2年目

春 海外演奏旅行

 正直、小学生のときの記憶なんて今では遥か彼方にあるようなもので、憶えていることは少ない。中学のときも似たようなものだ。であるからこそ今でも憶えている出来事はそれだけ印象的なものだということだ。


 数ある彼女との出来事の中で、特に憶えているものにKSの海外演奏旅行であった出来事がある。


 小学6年生も最後も最後、卒業して中学に入学するまでの春休みのことだ。KSが設立して節目を迎えるということで、その年の定期演奏会ではいつもよりボリュームアップしてやろうというのが前年からあった。そこで今回は海外に行ってその土地の合奏団と合同演奏しようという旅行が計画されたのだ。


 経緯はともかく、俺と撮影兼ホームページを介した報告役として父がその旅行に行くこととなった。また一方で月見里も参加することとなった。


 合宿以上に長時間行動を共にするのだから月見里とたくさん話せたら良いなと考えていた。例えば飛行機の移動時間は10時間近くあるのだから席が近ければ良いなとか期待を抱いていたのだった。しかし世の中そんなに甘くはない。彼女との席は遠く離れており話す機会は全く訪れなかった。


 親子ということもあって父とは隣であった。また近くには同い年の――同期の女の子も2人いた。2人とも月見里が入団するより前に入団しており、機会があれば会話する仲だった。


 その片方、古川聡美ふるかわ さとみは昨年の演奏では、練習本番ともに隣であったため月見里の次くらいには会話の頻度が多かった友人である。


 しかしもう片方、珠奈澄恵たまな すみえはどういうわけか俺を嫌っている。というか嫌悪感を剥き出しにして俺と接していた。俺が覚えていないだけで珠奈に礼を失していることをしたかもしれないが、俺自身からすれば何故か勝手にいつの間にかに嫌われていたのだ。


 そんなこんなで俺は父の他に、仲の良い友人と仲の悪い知り合いの4人で約10時間のフライトを過ごすのだった。


 座席の正面には画面が取り付けられており、映画や現在地の他にも飛行機の真下を映した映像を見ることができた。小学校を卒業したばかりの俺には英語なんてほとんどわからず、出発当初は外の映像ばかり見ていた。


 もちろんその間、少ないが絶無ではない会話にだって参加していた。が、いつの間にか珠奈が父と仲良くなっていた。なんで俺のことは気に食わないのにその父を好くんだとこのときは悩んだものだった。


 さらにしばらくすると、前々から仲が良い古川と珠奈が何やら備え付けの画面でゲームをしていた。それは誰しもが知っているくらいに有名なレトロゲームであった。モンスターから逃げて迷路内の餌を食べるゲームだ。ゲーム好きの俺も早速やり出していた。


 これが難しい。レトロゲームが難しいことは知っていたし、サルがワニにバナナを盗まれて取り返すゲーム内に組み込まれた攻略しないと先に進めないというレトロゲームで躓いたことだってある俺は苦手意識すらあった。


 それでもプレイするのは時間潰しが1番の理由だが、悔しいのもあった。古川も珠奈もやっていて彼女らに勝ちたいというのもあった。


 それは彼女らも同じだったようで、少なくない会話を俺は古川だけでなく珠奈ともしていた。仲が悪かろうとも仲が良くなるときもあるのだなと思った一時でもあった。



*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*



 結局、月見里とちゃんと話す機会を得られたのは旅行も後半に差し掛かった頃であった。それも合同練習の休み時間という普段とほとんど変わらない状況だった。つまりほんの数分であった。


 いつも通りか、と残念がっていたが幸か不幸か、いやどちらかと言えば不幸なのだが事態は転がり込んできた。


 合同演奏会も終わり、さぁ帰ろうとその国の1番大きな国際空港で事故は起きた。事故とはいうが飛行機が事故したわけでもなく、ただ保安検査場で並んでいたときに前にいた人が何かのトラブルで言い合いしていただけである。


 そのときは一向に長い行列が進まないなと思っていたが、後になって聞くとどうやら言葉が通じずにその対応が遅れに遅れてしまったらしい。


 問題はこの遅れがあまりにも酷かったことであった。あまりにも遅れてしまったため飛行機の搭乗に間に合わなかったのだ。その人数、KSの海外演奏旅行参加者50人中、ちょうど半分の25人。珠奈や古川は別の列で並んでいたため間に合ったが、俺や父は間に合わなかったのだ。


 添乗員さんも間に合ってはいたのだが、25人を残していくわけにもいかず、間に合った25人は団員の保護者方に任せて手配をしてくれていた。


 その手配にだって時間が掛かる。なのでその間、俺達は空港ロビーで待つこととなった。まさに難民といえる状況だった。


 本来の予定では日本到着が中学校の入学式前日であり、このままいけば入学式は参加できないなと思いながら到着ロビーに向かう途中、月見里を見掛けた。彼女もまた難民になってしまったのだ。


 彼女は俺とは違って1人で来ていたため、かなり心細かったのではないかと思う。彼女と仲の良い友人達は間に合った組だったようで余計にそうであったのだろう。当時そのようなことを考えていたかは知らないが駆け寄って話し掛けた。


「初めて話したときの遭難を思い出すね」


 迎えが来ずに近くの堀の水で耐え凌ぐしかないと話したあの出来事を俺は話題に出した。彼女も良く憶えていた出来事だから彼女はそれを聞いて笑った。今回はどうしよっかとか、そんなサバイバル妄想だ。


 不安そうな感じはあったが笑ってくれたことに俺は安堵していた。尤も、こんな状況だというのに話せることに俺は喜びを覚えていたのだろう。


 移動中に今日中の出発が難しいことが確定したようで、今日は近くで一泊することとなったらしい。そこで現在2人1部屋のホテルを今予約しているとのこと。それを聞いて月見里は俺を見た。


