第8話 は?


 古河が気圧されて口をつぐむ。


 逆に怒鳴り声を上げて相手を静めるのは心理学にある手法だが、幸のこれは反抗心と違う気がする。根拠はないが、幸の大真面目な顔を見るとそう感じられる。


 幸がガラス張りにビシッと人差し指を向けた。


「もう一度言うぞ古河。あれを見ろ、感じるだろう?」

「な、何を?」

「リビドーをっ!」


 幸がぐっと拳を握りしめる。


 俺は思わず目をしばたかせた。言葉の意味するところを理解したのか、クラスメイトの一部も顔を引きつらせる。


 リビドー。


 すなわち性的欲求。精神科医のフロイトやユングが持ち出した概念だが、こいつ正気か? 煌子の傀儡かいらい相手に、幸はそんなものを感じるというのか。


 古河が口をあんぐりさせた。


「あー……君、名前何だっけ?」

「宇佐井だ」

「宇佐井くん。その、リビドーは感じないと思うなぁ僕は」

「嘘つくな遅刻魔! 肩出しルックにすらっとしたお御脚、そして猫耳! 男ならこみ上げるものがあるでしょぉッ⁉ 男なら!」

「ん、ん~~?」

「首を傾げるな! まずは見ろ!」

「う、うむ!」


 幸の剣幕に圧されて古河が白儡を凝視する。


 頷きがあった。何を思ったか、古河が口元に手を当てる。白儡の頭からブーツの先端まで視線でなぞり、うんうんと首を揺らす。


「どうだ?」

「うむ、えっちだ」

「であろうが」


 幸が満足げに頷く。古河も口角を上げる。


 二人の間で通じ合うものがあったらしい。にこやかに視線を交えるさまは、今にも歩み寄って握手しそうな雰囲気だ。


 和やかなムードとは裏腹に、場の空気は絶対零度のごとく冷え切っている。教職者としてあるまじき発言に、俺も古河の正気を疑うのみだ。


 この場に彩日がいたらどんな反応をしただろう。激しく興味をそそられる。


「……はっ⁉」


 古河が冷めた視線に気付いた。犯行を見られた泥棒のごとくぶるっと体を震わせる。


「ち、違うッ! そう! これは間違いをおかした一生徒をなぐさめるためッ! あえて、あえて話に乗ってあげたにすぎないのだよぉっ!」


 古河が両腕を広げ、上下させ、体全体で自らの正当性を訴える。


 聞く耳を持つ生徒は皆無だ。大遅刻して謝らなかったことも古河の孤立に拍車をかけた。


 もはやクラスメイトにとって、古河は尊敬すべき指導官じゃない。二位で生徒に不誠実な、ちょっとえっちな遅刻魔だ。


「な、何だその目は? やめろっ! そんな目で、俺を見るんじゃあないっ!」


 同種の視線を受ける者がもう一人いた。幸が視線に圧されて一歩たじろぎ、助けを求めて室内を見渡す。


 目が合った。


 やめろ……こっちに来るな間抜け!


「な、なぁ十司。お前も感じるだろ? リビドー」

「いいや感じない、俺はみじんももよおさない。それより俺に近付くな。友人と思われたら恥ずかしい」

「ひっでぇなッ⁉」

「あ、今のは語弊ごへいがあった。同類と思われたくない。一か月は距離を置け」

「大して意味変わんねえよッ! なぁなぁ、誤解があったってみんなに説明してくれよ。悪ノリしただけなんだってば」

「断る」

「そんなこと言わずにさ、白初の名前で場を治めてくれよぉ」

「断る断る」


 断固拒否だ、ありえんぞ。俺まで同類と見なされたらどうしてくれる。一歩間違えたら彩日の耳にも入る。和武さんから怒号を飛ばされるかもしれないんだ。


「白初……」


 つぶやきで意識をぎゅわっと引かれた。振り向いた先で古河の口端が吊り上がる。


 首筋を舐められたようにぞくっとした。とっさに話題を逸らすべく思考を巡らせる。


「白初さん、ねぇ白初さん。君はあの白宣名家の白初だよね?」


 口を開こうとするも一足遅く、古河の発言を許してしまった。


 俺は顔に微笑を貼り付ける。


「先生、気分が悪いので保健室に――『よし! 僕とパペット・ファイトしよう』


 言葉をかぶせられて古河の意図を確信した。


 浅ましくも有効な手段ではある。しかし俺の負担が大きい。その案は受け入れられない。


 俺は状況を打開すべくおどけて見せる。


「ははは、どうして俺が指導官と戦うんですか? 意味が分かりません」

「分からない? 教えてあげよう聞きたまえ」

「俳句ですか? 五七五の字余りとは趣深いですね。俺お手洗いに――」

「他の生徒に興味を持たせるためさ。パペット・ファイトは白儡競技の華だ。僕と君の派手な試合で、クラスメイトのやる気を刺激しようじゃあないか!」


 ここから逃げたいと言っているんだ、人の話を聞け!


