第4話 朱く染まった指

  

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 沖縄で三度目の朝を迎えた。ウィークディなので紗季には仕事がある。義明は昨夜の便で東京へ帰った。今日からは一人きりで動かなければならない。

 ブルゾンを持ち上げた時、写真を入れた封筒が床へ落ちた。堂島恭一郎の写真と桃花達の写真だった。拾い上げながら気がついた。ベルリエの當間乃菜美に、まだこれを見せていない。ルミからのファックスに気を取られて、昨日はこのことを忘れていた。もう一度ベルリエを訪ねることに決めて、ビジネスホテルおのでらを出た。空は気持ちよく晴れわたっていた。すでに陽射しは強く、影がくっきりとアスファルトに映っている。

「やあやあ、魚住さん」

 歩き始めてすぐ、誰かに呼び止められた。振り返ると、小太りの中年男性が立っていた。地味な茶色のスーツに、地味なグレーのタイを締めている。赤黒く日焼けした丸い顔のなかで、目つきだけが妙に鋭く目立っていた。

「ああ、赤嶺さんでしたっけ?」

 何かというと大声で怒鳴り散らす、先日の警察官だった。

「名前を覚えてて貰えるなんて、光栄だね」

 薄笑いしながら、赤嶺がこちらへ近づいてきた。ヒゲの剃りあとを、掌で撫でながら、僕の全身をじろじろ見回すみたいにした。

「覚えていますよ。あなたはインパクトがありますからね」

 皮肉を云ってみたが、彼には通用しないみたいだった。平然と後ろを振り返り、片手で小さく合図を送った。通りの隅に白いセダンが停まっている。おそらくは覆面パトカーだろう。

「魚住さん、もう飯は食ったかい?」

 もう一度こちらへ向き直ると、赤嶺が訊いてきた。肉厚で短い鼻に皺を寄せながら、愛想笑いを浮かべてみせたが、僕はその笑顔が好きになれなかった。

「それは職務質問? 答える義務はあるのかな」

 無感情に訊き返すと、彼は首の後ろ側を、掌でごしごしと擦った。

「まだ怒っているのか。まいったな」

「とても執念深いタチなんです。それに、こんなところに張り込んでいても時間の無駄ですよ。どんな邪推をしているのか知らないけれど」

 赤嶺は小さく両腕を拡げ、肩をすくめてみせた。

「このあいだは悪かったと思っているよ。それにね、あんたのことは疑ってないんだ。有村桃花のことで訊きたいだけなんだ。だからさ、一緒に飯でも食わないか。話によっては、彼女を釈放してやってもいい。上に掛け合ってやるよ」

 考えてみた。この男は信用ができない。すぐ応じる気にはなれなかった。

「何を喋れば、桃花を釈放してくれるの?」

 訊くと、赤嶺はその言葉をイエスと解釈したらしかった。馴々しく僕の腕に手を回し、「さぁさ、行こう行こう」と云って歩き出した。

 連れていかれたのは、日本料理店のような造りの店だった。白木作りのテーブルや椅子は、昨日開店したかのように新しかった。黒い艶消しタイルのフロアは、掃除を済ませたばかりなのか、まだ濡れていた。

 おそらくは行きつけなのだろう。赤嶺は店員と挨拶を交わし、笑い合ったりしている。けれど沖縄の言葉なのでさっぱり解らない。英会話のほうが、もう少し聞き取れそうなくらいだ。白木のテーブルへ落ち着くと、赤嶺は僕のために鰻重を頼んでくれた。(何だって朝からこんなものを)と思ったが、彼からすれば奮発したつもりなのだろう。

「でさ、このあいだの話なんだけどな。あの朝、比嘉から電話が来て、それからすぐに小野寺を呼び出したって云ってたよなぁ」

 赤嶺は大根やら昆布やらを煮込んだものを食べていた。それは大きな丼に入れられていて、おでんの盛り合わせに似た感じだった。

「云いました」

 僕は答えて、彼の食事を何気なく見ていた。テニスボールよりも一回りくらい小さい、肌色の柔らかそうなものを食べている。練り製品のようにも見えるが、どうやらそうではなさそうだった。やがて視線に気づいたのか、赤嶺が顔を上げた。

