秋 オーケストラ 前編

 KSは弦楽合奏団であり、管弦楽などを弾くならば外部から管楽器奏者を呼ばなければならない。そこで、しばしば臨時出演――エキストラとしてセミプロ・アマチュア混合市民オーケストラ団体である小塚フィルハーモニーからお呼びしている。


 KSも小塚フィルも地域に密着した組織であり、KSの卒団生の一部は小塚フィルに入っていたりもする。そのため、しばしば小塚フィルからエキストラで参加してもらうことがあるのだ。


 5年前の定期演奏会は節目とあって小塚フィルから管楽器奏者のエキストラ参加をお願いしたのだ。今年も節目ではあり、管弦楽曲は曲目にないものの、今年のKSの定期演奏会では小塚フィルに所属している弦楽器のOBOGがエキストラとして参加してくれることになっていた。


 その代わりなのかどうなのか知らないが、小塚フィルのエキストラとしてKSから何人か参加してみないか、と声を掛けられたのだ。そうして選ばれたのが俺、月見里、鍋島、吉井の最高学年4人であった。


 要約すればちょっくら小塚フィルの定期演奏会に参加して経験してくれば? と。断る余地どころか考える時間さえなく決定された。


 10月前の練習から参加して11月の定演に出るため、わずか2ヶ月弱でエキストラとして参加できるくらいになれというのだから難しい話であった。


 とは思いつつも、オーケストラに参加するというのは楽しみでもあった。弦楽合奏でも楽しいのに管弦楽合奏ならもっと楽しいに違いない。そう楽しみにしていた。


〈今日の夜練習行く??〉


 そんな初練習を控えた日、月見里から3ヶ月ぶりにメールが来た。


 今日のKSの練習は午前から、小塚フィルはその日の夜からであったため、彼女は小塚フィルの練習を夜練習と表現したのだろう。


〈行くよ〉


 そうメールを返して、KSの練習場に着くと、月見里が俺に近づいてきた。


「広瀬くんが出るなんか言うからあたしも出る羽目になったじゃないか!」


 そう怒り口調でいきなり言ってきた。


 あまりに急なもので、そもそも何の話なのかすらわからなかったが、すぐに何のことかは理解した。しかし何故怒っているのかはわからなかった。


「何故に!? なんで俺が出るとおまえが出ることになるんだ!?」


 結局訊くしかなく、しかし彼女に尋ねたところで


「あー、もういいよ」


 と、取り付く島もない反応をされるのだった。



*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*



 練習の休憩中に話し掛けようとしたが、月見里は鍋島と話しており、会話に交ざることはできても、さっきの質問を掘り起こすことはできなかった。訊き直すことができたのは練習後のことだった。


 片付け中に母からメールで今日は1人で帰れとのことで昼食をどうしようか考えていた頃に、月見里を見掛けた。


 改めて質問をしたら彼女はすんなり答えてくれた。


「卒団生であたしだけが今日行くのってアレじゃん。広瀬くんが出なきゃサボれるかなぁって」


 何を言っているんだこいつは、となったが、俺はその言葉を飲み込んだ。


「サボりたきゃサボればいいじゃん!」


 代わりに出たのがこの言葉であった。


 練習に行くも行かぬも自由意志であり、月見里が今日は疲れたし行かないと決めれば誰も咎めないのだ。現に鍋島と吉井は今日は行かないらしかった。


 もし俺まで行かなければ月見里は1人で行くことになるが、そんな度胸はないからサボるに良い口実になったのだろう。


 しかし、そんな背景があると走らずに俺は行くと言ったため、彼女は1人ではなくなったため、サボる口実が潰えてしまったのだろう。


 そうしたやり取りの後に「また夜にね」と月見里は言って外へ出ていった。


 俺も遅れて靴を履き替えて外に出て帰り道を歩いていると、先に外に出ていた彼女が急に走りだしていた。


 練習場のすぐ近くに信号機付き横断歩道がある。走りだした彼女は横断歩道の真ん中辺りで走るのをやめて歩きだしていた。


 その信号は青信号になっている時間が比較的短いが、彼女が走らないと間に合わないほどではなかった。後ろにいた俺は小走りするにしても、彼女は歩いても十分間に合うはずなのに走ったのだ。