 発露しかけた苛立ちをこらえて言葉を紡ぐ。


「俺は戦えません」

「白宣名家の子息だし、少しは戦えるよねぇ?」

「戦闘用の白儡を用意してません」

「白儡の体は鋼鉄より硬い。防具なんて有って無いようなものさ。武器はこちらで用意するよ。同じ得物なら条件は同じだ」


 同じわけあるか。使い慣れた得物を使う方が有利に決まっている。


 防具にしてもそうだ。白儡を形作る核は衝撃に弱い。衝撃を吸収する防具は必須だ。世界大会準優勝者がそれを知らないはずはない。


 反論しようと口を開き、考え直して口をつぐむ。


 どうせ無意味だ。古河は試合に勝って名誉を回復しようとしている。


 世界大会準優勝者という肩書きは大きい。俺と古河。知識のない連中がどちらの言葉を信じるかは明白だ。


 社会は民主主義。見方を変えれば多数決。


 この場において俺が正論を通すのは困難を極める。違う角度からアプローチをかけるしかない。


「指導官、本当はこんなことを言いたくないのですが」

「じゃあ言わなくていいよ」

「いいえあえて言わせてもらいます。名誉の回復に俺を使うのはやめて下さい」


 古河の顔が引きつった。


「な、ななな、何てことを言うんだい⁉ 僕は生徒のために! 生徒のために素晴らしい提案をしただけだというのにッ!」


 古河が体全体を振り回す。自らがいかに良き指導者であるか語り出した。


 目に見えた茶番。無駄、無駄、無駄だ。


 実習に割り振られたのは二時間。古河が遅刻したせいで2コマ目に突入している。空気が悪くなっていくのを肌で感じる。


「白初、やたらと試合を拒否するな」

「負けるのが怖いだけじゃね?」

「それなー」


 案の定。悪いものを悪いと言えない腰抜けどもが愚痴った。腰抜けのつぶやきに影響されてコソコソ話が伝播する。


 白儡操縦において、俺には大きなアドバンテージがある。そこそこの相手なら善戦に見せかけて負けるのは容易だ。


 今回は相手が悪い。腐っても世界大会二位の実力者だ。下手に手加減すると瞬殺されかねないが、本気を出すと俺が勝ってしまう。生徒が指導官に勝つのは好ましくない。


 ここは拒否一択。古河の魂胆も見抜けないアホはどうでもいい。ひたすらに否を突きつけるのみだ。


「聞き分けのない子だなぁ。育ちが悪いって言われたことない?」

「ないですね」

「本当は?」

「神童と呼ばれてました」

「負けるのが怖いならそう言えばいいのに」

「ねー」


 いいぞ、もっとわめけ有象無象。お前達が鳴くたびに古河の孤立が解消される。パペット・ファイトに執着する理由が消える。


 クラスの大半が味方に付いたのだ。奴もそろそろ引く頃合いだろう。


「とにかく、俺はやりません」


 念を押したのを機に、古河が満足げにニヤついた。


「いけない子だなぁ。まあ仕方ないね、試合はまた今度にしよう」


 大きなブーイングが起こった。パペット・ファイトを望む同級生は予想以上に多かったようだ。


 ともあれ古河は矛を収めた。外野がいくらわめこうと無意味だ。俺の立場は悪くなるが、分家ににらまれるよりはずっといい。


 むしろ友人を厳選する手間が省けた。低レベルな人もどきなど俺の友人には相応ふさわしくない。


 古河が手をかざして有象無象をなだめる。


「まぁまぁ。君達も授業時間を縮めたくはないだろう? でも残念だなぁ、白初の操縦技術を見られると思ったのに。白宣名家なんていうからどれだけ強いのかと思ったけど、案外敵対派も大したことないのかもね」

「……は?」


 一件落着を確信した最中さなか、困惑が俺の口を突いた。

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