「何です? それ」

 赤嶺はちょっと視線を落とし、肌色のそれを箸で摘み上げた。

「これか? これはティビチ……、豚の足先だよ。一つやろうか」

 云われてみると、確かに豚足だった。足首から切り落とし、そのまま煮込んだだけで、原形が生々しく残っている。僕が首を振ると、赤嶺は苦々しく笑った。

「ヤマトの人間は残虐性があるくせに、変なところで神経が細いからな。食ってみれば美味いんだ。身体にだっていいんだぜ」

 彼は自分の言葉に満足そうに頷くと、骨つきの豚足を美味そうに食べた。それを見ているうちに、何だか食欲が失せた気がした。

「で、桃花のことですが、何を訊きたいんです?」

 赤嶺はさっきから、桃花のことにはまるで触れなかった。気になっていたので、自分から切り出してみた。

「ああ、ちゃんと釈放してやるよ。それよりもさ、比嘉から電話が来て、あんたはホテルのフロントへ下りていった。フロントの電話で小野寺を呼び出すまでがせいぜい五分。そして、外で小野寺の車を待っていた時間もせいぜい五分だったよな。それは確かなのかい?」

「タイムウオッチで測っていたわけじゃないから、正確な数値じゃありません。でも、どちらも五分ぐらいだったはずです」

 桃花のことはどうやら、連れ出すための口実に過ぎないらしい。それに彼は小野寺隆司を疑っている。あのファックスといい、小野寺はあちこちで疑われているみたいだった。

「僕も考えてみたんです。あの朝、フロントにいた従業員は、すぐ小野寺さんへ電話を入れてくれた。けれど電話をかけた先が、本当に小野寺さんの部屋だったか判らない。従業員が共犯で、小野寺さんが携帯電話を持っていた可能性もある。だけどその推測は、事件の現場、つまり比嘉さんの家から五分前後で戻ってくる方法がなくちゃ成り立たないはずです。それに小野寺さんは、あの時パジャマを着て、ホテルの名前のついた車に乗っていました。五分で戻れるとしても、着替えたり車を乗り換えたりする時間はないと思います。普通に考えて、殺人犯がパジャマを着たまま、身元がばれそうな車に乗って出かけるでしょうか?」

「そう、その通りだよ」

 驚いたようにしながらも、赤嶺は頷いてみせた。

「けれど、なぜ小野寺さんを疑っているんですか?」

 赤嶺は困った顔をした。食べかけの豚足を丼に戻し、口の中のものを嚥下してから、こちらを見た。

「あらゆる可能性を調べなくちゃならねぇんだ。小野寺だけを疑っているわけじゃねぇんだよ。それからさ、できれば俺が来たってことは黙っていてもらいたいね。小野寺も気分はよくないだろうし」

 僕は思わず笑ってしまった。

「あなたにそんなデリカシーがあるとは信じられないな。つまり、警戒されたくないからでしょう?」

 赤嶺は顔をしかめながらも、微かな苦笑いを浮かべた。

「まぁ、こんな場合、勘づかれずに聞き込みをするっていうのが、無理な話なんだけれどな……。でもさ、もしあんたが比嘉の仇を打ちたいと思っているなら、黙っていてくれないか。大切なことなんだ」

 僕は考えてみた。黙っているのはかまわない。けれどせっかくだから、弱みに付け込んでみようと思った。

「交換条件を出してもいい? たいしたことじゃないんだ」

「云ってみなよ」

 露骨に嫌な顔をしながら、赤嶺は答えた。

「比嘉さんの消息がつかめているのかどうか、それを教えてほしいな」

 赤嶺は黙り込んでしまった。どうするべきかを悩んでいるらしい。あるいは適当な嘘を作り出して、教えようとしているのかも知れなかった。この男なら、そのくらいは平気でやりそうだ。

「消息はつかめてないよ」

 しばらくの後、おもむろに口を開いた。 「彼女の島は宮古なんだが、実家には戻ってないし、親しい友人も訪ねてない。沖縄から出た可能性もある。考えられるところは全部当たった。年末に東京へ遊びに行ってるから、東京の友達にも確認した。けれど駄目だった」

