営についての会議があった。


 最上級生の親は基本的に重要な役職になっているようで、俺と月見里、吉井の3人はそれぞれの親を待つために会議が終わるのを待っていた。ちなみに鍋島はこの日は欠席であった。


 練習部屋を追い出されて廊下で待っていたが、ただ待ってるだけでは退屈であった。


 そこで卒団生ヴァイオリンが4人中3人もいるので練習を使用ということになった。


 だが問題は誰が鍋島の代わりを弾くかであった。


「……わかったよ! 俺がやればいいんでしょ」


 女子2人から刺さるような視線を受けた俺に選択肢はなかった。


 実際、1stである俺が率いていく立場であり、誰よりも練習し、誰よりも理解する必要があった。その成果もあって、全員分のソロパートは大まかであるが弾けるようになっていた。


 練習はいつもよりゆるく行われた。時間潰しが目的であって、演奏は一種のコミュニケーションの手段になっていたのだ。後にこうした自主練習コミュニケーションがさらに発展するのだが、それはまた別の話だ。


 ともあれ、雑談代わりの練習はすぐに終わってしまった。とりあえず一通り弾いてみようってだけでしかなかったからだ。


 再び退屈になった俺達は廊下の片隅で座りながら駄弁ることとなった。月見里と俺が普段するような他愛もない、学校のことやゲームのことなどを吉井も加えて話していた。


 ところで男子1人に対して女子複数人となれば揶揄われるのは常にその彼である。それがたとえ女子2人でも多勢に無勢であり、そこに勝ち目はない。一度いじられ始めてしまえば際限なく続くのだ。


 雑談はやはりと言うべきか、俺いじりへと移り、月見里と吉井は揶揄って俺で遊び始めた。


 言葉で勝てないなら俺に残された手段は暴力しかなかった。とは言え殴ったり蹴ったりすることはさすがにできない。ちょっとした意趣返しとして俺が選んだ方法は物を投げることであった。


 何を投げるか考えたとき、当たり前だが楽器を投げるわけにもいかなかった。


 それ以外に投げられるものを思い浮かべたとき、何を血迷ったかケータイを投げればいいじゃないかと思いついた。距離も離れておらず、フィーチャーフォンだから投げても壊れることはないし、そもそも壊れるほど勢いよく投げるつもりもなかった。


 だがケータイを飛び道具に使えばどうなるか、それは考えるまでもないことだった。俺がそのことに気付いたのは、ケータイを投げて月見里の体にこてんっとぶつかって膝下に落ちてからのことだった。


「ちょっと待ってくれ!」


 月見里からケータイを取り返そうとするが、それより早く彼女は俺のケータイを開いてデータフォルダを開こうとした。


 月見里はするりと躱してデータフォルダを開いた。


高校の友人あいつから送り付けられたイタい画像は消したはず)


 取り返そうしながら俺は見られて困るような画像がないか思い浮かべた。


(ん? そう言えば月見里の画像が入ってなかったか?)


 ケータイの画像フォルダには以前、月見里の目の前で撮ったのに何故か気付いた様子のなかった彼女の写真が入っていたことを思い出した。


 そのときは撮った直後に撮ったことを伝えて、案の定、彼女は消せと言っていたがそれでも俺は消さなかった。


 そのことを思い出したときはさすがに焦った。「返せよー」と適当にしている場合じゃなくなった。


 少しばかし本気を出して無理矢理取り返すと、ケータイの画面は削除の確認状態であった。あと1ボタンで消されるところであった。


「なんで取っておくのさ」


 その問いをバカ正直に答えられるほどまだまだ素直にはなれなかった。


「おもしろいから」


 いくらなんでも吉井という第三者もいる中で「好きな子の写真だから」なんて言うことはできないし、それを婉曲表現できるほど器用にもなれず、ただただ誤魔化すことしかまだできなかった。



