夏 雨の日
その日が雨だったことをよく覚えている。
大して珍しくもない。梅雨特有の雨である。強くもない雨だが、蒸し暑くて不快指数の高い平日であった。
KSの同期である古川聡美が留学のため退団するとあって、寄せ書きを俺と月見里で協力して作っていた。
この日は俺が半分完成させたそれを彼女に仕上げてもらうために手渡す日だった。
〈部活あるから19時半くらいで本屋で待ち合わせでいい?〉
〈了解〉
結構遅いなと思いながらも特に問題ないと思ったため、彼女の部活が終わるのを待てばいいと判断した。
平日の長い授業も終わったのは16時10分であり、待ち合わせまであと3時間以上あった。
今日は俺の部活は特に活動もなく、行ったところで雑談して時間を潰すしかなかった。
宿題があったため、それをやるべきであったがすっかり忘れて雑談に勤しんでしまい、19時過ぎになって学校を出た。
結局、本屋に着いたのは約束より5分遅れた頃であった。
待たせちゃったかと思い、月見里を探すが見当たらなかった。どうやらまだ来ていないようだ。
もう少し待つ必要あるかなと思い、本を物色することとした。
当時ハマっていたシリーズ物を見つけて今度買おうと決めていたりしながら時間を潰すこと10分が過ぎた。待つのも飽きた俺は月見里にメールを送ろうとしたところで声が聞こえた。間違えることのない彼女の声だ。
声がしたのだからそちらに目を向けるのは自然のことだろう。
ほんの一瞬のことであった。
月見里と、その隣に彼女の高校の制服を着た男子が本屋に入ってきた。
見たのは一瞬であり、その後の行動は自分でも驚くほどに早かった。すぐさま入り口からの視線を切れるように身を隠してその場を離れた。
どうしてそうしたのか、そう問われてもわからない。ただパニックを起こしていたからとしか答えられない。
俺の知っている月見里はKSでの彼女でしかない。同期は俺以外はみんな女子であり、月見里が他の男子と話しているところなんて低学年以外見たことがなかった。
だからその日、初めて俺は彼女が男といるところを見たのだった。
(彼氏かな)
そんな考えが頭の中を過った。
心臓がバクバクしていた。思考は完全に乱れていて、参考書コーナーに来てしまったから参考書を手に取ったりしていた。
そうこう落ち着かない状態が続いているうちにケータイから電話を伝えるバイブ音がした。そう、電話だ。
こんなパニック状態でも冷静な部分はあるようで、月見里が本屋から出ていった今、俺に会うためには連絡を取るしかなく、その手段はメールだと勝手ながら断定していた。
それにメールなら今の心境を隠すことができた。というのに実際にはまさかの電話であった。
自分の心を隠せる自信なんてものはなかった。自分の気持ちに流されて理不尽に怒ってしまったりするのではないか、抱えていた気持ちを暴露してしまうのではないか、不安であった。
何にせよ、掛かってきた以上、出るしかなかった。
「……はい」
とりあえず、初手で気持ちが溢れるようなことはなかった。
「もしもし、今どこ?」
「本屋」
「本屋のどこ?」
「本屋の……『思考を整理する』って本の前」
よりにもよって思考が乱れに乱れているときにそんなタイトルの本が見えてしまった。
そしてそう、自分の心を隠すことで精一杯になってしまったのだ。結局いつものように不素直になってしまい、場所を説明することすら捻くれた言い方しかできなくなったのだった。
「じゃあ来てね」
そんな言われ方をしたら彼女でなくともそう言うだろう。ただ、俺も譲れない頑固さがあった。
「は? 来いよ。俺と君だけの問題じゃないんだから」
声は笑ってはいるが表情が硬いのが自分でもよくわかった。
「どっちの本屋?」
近くに本屋が2店舗ある。学校側とそうでない方の2店舗だ。なので両者の学校側にある本屋が待ち合わせだと思っていた。
「学校側の本屋」
おそらく月見里もそうだと思ったから本屋に入ってきたのだろう。
「え!? じゃあ先輩とイチャイチャしてたの見たの?」
彼女のこの言葉が俺の心をさらに締め付けた。しかしそれと同時に彼女のあまりにも軽い言い方に何故か安堵を感じた。
「一瞬ね」
「だから入り込めなかったと」
「うっせ」
そのためか、会話しているときの心中も安定してきた。
その後、無事古川への寄せ書きを渡した。
「おまえのせいで脈が早くなってるんですけど……」
そんな本音が漏れてしまうこともあったのだがこれくらいは許して欲しい。
そう、それくらいは。
この日、俺は初めて嫉妬をしたのだ。
人を憎まず嫌わず、博愛の精神で人と接するべき。それが美徳だと信じて疑わなかった。
しかし、俺は月見里の隣にいる男を嫉妬した。憎悪した。それは殺意と言っても違わないほどのものだった。次に彼と会ったら本当に首を絞めてしまうんじゃないかとさえ思ったのだ。
それだけ自分でも驚くほどに黒くドロドロとした感情が湧き出たのだ。
ああ、俺はこんなにも人を憎める人間だったのかと。人を嫌わないことを是としてきたというのにこうなるのかと。
そしてもう1つ芽生えた気持ちがあった。
俺はこんなにも月見里が好きだったのだと。
今まで自分自身に誤魔化し続けていた。月見里を好きなのかもしれない。そう思い続けてきた。
だが、もうそんな嘘をつくことさえできないほどに感情が動いてしまった。
今までにない嫉妬をするほどに俺は彼女が好きだったのだと、認めざるを得なかった。
皮肉なことに、俺は人を憎悪することで、人を好きになったのだ。
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