「ついでにさ、小野寺さんを疑っている理由も教えてくれないかな」

 続けて云うと、赤嶺はさらに憮然とした表情を作り出した。

「なぁ魚住さん、これは遊びじゃないんだ。教えるのは簡単さ。だけどね、それを聞いたばっかりにあんたが狙われる可能性だってあるんだぜ」

 彼は憤慨しているように見えた。それが演技かどうかまでは判らなかったが、これ以上聞き出すのは難しそうだった。僕は素直に諦めて、鰻重を食べることにした。

「あんたの別れた女房は、なるだけ早く釈放してやるよ。だからさ、あの朝のことで、何か思い出したら知らせてくれよな」

 少しの間を置いて、赤嶺が宥めるように呟いた。

「嘘をつくことになると嫌だから、約束はしません。でもあなた達の邪魔をするつもりはないし、協力できることは協力するつもりでいますよ」

 赤嶺は不機嫌そうに笑った。それから照れているみたいに、割り箸の頭で頬のあたりを掻いた。彼はおそらく小野寺が怪しいと踏んでいるのだろう。けれど僕の証言がネックになっているのだ。ルミの家から五分ほどで戻ってくる方法……、警察も気づかないような方法があるのだろうか?と思った。




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 飛行機の音が聞こえた。見上げると、空の高いところに黒いシルエットになった機体が見えた。まっすぐ続く裏通りには、車も人影も見えなかった。青空と白く塗られたコンクリートの家並みが、陽射しのしたで鮮やかなコントラストになっている。

 通りの反対側に電話ボックスを見つけた。道を横切ってガラスのドアを開けると、なかの空気はむっとするほど温まっていた。僕はもたれるようにしてドアを開けたまま、メモ用紙を取り出し、それを見ながらベルリエの番号を押した。三度目のコールで受話器を取り、店名を名乗ったのは當間乃菜美だった。

「昨日伺った魚住です。忙しいところ申しわけないんですが、比嘉さんの住所を教えてほしいんです」

 乃菜美は『待っていただけますか』と云って、アドレスを捜し始めたようだった。ノートか何かをめくる紙音が聞こえた。やがて彼女はゆっくり住所を読み上げた。僕はそれをメモ用紙に書き留め、確認のため繰り返した。

『そう、それで間違いありません。解りましたか。何か』

 ここで説明してもよかったが、話が入り組んでいるので面倒臭かった。

「後でそちらに伺います。見てほしい写真があるんです」

『そうですか。何時ごろにいらっしゃいますか』

 腕時計を見てみた。ちょうど十一時を過ぎたくらいだった。

「二時間くらい後でいいですか? 一時ぐらいに」

『私は二時過ぎのほうが助かります。店が二時くらいから昼休みに入るので。もしよければ、遅めのランチをご一緒しましょう』

 相変わらず彼女は、硬く低い声で話した。好意的なのか迷惑がっているのか、まったく判別できない話しかただった。僕は受話器を戻して電話ボックスから出た。運よくタクシーが通りかかり、それを捕まえることができた。ドライバーは愛想のいい中年男性で、髪にはかなり白髪が混じっているものの、色黒の横顔からは青年のような活気が感じられた。住所を告げると、彼は「はいよ」と答えて威勢よく走り出した。

 微かに冷房のきいた車内で、記憶を整理してみた。一昨日の朝、小野寺が車を回してきた時、時計は五時五十分を過ぎたくらいだった。ルミの家に着いたのは、確か六時十二分だった。つまり車に乗っていた時間は、二十分ほどだろう。

「このあたりじゃないかな?」

 運転手に云われて顔を上げた。いつのまにかタクシーは、道幅の広い住宅街を走っていた。両脇にブロック塀が続き、その向こうには古びた家屋が並んでいる。ルミの家の近所も、確かにこんな感じの景色だった。

