春 日常――触りたい

 時々ではあるが、月見里は本当にアホなことを言うのだ。


「ねぇ広瀬くん、1つ言っていい?」


 KSの次回の定期演奏会に向けての練習もまだまだ始まったばかりであり、最高学年としてみんなを引っ張っていこうにも、そもそも自分が弾けずに難しいと嘆いている頃のことだ。休憩中に彼女が急に言いだしてきた。


「どうぞ」


「……。」


 月見里がやけに念入りな前置きから言い出したとき、大抵ろくなことを言わないことはわかっていたが、それでも身構えてしまっていた。


「なんだよ」


 躊躇う彼女を俺は促した。どんなことであろうと気になるものは気になるのだ。


「やっぱやめた」


「なんでだよ!」


 自分から言い始めたことだというのに直前で躊躇する彼女に俺は若干の怒り口調で言い返した。


「だって怒るもん」


 だろうなと思いながらも、内容を知りたいことに変わりはなかった。


「なるべく我慢しよう」


 怒らないと言えないのは俺が彼女に対して絶対に嘘をつかないと決めていたからだろうか。物事には限度がある。堪忍袋の緒が切れる内容であったら流石に怒る。


「ホントに? 広瀬くん関係だよ?」


「でしょうね。なるべく我慢するって」


 何度も言うが限度はある。


 そして彼女はようやく言い出した。


「さっき広瀬くんの後ろを見てて思ったんだけどさぁ――」


「う、うん……」


 ここまで言いづらそうに告げ出すものだから流石に固唾を呑んだ。


「お尻を触りたくなったんだよね!」


「は!?」


 物事には、限度がある。一部の諸兄には女の子に触られるなんてなんて贅沢な、と思われるかもしれないが、少なくとも当時の俺は月見里からお尻を触られたいとは微塵も思いはしなかった。


「お尻蹴っていい?」


 だからこれには怒ってもいいと思うのだ。


「怒らないって言ったじゃん」


「まぁ言いましたけど限界点超えちゃいましてね」


 それに怒らないのではない、なるべく我慢すると言ったのだ。


「広瀬くん関係って言ったじゃん!」


 とは言っても実際に蹴るわけにもいかないのが道理である。


「約束しましたからね? 蹴りませんよ? でもね、さっきから右足が軽いんだよね」


 俺の口調が同世代に対しても丁寧語になるのは自分の本心を隠すときが多い。今回も本気でないにしろ怒りの感情を隠すためであった。しかしやはり蹴りたい気持ちもあった。


「いやだってお尻がさ」


 そう言って彼女は腹を抱えて笑った。


「やっぱり蹴っていい?」


「わかってるよ? 今のが変態チックな発言だって」


 チックではない。どう考えても変態そのものである。


 とても好きな人とする会話ではない、ただただ仲の良い友人同士の会話であった。だがそれが楽しかったことに変わりはなかった。

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