春 ペア

 演奏用語でプルトというものがある。ドイツ語で譜面台という意味だ。


 例外はあるが合奏では1つの譜面台を2人の奏者が使う。譜面台を正面にして右側に座る人を表、左側に座る人を裏とよぶ。また、指揮者に近い順から第1プルト、第2プルトと順番がある。


 KSでは本番のとき、つまり全員参加しているときにそのプルトに座ったときの隣に座る人をペアと呼んでいる。


 実はKSの練習では全員が揃う機会はあまりない。高校生はテストで忙しかったりするし、中学生も部活の試合やコンクールでいないことも多い。小学生だって風邪をひくことだってある。そうした様々な理由で毎回誰かが休む。


 そういうときは前のプルトに詰めるようにするが、それは表の人の列と裏の列で独立して詰める。つまり、第1プルトの裏の人が休んだからと言って第2プルトの表の人が第1の裏に詰めることはなく、第2の裏の人が詰めるのだ。


 休む人があまりにも酷いとこんなことだって起こる。第1から第3の表の人が休んだので第4の表が第1の表に座る。


 パートの1つであるファーストヴァイオリンの第1プルト表はコンサートマスター(コンマス)またはコンサートミストレス(コンミス)と呼ばれる。そこに座る人は指揮者の次に偉いことを意味する。


 練習と言えどそんな責任重大なところに第1プルト裏に座る先輩を差し置いて中学生の俺が座るのだ。緊張だってする。


 コンマスの役割の1つにチューニングの際に音を出すことだ。今、自分の出しているラの音がこの後の練習での音になる。少しのズレも許されないし、この音をみんなが聞いている。そう思うと憂鬱で緊張してしまうものだ。


 これだけで済めばまだ良い方である。曲の中にはソロパートがあるときもある。協奏曲のように長時間ではないものの、少しの間、自分が主旋律を奏でる部分があることもあった。


 代打の代打、そのまた代打ではあれど弾くことに変わりはない。突然弾くことになった当時は手汗がびっしょりになった記憶がある。


 1番前に座ることは名誉であるけれど、それに見合うだけの実力も必要なのだ。中学生の俺にとってはコンマスはまだまだ身に余るものだった。



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 中学3年になり、定期演奏会も終わった。そして5月にパートとペアが発表された。


 ヴァイオリンにはファーストとセカンドの2つのパートがある。どちら片方を希望することはできないが、毎年2曲以上やるので少なくとも1曲ずつ両方をすることとなる。


 小5のときのペアは同期の古川とであり、小6のときは鍋島瑞穂なべしま みずほというこれまた同期とであった。中1と中2ではまた古川とであった。


 ここまで説明して察したかもしれないが彼女とは隣はおろか同じパートになったことすらなかった。そしてもし同じパートになったとしても、表同士であったり裏同士であった場合も隣に座ることはないのだ。彼女と隣に座るためにはパートが同じで表裏が異なる必要があった。


 中3のとき、初めて彼女とペアになったのだ。


 練習の休憩や片付けでしか話せなかったが、これでチャンスは広がったと喜んだものの、喜べないことでもあった。


 公立学校に通う中学3年生は一部例外を除いて高校受験がある。KSでは休団制度があり、受験期間中は練習には参加せず受験に集中するのだ。その期間はおよそ夏合宿後から春合宿前まで、つまり8月から翌年3月までである。その間、彼女とは会うことすら叶わないのだった。


 こんなタイミングでペアになっても機会を活かしきれないのだ。昨年や来年にしてくれと軽く恨んだくらいだった。


 それだけではない。KSの上級生はよく休むため、ペアであっても練習時に座る場所がズレてしまい、結局隣り合わないことが頻繁にあった。何ともままならないのが現実であった。


 そして悲しいかな、このペアが最初で最後であった。毎年期待しても叶わなかったことは、言うまでもないことだろう。

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