「とりあえず、停めてください」

 徐行していたタクシーが停車した。僕は料金メーターを見てから、千円札を手渡した。

「ちょっと待っていてもらえませんか。すぐ戻ってきますから」

 運転手は「いいよ」と答えて、シートに身体を沈めた。僕はタクシーを降りた。目立った特徴のない家屋が並び、ほとんどのブロック塀のうえに鉢植えが置かれている。目印になるものがないせいで、ルミの家を見つけるのは難しかった。やっと路地を見つけて、舗装されていない地面を進んでいった。

 突き当たりに白いコンクリート住宅がある。キッチンの窓ガラスは割れたままだった。踵を返し、道を引き返した。問題はここから五分前後で、ビジネスホテルへ戻れるかどうかだ。タクシーの運転手は、新聞を読みながら待っていてくれた。サイドウィンドーのところまで来て、僕は沖縄のポケットマップを取り出し、それを車外から運転手に差し出した。

「地図でいうと、ここはどのへんになるんですか?」

 サイドシートへ新聞を置くと、運転手は受け取って地図を眺めた。すぐに指先で一点を押さえて、「このへんだね」と答えた。

 ポイントを確認してから受け取った。地図の隅に縮尺が載っている。『ビジネスホテルおのでら』までの直線距離を計ってみた。三キロメートルほどだった。

(直線で三キロ……。実際は四キロ弱といったところか)

 妙な気がした。混んだ街中を走れば、四キロの距離に、二十分かかる場合もあるだろう。しかし、あの朝の小野寺はかなり飛ばしていた。

「どうかしたの?」

 運転手が不思議そうに訊いたが、僕は黙って考え続けた。ここから五分ぐらいでホテルへ戻れるのなら、小野寺のアリバイは崩れる可能性があった。けれど四キロの距離があるのでは、それは難しそうだ。しかし二十分もかかるのも不自然に感じられた。

「訊きたいんですけど」

 僕は再び地図を差し出し、ここからホテルまで何分くらいかかるのか?を訊いてみた。彼は地図を一瞥しただけで、「場合によるよ」と答えた。

「朝早く、ほとんど車が走っていなくて、あまり信号にも引っかからなければ?」

「信号の待ち時間にもよるけど、十分ぐらいだと思うね。時間を計ったわけじゃないから、正確なことは判らないけどさ」

(やっぱりな)と思って、僕は一人で頷いた。

「ものすごくスムーズに行けば、何分くらい?」

「七分、いやぁ八分くらいかな。街中だし、あちこち曲がるからね。そのぐらいはかかるよ」

 面倒臭そうにしながらも、運転手は真面目に答えてくれた。

「四・五分では無理かな」

「無理だろうね。それよりさ、これからどこかへ行くのかい」

 呆れたように云った。表情にこそ出さないが、いいかげん苛立ってきているのかも知れなかった。

「このホテルまで行ってくれませんか。できるだけ急いで。時間を計りたいんです」

「いいよ」

 僕はリアシートへ乗り込み、腕時計を見詰めた。秒針を追いながら考えた。早朝なら十分ほどしかかからない。しかしあの朝は二十分かかった。最も可能性が高いのは、小野寺が急いでいる振りをしながら、遠回りをしたケースだろう。けれど問題は、どうしてそんなことをする必要があったのかだ。

「お客さん、いつまで沖縄にいるの」

 不意に訊かれて、顔を上げた。運転手はかなりのスピードで車を走らせてくれていた。カーブを曲がる時には、身体が横へ持っていかれた。リアシートに被せられた、緑色のビニール製カバーは滑りやすく、身体を支えるのに不向きだった。

「はっきり決めてませんが、あと二・三日でしょうね」

 両脚に力を入れ、身体を支えながら答えた。言葉の途中で、タイムリミットが近いことに改めて気づいた。仕事を休み続けるわけにはいかないし、かといってこのトラブルが、数日中に解決するとも思えなかった。

「海へはもう、行ったのかい」

 運転手が続けて訊いた。僕は秒針を見詰めたまま、「いいえ」と答えた。

「沖縄に来たら海へ行かなくちゃ駄目だよ。何だったらさ、これから行かないかい? いい場所があるんだ。泳ぐには早いけど、グラスボートには乗れるよ」

 これは営業活動なのかと気がついた。タクシーの運転手に行き先を提案されたのは、生まれて初めてだ。とりあえず「色々と、やることがあるんです」と答えておいた。

「お客さん、何をしに沖縄に来たの」

 運転手がまた訊いた。顔を上げると、タクシーは国道を横切ったところだった。ビジネスホテルおのでらの傍まで来ているのが解ったので、僕は再び時計へ視線を戻した。走り始めて十一分を過ぎたところだった。

