俺のとなり、空いてませんでした

花崎埜娃

第1話 行きつけのバー

(はぁ…。)


4月25日、PM8:00。とある都内のバーの扉に手を駆ける。チリンチリン…。風鈴のような高めの音のベルが鳴る。俺は、さも家かのように堂々と入っていく。なかは暗めで、青みがかった電気が所々店内を照らしている。壁は煉瓦のような模様で、洒落た外国風の絵がいくつか掛けられている。入って右手にはバーカウンターがある。「こんばんは、今日もいつもの?」少し高めのブレッシーな声が俺の右手の方から聞こえる。このバーにいる俺と同い年くらいの美しい女性店員だ。彼女の名前は蒼井 月花(あおい げっか)。本名ではなく、バーでのみ使っている名前だそうだ。狐目で目鼻立ちがしっかりとしている彼女だが、目付きはとても優しく包み込まれるような気分になる。体型は小柄で、すらっとしていて、少しはだけた服からは雪のように白い肌が見えている。そして、色っぽい。髪は染めたことは無いであろう、つやつやで焦げ茶色の髪は、白い小さなリボンの付いたヘアゴムでいつもポニーテールにしてある。化粧はほとんどしておらず、口紅のみのように感じる。もう一度言うが、本当に美しい。「いつもので。」何も思っていないかのようにそう答えつつも、少し彼女に対してドキドキしてしまう。しかし、このドキドキは恋ではなく、女優のことを好きというようなものだ。こんな身近にこういった人がいるのは、やはり嬉しい。さっきまでの仕事疲れも吹っ飛んだようである。こんなことを考えながら移動し、一番奥のバー全体が見渡せる席に着く。店内はさほど広くなく、テーブル席は全部で10個くらい。あとはカウンターが8席と、大きな10人くらいで使えるコンセントつきの今どきテーブルが1つだけだ。今現在はよく見かける常連客しかおらず、席は8割ほど空いており、なんと言っても静かだ。


俺の名前は古家 航大(ふるや こうた)。24歳で、今は某有名IT企業で普通のサラリーマンをしている。入社は2年目で、やっと落ち着いてきた頃だ。仕事は割と好きなので淡々とこなせるのだが、少し他人への気遣いが過ぎて自分で疲れてしまうことが多い。得意なことは人の相談に乗ることと、話の話題をふることだ。対して苦手なことは、自分の気持ちを上手く表現することと…、恋愛だ。俺には過去に彼女がいたことがない。顔も悪ければ身長も低い。性格は自分では良い方ではないかと思うのだが…。やはり人間顔なのか、と思い悲しくなっていたりする毎日だ。でも結婚はしたいので、そろそろ本気で合コン等に行こうかと考えているところだ。はぁ、と冒頭でため息をついたのもそのため。頑張らねば。


自己紹介をするという妄想をしているうちに、商品が運ばれてきた。「はい、今日もゆっくりして行ってね。」完璧としか言い難い笑顔でそう言って、彼女は戻っていった。彼女の良い香り、ラベンダーだろうか。まだ少し香りが残っている。こんなことを考えているのは気持ち悪いんだろうか?と思いつつもやはり良い香りだな、と思う。グラスを右手に手に取り、一口飲む。いつもの、というのは、オレンジ風味のカクテルのことだ。俺には似合わないと思い、この店に通い始めた当初は頼まなかったのだが、彼女が勧めてくれたのだった。そこからよく注文するようになり、今では「いつもの」と言えば伝わるようになった。今日も美味しい。グラスを机におき、ノートパソコンを茶色い手で持つタイプのキャリアバッグのなかから取り出す。実は、働き方改革のおかげで残業が出来ない代わりに、持ち帰ってやらなくてはならないのだ。億劫な気持ちを振り払う。少し疲れているが、やらねば。そう思いパソコンを開き、仕事を始めようとした。その時ー


俺は、硬直したー

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俺のとなり、空いてませんでした 花崎埜娃 @mi-nana

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