*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*



 雑談もネタが尽きて、いよいよ退屈になった俺達は無言になってそれぞれケータイでメールなりゲームなりして時間を潰していた。


 俺が体育座りでゲームをしていると、唐突に吉井が俺が内履き用として履いている体育館シューズの靴紐を握ってきた。


 靴紐を解かされると思い、脊髄反射で俺は右足を引っ込めた。


「自爆じゃん」


 靴紐は俺が右足を引っ込めたせいで解けてしまった。靴紐を掴まれているのだから逃げたら解けるのは当然であった。


「確かに、今のは俺のミスだな」


 若干の悔しさを覚えながら俺は靴紐を結んだら、今度は月見里が反対側の左の靴の紐を無言で掴んできた。


 ――そして靴紐を引っ張った。


「いや解くなよ!」


 何の駆け引きなく引っ張って解けたことに怒ると彼女は満悦の様子だった。


「ちゃんと結んでよね」


 そう言うと、意外なことに月見里は靴紐を結び始めた。


 何で俺は女の子に自分の靴紐を結ばせてるんだ? という心の中で自己ツッコミをしたが、まさか素直に従ってくれるとは思わなかった。


 そう一瞬でも思った俺が間違いであった。


「きついぞ、おい」


 月見里は靴紐をきつく結んだのだ。彼女が素直に従うわけがなかった。


 俺の不満に何を見出したのか、今度は吉井が再び右靴の紐を解いて結び始めた。当然きつくであった。


 やはり俺はこの場ではいじられキャラになるしかないのかと諦観していたところ、吉井は再び靴紐を握って引っ張ることもなくじっとしていた。


「足を動かさなければいいだけだしな」


 こうやって挑発しなければいいのにという考えはわかるが、そうせずにはいられないのだ。それが面白いからだ。


 吉井は引っ張ってしまっては自分に非があると思ったのだろう。引っ張ることはせず、その代わりに俺の足を動かさせようとしたのだ。


 吉井は俺の靴の側面を指でなぞったのだ。それが微妙にくすぐったかった。


 そう、彼女は俺をくすぐって足を動かさせようとしたのだ。


「うっ……」


 思わず声を漏らしたことに吉井は笑みを浮かべた。


「こんなんでくすぐったいの?」


 吉井は意地悪そうに指のなぞる速度を上げていった。


 月見里もこれは面白そうだと言わんばかりに便乗して左足をくすぐってきた。


 これは何のプレイだ、という考えも過ったがそれどころではなかった。


「うっ……!」


 月見里のくすぐりも合わさって、もがき始める俺であったが、決して足は動かさなかった。動かしたら負けな気がしたし、負けたくはなかったからだ。


 そうなれば彼女らのくすぐりはエスカレートしていくのは道理だった。


 吉井は靴からのくすぐりでは弱いと判断したようで、あろうことかズボンと靴の間である足首付近をくすぐり始めた。


 これには驚き、靴を挟んだくすぐりとは異なり、靴下1枚のほぼ直接攻撃であったため、想像以上のくすぐったさが体を襲った。


「ぎっ!!」


 それでも俺は足を動かさなかった。最早意地だった。


 有効打だと思った吉井はさらに足首から上の方へとくすぐっていった。


「いやいや、これ以上はいろいろマズいからストップ!」


 さすがにこれ以上奥まで侵入してこられたら困るので靴下の範囲内までで止めた。


 一方、月見里は既にくすぐりに飽きたようで、靴紐の先端を体育館シューズの通気口に挿して遊んでいた。


「何やってんすか……」


 くすぐったさはなかったが、またろくでもないことをしようとしているのではないかと不安に思った。


 そうこうしているうちに吉井は飽きたようで、最後に靴紐を解いてくすぐり攻めは終了した――かのように思えた。


 吉井は俺をくすぐることには飽きたが、くすぐりそのものには飽きていなかった。標的を月見里に定めで再びくすぐろうと月見里の脇を狙い始めたのだ。


 俺も仕返しとばかりに右足の靴紐を結んで吉井に協力した。と言っても俺が直接くすぐるのはアウトな気がしたので、俺は後ろから月見里の腕を掴んで吉井がくすぐりやすいようにアシストした。