「走らなくても間に合ったのに」


 なので俺は理由を訊くことにした。もしかしたらこの後に予定でもあって急いでいたのかもしれないとも思った。


「あの信号の時間長くなった?」


 すると彼女はなんだかよくわからないことを言い出した。


「いや、変わってない」


「あの信号が青になってる時間って短いじゃん」


 確かに短いが、走るほどではなかったと俺は説明した。


 説明し終わって俺は気付いた。なんで月見里はこの横断歩道を渡ったんだ? と。そしてようやく俺は彼女も今日は迎えがないらしいと理解したのだった。


 久々に2人で帰ることとなったのだ。心の中でガッツポーズしているものの、決して顔には出さないようにしていた。


 とは言え、いつも練習の日に会っては話すような仲である。今ここで特に持ち出すような話題なんてものはなかった。


「お腹減ったぁ。なんか食いてぇ」


 すると彼女がそんなことを言い始めた。


 そうして始まったいつもの会話の話題は昼食から財布の残金へ、そしてカラオケへと移っていった。


「カラオケ行きたい!」


「俺はもう行きたくない……」


 この数日前に部活メンバーでカラオケに行ったのだが、当時の俺はクラシック以外にほとんど音楽を聴かない人間だったため、カラオケに行ったところで歌える歌も人が歌ってる曲も知らないのだった。


 そんな苦い思い出があったため、カラオケは当面の間は御免被りたかった。


「1人で行ってきたら?」


「それもいいね」


 俺の皮肉も意に介さず月見里はそう答えた。カラオケに1人で行くなんてどうかしてると思った俺はさらに追撃をした。


「寂しくね?」


「1人で歌う人だっているんだよ!」


 ヒトカラなんて言葉を知るのはだいぶ後になってからである。当時の俺はカラオケは複数人で行くものだと思っていた。1人で行くなんてものは焼き肉や鍋、遊園地並にあり得ないことだと思っていたのだ。尤も、それらすら現在ではあり得るのだから不思議な話である。


 閑話休題。


 カラオケの話をしているうちに今度は声の話へと移った。


「自分の声とか聞けない」


 俺は録音された自分自身の声に未だ慣れていない。カラオケマイクで反響した自分の声ですら違和感を感じるのだ。


「そう?」


「おまえが聞いてるこの声と俺の声じゃ全然違うから」


 録音されている声が苦手なだけで、普段自分自身が聞いている声には慣れている。


「あたしは別に平気だけどね」


 そう言いながら月見里は自分のケータイを取り出して、何故か俺の方に向けてきた。


「なんか喋って」


「え?」


 そう返事をし、彼女のケータイを見て、ようやく月見里が何をしているのか理解した。録音しているのだ。


「なんか喋ってよ」


「……」


 何をしているのかわかれば対策も容易だ。俺は何も声を出さず耐えていればいい。


「喋れし」


「何?」


 他にも手段はある。ひそひそ声で話せば良いのだ。


「うわ酷いー」


 彼女の非難も俺は耐えようとした。


「何だよ、しゃべってんじゃん!」


「酷い」


 耐えようとした。


「酷い酷い酷い酷い酷い酷い」


「わかったよ喋ります喋りました!」


 無理だった。あまりにも酷いを連呼されて俺は屈してしまった。


 占めたとばかりに彼女は録音を中止してすかさず再生し始めた。


「わかったよ喋ります喋りました!」


 そんな慣れない声が彼女のケータイから出てきた。


「別に変わってないけどなぁ」


「あーやだー!」


 やはり嫌なものは嫌なのであった。



*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*



 そうしたやり取りがあり、一旦家に帰ったが、夕方には再び小塚市に来ていた。


 小塚フィルの練習場付近に着いたところでメールが来た。


〈今どこ??〉


 月見里からだった。流石に1人で練習場に突入するのは勇気がいるから俺と一緒が良いのだろうと思った。


〈練習場所の近く〉


 そう返したらすぐに返事が来た。


〈まじで?! あたし場所わかんなくてこまってんの!! 一緒に行こう?!〉


 案の定の状況だったようだ。


〈とりあえず練習場所近くのところへ〉


 そう送ってからちょっとして俺は練習場として使っている視聴覚室に到着し、その扉の前にいる月見里を見つけた。


「どうしたの? 入らないの?」


 立っているだけで入ろうとする様子のない彼女に俺は問い掛けた。


「いや、3階のところでやってるはずなんだけど開いてなくて……。場所違うのかなって……」


 そこには月見里しかおらず、しかし彼女の立っている扉こそが練習場で間違いなかったはずだが、確証が欲しかったので2人で1階にまで降りて、ロビーにある使用表を見ると、確かに視聴覚の欄に小塚フィルの名前があった。


