第2話 過去は笑顔、今は嘲笑
「よーい、どんっ!」
小さい頃の思い出が、張り上げられた声にかき消された。
幼馴染と口角を上げて地面を駆ける。かつては俺たちにもそんな時間があった。
過ぎ去った日々を蹴り飛ばすように地面を蹴った。少し前を走る背中が迫り、ふわりとした甘い匂いに鼻腔をくすぐられる。
手脚を振るのは幼馴染の少女。陽光を吸ったような色合いの髪が後頭部で結われ、我を見よとばかりに踊り乱れている。
程なく隣に並んだ。
背丈は俺よりも頭一つ低いが、時々目で追うくらいには美しい。均整の取れたスタイルが高級ランニングウェアを波打たせている。
ブラウンの瞳と目が合った。あどけなさの残る端正な顔立ちにシワが寄る。
俺は内心で嘲笑って口元を引き結ぶ。ペースを上げて華奢な姿を置き去りにした。
ただの駆けっこでも真剣勝負。手を抜くなどあり得ない。人間相手なら全ての勝負ごとに勝ってきた。この日も負ける道理はない。
枝の先端で刻んだゴールラインを踏みしめる。
「ああっ、もうっ!」
通った声が結果を嘆いた。全力疾走する前にもキロ単位で走ったが、まだまだ余裕はありそうだ。
しかし勝ったのはこの俺。存分に口端を吊り上げて、勝者の特権を甘んじて行使する。苦しみにまみれた世界だが、この瞬間だけは全てが報われたみたいで嫌いじゃない。
顔に微笑を貼り付けて振り向く。
「今日は少しひやっとしたよ。また速くなったんじゃないか?」
「あ、勝者の余裕だ。むっとしちゃうなぁ」
彩日が小さく頬をふくらませる。
あきらめない姿勢は見事だが、いつになったら無駄な努力と悟るのだろう。あるいはそれができないから無様をさらし続けるのか。
体の内から震えが込み上げる。口端が歪んで吊り上がりそうになる。
駄目だ、
笑顔。笑顔。理想の幼馴染を演じるのみ。
「君とはトレーニングにかけた時間が違う。あっさり負けたら俺の立つ瀬がないだろう」
「それはそうだけど負けっぱなしは悔しいよ。入学式までには勝つつもりだったのに」
「これが最後じゃないんだ、チャンスはいくらでもあるさ」
生きていれば。軽いノリで発しかけて口をつぐむ。
こんな冗談洒落にもならない。俺としたことが、勝利の
深く空気を吸い込む。腹をふくらませてふーっと吐き出す。
「そろそろクールダウンしよう。今日は入学式だ、気持ち早めに動いた方がいい」
この日を待ち詫びていた。ずっとずっと楽しみにしてきた。
こんな女のせいで遅刻してたまるものか。返事を待たずに
「待って、私も屋敷に戻るよ」
背後で砂利の擦れる音が鳴った。
全力疾走で千切るのも大人げない。彩日が並べないスピードで元来た道をたどる。
坂道に靴裏を付けた。押し戻さんとする圧力に抗って駆け上がる。何度も走った坂道だ。今さらどうということはない。
対して、後方から聞こえる息遣いは苦し気なものに変わった。
スピードが落ちているのか、靴音が少しずつ遠ざかる。待ってと口にしないのはプライドの為せるわざか。
鼻で笑いたい衝動を抑えるうちに、後方からの息遣いが聞こえなくなった。横目で確認すると後ろを走っていた人影が消えている。
ふんと鼻を鳴らして坂を上り切った。
前方に寺社と見紛うばかりの屋敷が見えた。スロージョギング、ウォーキングペースに移行して玄関前で足を止める。心拍数や呼吸数を段階的に下げて筋肉をほぐす。
「
振り向くなり視界にたおやかな人影が映った。曲げた膝に両手を付き、乱れた息で玄関前の空気を震わせる。嫌いな女だが、大きな胸をハイペースで上下させるさまは見ていて痛々しい。
幼馴染を尻目に追いやって靴裏を浮かせる。
「十司くん、今日はどうする?」
胸に湧いた
走れば夏でなくとも汗をかく。ジョギングの後は、シャワーで汗を流すのが定例だ。
屋敷にはバスルームの他に、簡易なシャワールームが設けられている。湯を浴びるならどちらかを使うしかないが、白初家総帥を務める御仁は孫を溺愛している。俺が彩日を差し置いてバスルームを使おうものなら、後で何を言われるか分からない。