「……いやいや、俺は父親とだろうし」


 言葉には出されなかったため真意は不明だが、俺には彼女が誘ったように見えた。小学校を卒業したばかりの2人に倫理的な話はどうかと思うが、いくら何でも現状1番仲の良い俺を選ぶのも難しい話だろう。


 もし父がいなかったらそれもありかなと思う俺もいただろう。そのままの意味で一晩中会話が盛り上がるだろうなと思ったからだ。だが仮に父が間に合った組だとしてもそれはそれで別の男の子と相部屋になっていただろうというのは当然の帰結だ。


 そんな妄想はともかくとして、俺には断わるしかなかったが、月見里は無事に年下の女の子とペアを組むことができたようだった。



*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*



 相部屋のペアに選んでくれるくらいには親しい関係になれたと俺は思っていたし、これからも仲の良いでいてくれると俺は信じて疑わなかった。


 俺が当時通っていた小学校では学年全体の人数が少ないのもあって仲が良いと男女問わず名前呼びをしていた。それはどこの学校でもそうだろうが、俺自身は名前呼びは仲の良い証拠だと思っていた。


 だから俺も月見里とも名前で呼びたかった。


 月見里真子。名字も名前もただの1度も忘れたことはなかった。だが俺はこれまで1度たりとも名前どことか名字でも呼んだことがなかった。それは俺と彼女との会話は常に1対1であり、必要性がなかったからだ。


 それでも彼女は俺のことを広瀬くんと呼んでくれていた。俺が呼ばないのは不公平だと思ったし、どうせなら名字より名前で呼びたかったのだ。


 だから俺は恥ずかしい気持ちが溢れながらもこう問い掛けた。


「真子って呼んでいい?」


 だがその期待は本当に一瞬で潰えた。


「嫌だ」


 知り合ってまだ1年と4ヶ月くらいしか経っていないが、それでもこれまででここまで明確な拒絶はなかった。


 理由なんて訊けなかった。あまりにもはっきりと嫌だと言われたショックは俺に二の言を滞らせた。


「そっか……」


 やっとの思いで言えたのはそんな返事だった。別に仲が悪いわけではなし、寧ろ仲はとても良かったはずなのに名前を呼ぶことの拒絶は俺達の関係を明確に切り分けた出来事だった。



*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*



 名前呼びの件でと気まずくなったのはそのときだけで以降は特に普段通りであった。


 ロビーの床に座って俺と彼女は話し続けるものの、結局3時間も待つこととなったこの難民状態で、さすがの俺達も会話をノンストップで続けることはなかった。


 俺は小学5年生のときのクリスマスプレゼントである2画面の携帯ゲーム機で遊び始めた。彼女も彼女でメモ帳サイズの小さなノートと鉛筆を取り出して絵を描いてお互い時間を潰していた。


 ゲームも飽きて俺は彼女に視線を移した。彼女が何やら絵を描いていることに気付いたのはそのときだった。


「何描いてるの?」


 それは誰もがする当然の質問だった。問題だったのはそれが問い掛けと同時に覗き見ようとしていた点だ。


「ダメ!」


 そう言って彼女は絶対に見えないようにノートを抱えて隠した。


「見せてよ!」


 好奇心旺盛と言えば聞こえの良い表現だが、手段が些か強引過ぎた。俺は彼女からノートを奪おうとしたのだ。


「見せない!」


 奪おうとする俺、それを阻止する彼女。明らかに悪いのは俺であるが、どうしても見たかったのだ。


 彼女の振り払った手が俺の顔に直撃し、それと同時に眼鏡が弾き飛んだ。


「あ、ごめん……」


 ここですんなり止めていればまだ良かった。俺はそれでも彼女からノートを盗ろうとしたのだ。ともすればもう掴み合いへと発展していった。


「何仲の良いことしてるんだい。君達」


 そこで止めに入ってくれた人がいた。KSのコントラバスの先生だった。先生の言っていることは皮肉でしかなかったが、喧嘩は止めなさいと言われるよりもすっと気持ちは鎮静した。


「……ごめん」


 100%俺が悪いことは当時の俺でもわかっていた。ノートに描かれた絵を見ることは諦めて素直に謝るのだった。


 これが俺と彼女との最初で最後の喧嘩だった。喧嘩するほど仲が良いとはよく言われるが、俺はそうは思わない。たった1度しか喧嘩せず、中学高校ではそんなことがなかった。


 寧ろ当時の練習で隣に座っていた同期とはしょっちゅう喧嘩していたが、仲の良さは彼女との方が上だ。そんな実例が俺にはあるからだ。


 もしあの場で先生に止めてもらわなければどうなっていたか、俺にもわからない。ほんの30秒にも満たなかった喧嘩が5分10分か1日か、それともずっと続いていたかもしれないのだ。そう思えば、先生に心の中で感謝するのだった。


 仲直りした後は彼女にゲーム機を渡してプレイしているところを見たり、船上レストランでアイスを貰いに並んでいるときに会話したり、元の関係に戻るのであった。


 ちなみに翌日、無事帰ることができた。帰りの便は国際線から国内線の乗り継ぎであり、この国内線の飛行機では通路を挟んでさらに1人を挟んで彼女がいた。もうちょっと近ければ話せたがちょっと難しかった。


 たった50分のフライトではあったが可能な限り話そうと思っていたものの、時差ボケで着陸前には寝てしまった。それは彼女もそうであったが、わずかに早く起きた俺は彼女の寝顔を遠くからではあるが見ることができたのはラッキーだった。

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