秋 指揮

 少人数ではともかく、合奏には指揮者がいるものだ。


 テンポやタイミングは当然として、その曲でどのような表現を出していくかを決めていくためには欠かせないポジションだ。


 演奏する上で奏者は楽譜より指揮者を見ることが求められる。指揮者がどんな表現を出していくのか、それを汲み取る必要があるからだ。


 しかしKSは小学生から高校生の集まりであり、低学年ほど指揮者を見ないことが多かった。弾くので精一杯で楽譜を見ることに集中してしまうからだ。高校生ですら指揮者を見ることが少なかったりもする。


 そうした事実に気付くこととなった出来事がある。


 その日も例によっていつも通りKSの練習日であった。この日は最上級生は俺と月見里の2人で鍋島と吉井は欠席であったため、ヴィヴァルディの協奏曲を弾くことは中止された。


 代わりに練習前半で弾くこととなったのはモーツァルト作曲 アイネ・クライネ・ナハトムジークの第1楽章であった。誰しもが聞いたことのあるこの曲は俺がKSに入団して1番最初に弾いた曲であり、思い入れも強い曲であった。


 だがここで重大な問題が発生した。


(いや、ちょっと、聞いてないんですけど!?)


 そもそも俺はこの曲を今回の定期演奏会で弾くことになっていたことを、このとき初めて知ったのだった。というのも俺は先週の練習を欠席しており、どうやら先週に決まったようで楽譜を渡されたようだった。


 だがこの日、俺は楽譜を持っておらず、こうしてパニックになりかけたのだった。


 正直、楽譜がなくても弾ける自信はあった。それだけ思い入れがあったし、何度も弾いてきた曲だからだ。


 しかし幸いなことに、この日の隣になった人は楽譜を持っており、楽譜がない中で弾くようなことはなかった。


 そろそろ休憩になるかという頃合いに事は起こった。


「じゃあ広瀬君に指揮してもらおうかな」


 唐突にさっきまで指揮をしていた先生が言い出したのだ。


 思考は一瞬停止し、次に「ちょっと待ってくれよ」と喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。


 無茶振りで指揮棒を振れとはどういうことだと思ったが、言われたからにはやる他なかった。


 先生はヴィオラを取り出してヴィオラの席に着いた。この日の練習ではヴィオラは1人しかおらず、先生が弾くことでヴィオラパートを補おうという考えがこのときになってわかった。


 とは言え、指揮をするなんてのは友達とのおふざけ以外でしたことなんてなかったため、緊張を感じてしまった。


「広瀬君が終わったら次は真子ちゃんね」


 どうやら交代制らしかった。


 やるしかないのだと、いい経験だと覚悟を決めて、俺は譜面台の上に乗っかっている指揮棒を手に取った。白いプラスチックの棒に手元側にコルクを付けた軽い棒だ。


 特に段差はないが全体が見て取れた。見られていることを感じ、再び緊張を覚えた。それと同時に、みんなはこうして指揮者を見ているのだなと初めて知った。


 頭の中でテンポを決めた。普段通り、自分のよく知るテンポでやろうとイメージし、指揮棒を振った。


「1、2、3、4」


 次の瞬間、和音が鳴り響き、曲が始まった。それはまるでヴィヴァルディの協奏曲のソロ部分を弾いているかのような気分だった。


 次第に要領を得てきた俺は、少し自分のイメージを指揮棒にぶつけてみようと思い、ほんの少しだが指揮に動きを付けてみた。だが、そこであることに気付いた。


(見られてないなぁ)


 最初に感じた全員からの視線が今では数人しかいなかった。


(指揮を止めても演奏が続きそうだな)


 指揮を見るよう心掛けているが、できていないこともしばしばあった。


(これが指揮者の気持ちか……。先生もこんな風に感じていたんだな)


 指揮を見ることの重要性を今更ながら気付いたのだった。


 途中、1ヶ所気になるところがあったが、無事指揮を振り終えて選手交代となった。


「バトンタッチ」


 俺は月見里に指揮棒を渡して席に着いた。そして月見里の顔を見て、どうやら無表情だが緊張しているのだろうということは感じた。


「1、2、3、4」


 俺と同じような早さで彼女も棒を振り始めた。


 俺は楽譜をほとんど見ずに彼女を見続けた。じっと見続け、必要以上に、それはもうしつこいくらい見た。何度も何度も目が合ったし、その度に思わず微笑んでしまった。


 そして演奏は俺が先程気になった部分に差し掛かった。


 この部分、演奏していたときは気付かなかったが、指揮をしていると2拍ずれているように感じたのだ。


 だが、ずれているように感じているのは錯覚であり、これで正しいはずだと振り続けた結果、間違っていないことがフレーズを抜けてからわかった。


(あ、おかしくなったな?)


 月見里はどうなるかと気になっていたし、少し意地悪なくらい見続けていたところで、彼女の指揮に乱れが生じた。2拍ずれている感覚に混乱したのだ。


 俺は微笑どころでなく笑ってしまった。当然彼女もそのことに気付いていた。



*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*



 休憩になってから俺は月見里にさっきの感想を聞くこととした。


「どうでした、指揮は?」


「広瀬くん、あたしがミスったところで笑うんだもん」


 俺はさっきの彼女の動揺を思い出して再び笑った。


「よく間違えたなかったよね」


 間違いそうにはなったが、正直にそう答えるのもなんか癪だった。


「みんなに合わせてただけだよ」


 とりあえずそう謙遜することにしたのだった。


 そんな話をしているところに小学校低学年の後輩少年が構って欲しそうにやって来た。俺はその子と月見里を交互に見て悪戯を思いついた。


 俺は後輩少年を後ろから脇の下から抱きかかえるように持ち上げて左右に振り回した。すると脚は固定していないから遠心力で脚が浮く。それを利用して3回、べしべしべしと月見里に浮いた足をぶつけた。


 後輩少年もこれには満足気なようで、俺も月見里の悪戯できて満足だった。


 すると今度は月見里が後輩少年を俺がしたのと同じように持ち上げた。


(少年、頭がどっかの誰かさんの胸が当たっていいね)


 とかバカなことを考えていたら、やはり俺と同じように後輩少年の足をぶつけようとしてきた。


 俺はすかさず後輩少年の両脚を掴んだ。そして彼の左手を握って月見里の頬をパンチした。ぺしぺしぺしと3回。


(少年、どっかの誰かさんの頬を触れていいね)


 と再びバカなこと考えていたところで


「あたしがこの状態じゃ何もできないとわかってて……!」


 悔しがる月見里を見たところで俺は満足しきったのだった。


「いやー、久しぶりに揶揄からかうの、おもしれー」


 悔しそうにしている月見里を見ながら俺は勝ち誇るように笑うのであった。

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