元より今朝は和武さんに呼ばれている。ゆっくり湯船に浸かる時間はない。
「俺がシャワールームを使う。バスルームは君が使え」
「あり、がとう」
思わず顔をしかめかけた。
言うに事欠いてありがとうだと? 俺がバスルームを選ばない理由なんて、立場を考えればすぐに分かるはずだ。考えの浅い人間とはかくも醜きものなのか。
見るに堪えない。舌打ちをこらえて玄関のドアを開ける。ドアを引き戻して視界から彩日を消した。
履き物を脱いで階段の段差に足をかける。自室に踏み込んでデオドラントシートをわしづかみ、程よく湿ったそれでササッと体の表面を拭く。
着替え一式を回収して階段を下った。シャワールームで荷物を手放し、指定された部屋へと足を急がせる。
廊下を踏み鳴らす内に窓が映る。
窓の向こう側に広がるのは豊かな自然。大きな池をたゆたう一メートル級の錦鯉が、気持ちよさそうにすいーっと進む。
奴の名はのん太。すいーっと泳ぐ姿が、彩日にはの~~んと進むように見えたらしい。聞いた時は独特なセンスだと感心したものだ。もちろん皮肉だが。
障子の前で足を止める。脚をたたんで膝の上に握り拳を置く。
「和武さん、十司です」
「入れ」
重みのある声を耳にして、引き手に指をかける。
三回に分けて障子の戸を引く。ほとんどの家庭で行われない和室のマナーだ。面倒な作法ゆえに敬遠される振る舞いと聞く。
マナーは相手に不快な思いをさせまいとして生み出された。面倒な決まりごとが多い一方で、行う者の所作は品を帯びる。
ゆえに権力者にとっては自衛手段になる。各国のトップや大企業の社長など、有名人の動きは世間から注目される。
公の場で恥を晒そうものなら、この人には国や会社を任せられないと思われる。権力は人を動かす力。人々から見放されては終わりだ。最終的には役職から引きずり下ろされる。
これは
特権を駆使する上に私設軍隊を保有する。政治関係者以上に注目を集める一族だ。外面には気を使わなければならない。
「座りなさい」
足を前に出したのを機に、上品なお香の匂いに鼻腔をくすぐられる。
和風な内装の奥に老人が座している。真っ白な羽織に灰色のはかま。白髪は結えるほどふさふさで、表情は目力を感じるほど引きしまっている。
年齢は八十を超えたはずだが、着物作家として人間国宝に至った活力は健在。大海を前にしたような圧倒的存在感は、見る者全てに気の緩みを許さない。
「失礼いたします」
強張りそうになる体をおして、座布団の上に腰を下ろす。
ひげに装飾された口が開いた。
「お主と彩日は今日から高専生だ。できることが増えて羽目を外しやすい時期だが、特に心配はしていない。ただ、お主は少しばかり力を持ちすぎる。念のため行動に制限を設ける」
「うかがいます」
拒否せず耳を傾ける。従順な徒っぷりをアピールだ。
「心得ました。お心遣い感謝いたします」
取りあえず一礼する。
実力を隠せという命令には反吐が出るが、白初の名を保持するためならば仕方ない。代償行為として受け入れるのみだ。
「わしからの話は以上だ。一時間後にはアメリカへ飛ぶ。帰国するまで彩日のことは頼んだぞ」
「お任せください。
王に誓う騎士のごとく、凛とした響きで宣誓した。
和武さんが王なら彩日は姫か。ああ、気分が悪くなってきた。柄にもないことを口にするのは疲れる。
退室すべく腰を浮かせた。
「そうだ、もう一つ言っておくべきことがあった」
「うかがいましょう」
思い出す程度のことだ、どうせ大した要件でもないのだろう。ため息を自重して振り返る。
ヒュッと口内に空気がなだれ込む。
鳥を射落とせそうな鋭い目に見据えられた。大地の鳴動を思わせる声が室内の空気を震わせる。
「お主は優秀だが、どうも人を
喉が干上がったように貼り付いた。
場を満たす沈黙に
「はい、胸に刻んでおきます」
口を突いたのは無様な早口だった。すたすたと廊下に踏み出して、障子の戸で室内と廊下を隔てる。
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