 間もなくタクシーは停車した。十三分八秒。あの朝より道は混んでいたし、信号にも引っかかった。もちろん運転手は、小野寺のように信号無視はしなかった。

「でさ、行かないかい? グラスボート」

 サイドブレーキを引いてから、運転手が肩ごしに振り返った。グラスボートというのが、どんなものか知らなかったが、笑って首を振った。

「また、今度の機会にしておきますよ」




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 自動ドアをくぐって、ホテルへ入った。カウンターテーブルの奥にはコオロギに似た顔の従業員が一人だけいて、二つ折りの紙片を手渡してくれた。また紗季からの伝言だった。至急連絡を欲しいと書いてあり、最後に携帯電話らしい番号が添えられていた。

 僕はもう一度外へ出て、近くの公衆電話へテレフォンカードを入れた。フロントの隅にも公衆電話があったが、コオロギと小野寺が共犯という可能性がある以上、警戒したほうがいいと考えたのだ。メモの番号をプッシュすると、『羽生です』と紗季の声が答えた。

「ごめん。携帯電話ってことは外出中だよね。話しても平気かな?」

『いえ、会社にいます。自分の携帯電話を買ったんですよ。それで番号を伝えておいたんです。そんなことより魚住さん、さっき警察から連絡があったんです。桃花さんを釈放するから、誰か来るようにって』

「本当に?」

 驚いて、訊き返した。

『私が行ったほうがいいんじゃないかと思うんです。魚住さんが行くより、彼女を刺激せずに済みそうじゃないですか』

 確かに、義明の代わりに僕が出向いたりしたら、桃花は混乱するだろう。「そうしてもらえるかな」と答えた。

『じゃあ、仕事を六時くらいで終わらせて、警察へ行きます。とりあえず私の部屋へ連れていきますけど、それからどうしたらいいですか?』

 急に云われても、考えつかなかった。彼女もしばらく電話口で悩んでいるようだった。

「ねぇ紗季さん。昼食はどうするつもり? 僕はベルリエの當間さんと約束してるんだけど、よかったら一緒に行って、その時に相談するのはどうかな」

 紗季が同意したので、受話器を戻した。確かに赤嶺の言葉通りになったが、展開が早すぎる。彼が上司に掛け合うとかじゃなく、釈放は決まっていたに違いない。そんなことを思いながら、僕はもう一度フロントカウンターへ歩いていった。

「小野寺さんを呼んでくれないかな」

 コオロギは困った顔をしてみせた。

「小野寺は鹿児島へ行っておりまして、明後日にならないと戻らないんです」

「出かけた? いつから」

 慌てて訊き返した。

「出かけたのは、ほんの三・四十分前です。宿泊先は聞いておりませんが、何度か電話を入れると申しておりました」

(まいったな)と思いながら、僕は言葉を続けた。

「じゃあね、電話が来たら伝えてくれるかな。気づいたことがあるんだ。警察に話そうかとも思うんだけど、そうすると小野寺さんに迷惑がかかる可能性が高い。だから連絡を取りたい。そう伝えてくれる?」

 コオロギは驚いたようにしながらも、頷いてみせた。危険を伴うやりかただが、このくらいしないと時間切れになってしまう。いったん部屋へ戻ることにした。ブルゾンからフランネルシャツに着替えて、再びホテルを出ようとすると、コオロギが正面入口の脇に立っていた。休憩時間に入ったのか、制服のジャケットは着ていなかった。視線が合うと、目配せしてみせた。