「えいっ」


 功は奏し、吉井のくすぐりが月見里に命中した。


「くすぐったい!」


 月見里は身悶えて体を捻って逃げようとした。それが悪かった。


 後ろには俺がいて、彼女が体を反らしたことで俺の方へと体重がかかったのだ。上手く支えられれば良かったのだが、反らす力が想像以上に強かったせいで支えきれず、2人して後ろに倒れ込んだ。


 距離ゼロ――密着状態で俺は床に、その上に彼女が倒れた。


 どうやら倒れかけているときにも彼女は身悶えていたようで脚が絡んでいた。


 大体の男子高校生なんてそんなものだが、そんな状態になんて慣れているわけもなく、頭の中はパニック状態であった。


 まずは脚の絡まりをどうにかしようと思って、今度は俺が体を動かして事態の収拾を図ろうとした。


 そのようにしたところ、どういうわけか俺は月見里に馬乗りされる形になっていた。


 俺は床にうつ伏せ状態で、俺の背中に月見里が跨っている状態だった。なんでこんな状態になったのかわからないが、脱出しようと思えば苦労する状態ではなかった。体をさらに捻ればいいだけだからだ。


 だがそうしようとは思わなかった。


 好きな女の子に乗っかられている事実をどう捉えるかは人それぞれであるが、俺にとってはもうちょっとだけこの状態でありたいと思ってしまった。こんな機会は2度とないだろうからと。


 けれど脱出したい気持ちもあった。月見里に乗っかられている部分の直下に胃があり、床に圧迫されて地味にきつかったのだ。……別に月見里が重いとは言っていない。


 こうした二律背反の気持ちがあったことから、ちょっとした遊びを思いついた。体を捻ったり脚を使うことはせず、両腕だけを使って脱出を図ろうというルールを立てたのだった。


 腕立て伏せの要領で起き上がろうとしたが、月見里の乗っている位置が上過ぎたせいで起き上がれなかった。そこで工夫を凝らそうと考えるのだった。


 吉井がくすぐった結果倒れたように、くすぐりに効果があることは実証済みであった。ならばそれで脱出できるのではないかと考えたのだ。


 馬乗り状態の月見里の脇をくすぐることは不可能であったが、足がすぐそこにあった。


「ていっ」


 俺は彼女の足首をくすぐった。


「あんっ」


 途端、俺の思考は凍結した。


 そして3人の間で静寂が訪れた。


「なんて声出してんだ……」


 俺は至って冷静な声音となるよう努めて言葉を出した。


「なんかイヤラシイこと考えたな?」


 すぐさま吉井にその心内を見抜かれてしまったが、肯定するわけにはいかなかった。


「そんなわけないだろ」


 真っ赤な大嘘だが、ここで認めると状況が悪化するのは火を見るより明らかであり、否定するしかなかった。


 吉井もそれ以上は追求することなく、我関せずとばかりにケータイで何かし始めた。


 その後も何回か脱出を挑戦したが、腕だけでは難しいと感じ、まぁこの状態でもいいかと諦めていた。


 すると不意に月見里は俺の背中に手を回した。そこには俺の左手があり、彼女は俺の手を握ってきた。強くはなく、それはちょっと動かせば簡単に解けてしまうくらいの力あった。


 冷静に考えて、くすぐりの牽制だろうが、ちょっとドキッとしてしまった俺は思わずその手を握り返すのだった。



*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*



 馬乗りにされて実に20分後、吉井の手助けもあって俺は脱出できたのだった。


 ただ月見里はまだ馬乗りしたそうな様子であった。なんでだ……。


 俺は再び床にうつ伏せになると、やはり彼女は馬乗りしてきた。


 今度はさっきより腰側に乗ってきたことで今度は腕立てで起きられそうだった。


(よし、やってみるか)


 どうせじゃれ合うなら存分に楽しもうと、俺は起き上がり、そのまま月見里をおんぶした。


 自分自身の力で脱出できたことに満足した俺はそのまま彼女を降ろして、まだ終わらない会議を待つために漫画とケータイでさらに時間を潰すのであった。


 ちなみに、20分も圧迫されていたせいで胃は痛かった。

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