「とりあえず行こ?」


 3階視聴覚室で間違いはなかったので戻ることにした。


 だが依然として、誰も来ていなかったため、もしかしたら人が中にいるかもと思い、俺はドアノブに手を掛けて扉を押した。


 ドンっと音がして扉には鍵がかかっていることは明らかだった。


「引いてみたら?」


 押してダメなら引いてみろという意味ではない。開き戸に対して引き戸として横に引けと月見里は言ったのだ。


 そんなアホなリクエストに答えつつ俺達は待つことにしたのだった。


 5分後、小塚フィルの団員さんが来た。


「お待たせー。待たせてごめんねー」


 俺達が早く来すぎたというのが問題で、団員さんが悪いわけではない。


 俺達は何とか視聴覚室に入ることができたが、まだ問題は残っていた。


「楽器どこに置いたらいいんだろう」


 荷物である楽器を一旦どこかに置いてから椅子や譜面台をセッティングする必要があった。


「ヴァイオリンはよくそこに置いてるよ」


 すると、状況を察してくれたのか先程鍵を開けてくれた人が入り口近くを指差しながら親切に教えてくれた。


「「ありがとうございます」」


 月見里は扉側に、俺はその隣に楽器を置いた。


 そうしているうちに新たに2人の団員さんが来て、早速セッティングをし始めていた。


 俺達は何かできないかと椅子を運んでいる男性団員さんに尋ねた。


「あぁいいよ。エキストラさんに手伝ってもらっちゃうのも悪いからね」


 そう言ってくれるものの、いくらエキストラでお客さん扱いを受けようと、見ているだけなんてことは俺にはできなかった。


「手伝えることがあるなら手伝いますよ」


「んー、じゃあ椅子を出してくれる?」


 食い下がって再度申し出て手伝わせてくれた。


 俺達は早速椅子を出して並べていく、どこにどう並べていくかはどこの楽団もおおよそ決まっている。手際よく並べていき、椅子を出し終わったので次は譜面台を出そうとした。


「譜面台は自分のだけでいいよ。いいのと悪いのがあるしね」


 するとさっきの男性団員さんが俺と月見里に1つずつに分類されるであろう譜面台をくれた。


「「ありがとうございます」」


 さっきから何をするにしても一緒な月見里と俺であった。初めて来る場所で単独行動というのも珍しいが、傍から見れば仲のいい2人組に見えたことだろう。


「俺達って1st? 2nd?」


 譜面台を組み立てながら俺達は重大な問題に気付いた。


 俺達はどのパートかわからなければ楽譜すら渡されていなかったのだ。


 既に団員の多くは椅子に座って各々調弦や練習を始めていた。誰に尋ねていいかさえわからず動けなかった。


「名前教えてくれる?」


 すると白髪のおじさんが当時まだ珍しいスマートフォンを片手に尋ねてきた。


「広瀬です」

「月見里です」


 そう答えたら


「2人とも2ndね」


 と教えてくれた。しかし問題が1つ解決されたがまだ残っていた。


「あの、楽譜をもらっていないんですけど……」


「楽譜はあとで渡されるはずだよ」


 と言われたがどうすることもできず、俺達は2ndの1番後ろに座って様子を伺うことにした。


 しばらくすると、KSで知っている人が来たのでその人に楽譜のことを尋ねた。


「練習のときに渡されなかった?」


 首を横に振ると


「あれ? じゃあ今回は隣の人に見せてもらうことにしましょ」


 となってしまった。


 そして座った場所が2ndの第1プルト――1番前であった。


(どうしてこうなった!)


 本来、末席にいるべきなのにそれが臨時とは言え1番前にいるのはどうなのかと思った。


 その1番前の隣――ペアではなく1stの人がさっきの白髪のおじさんであった。


「初見なの? 頑張ってね」


 そう。初見なのであった。


 ドヴォルザーク作曲、交響曲第8番 ト長調。後に俺がドヴォルザークで1番好きになる曲をこの日、初めて弾いたのだった。


 団員の彼ら彼女らは6月から練習しており、9月も半ばの頃の熟達度は既に高かった。追いついていくのさえ困難であった。



*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*



「どうだったでしょうか?」


 3時間に渡る練習が終わり、俺は月見里に感想を求めた。


「弓の動き具合でわかるでしょ」


 と言う月見里だが、そんな彼女は俺の後ろにいたため、見ることなんてできなかった。わかっているのだろうか。


 楽譜は無事貰うことができ、片付けも終わって俺達は外に出た。


 月見里は家が練習場から近い上に母親に迎えに来てもらったようでそのまま帰っていった。


 俺は駅から少し遠いが歩けないこともないと思い、駅までの道を思い出そうとしていたところに、KSのエキストラとして参加してくれているOBに声を掛けられて車で送っていってやると言ってくれたのでお言葉に甘えることにした。


 車中ではそのOB(ヴィオラ)の人と、KSの卒団生に小塚フィルのエキストラとして参加してくれと頼んだOB(ヴァイオリン)とパートを教えてくれたおじさん、同じくKSのエキストラで参加してくれているOG(ヴァイオリン)、そして俺の計5人であった。


 おじさん以外はOBOGであったため、現役の俺が聞いてはいけないようなKSの昔の話や、卒団したら小塚フィルに入るんだよねといった軽いパワハラを受けながら家まで送ってもらった。


 この日の感想としては、楽しかったが、大人達に混じって弾くというのはえらく体力を消耗するものであった。それもKSの練習後にあるのだからとても疲れたものだった。


 そんな日が2ヶ月続くのだから楽しみであるけれど大変そうだと、感じていた。

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