「話があるんですよ。お役に立てると思うんですけれどね」

 コオロギは近づいてきて、もったいぶった笑みを浮かべた。 「比嘉さんのことを調べているんでしょ。俺は色々と事情を知っているんです」

「事情?」

 訊き返すと、コオロギは右前方を顎で示して、気取った仕草で歩き出した。彼はホテルの脇にある砂利敷きの駐車場へ入っていった。手前に古ぼけたアパートがあるせいで、空間のほとんどが通りから死角になっている。ロープで区分けされた十台ぶんほどの駐車スペースは、半分も埋まっていなかった。一番奥に赤いホンダ・シビックがあり、その隣にホテルの白いワンボックスカーが停めてあった。コオロギはワンボックスカーの前まで来ると、踵を返して向き直り、口元に笑みを浮かべた。薄い唇がめくれて、大きな八重歯が覗いた。

「比嘉さんはね、半年くらい前までこのホテルで働いていたんです。妙なトラブルがあって辞めたんですけどねぇ」

 相変わらずのもったいぶった口調で云った。

「働いていたのは知ってるよ。けれど、妙なトラブルって?」

 コオロギは答えなかった。両手をポケットに入れて、身体を小刻みに揺らしながら、にやにやしていた。

「妙な話なんですよ。だけど、簡単には教えられないなぁ。交換にしませんか」

 僕は「え?」と問い返した。

「さっきの話ですよ。支配人の立場が悪くなるようなことを、知ってるんでしょう?」

 コオロギは奇妙なくらい嬉しそうな顔をしていた。僕はしばらく考えてから口を開いた。

「云いたくないな。勘違いだった場合、小野寺さんに迷惑がかかるしね」

 コオロギは顔をしかめたが、次の瞬間には薄い唇を歪め、取ってつけたような愛想笑いを浮かべた。

「それはひどいなぁ。俺だって比嘉さんのことは心配しているんです。魚住さんが味方だと思ったから、知っていることを喋ろうとしているのに……。支配人と比嘉さんの関係についてはね、前に興信所が調べに来たこともあるくらいです。かなり重要な話だと思いますけれどねぇ」

(興信所?)

 気持ちが動いたが、話してしまうのはリスクが大きい気がした。彼が単なるゴシップ好きなのか、なんらかの形で事件に関わっているのか、判断できなかったからだ。

「簡単には教えられないことなんだ。本当に申しわけないんだけどさ」

 そう答えるしかなかった。コオロギは少しのあいだ黙っていたが、渋い声で「後悔すると思いますけどねぇ」と呟き、こちらを一瞥してから背中を向けた。彼はそのまま気取った足取りで去っていった。コオロギが見えなくなってから、僕は駐車場のフェンスにもたれ、長く息をついた。

 ホテルの壁と向き合う形で、駐車場のフェンスにもたれたまま、しばらくぼんやりしていた。胸ポケットから煙草を取り出そうとした時、砂利を踏んで近ついてくる足音が聞こえた。ストロベリーピンクのカーディガンを着て、丈の長いグレーのスカートを穿いた初老の女性だった。大半が白髪になった髪を染めることもなく、ショートボブにしている。大柄なその女性は、猫背気味の姿勢で、僕の視界を右から左へ横切っていこうとしていた。

 小野寺の姉だとすぐには判らなかった。一昨日は黒っぽい服を着て、険しい空気を発散させていたせいもある。少し迷ったが、煙草を胸ポケットへ戻した。そして彼女の姿が消えていったホテルの裏側へ歩き出した。明確な目的があるわけではなかった。ただ、小野寺の姉と親しくなっておいたほうが、都合がいいような気がしたのだ。

 ホテルの壁に沿って右へ曲がると、三メートルと行かないところに、しゃがみ込んでいる背中が見えた。彼女の目の前には雑草のほうが目立っている芝生があり、そのなかに一坪にも充たない花壇が作られていた。花壇には小振りな赤い花が咲いていた。気配に気づいたらしく、小野寺の姉が肩越しに振り返った。

「こんにちは」

 努めて明るく声をかけてみた。しかし彼女は、困ったみたいな表情で黙っていた。

「小野寺さんのお姉さんですよね?」

 彼女は疲れたような目を何度か瞬かせた。親しみやすいとはいえないが、一昨日ほどの偏屈さも感じられなかった。あの時は弟を心配して、気が立っていたのかも知れない。

「三日前から泊めていただいている魚住です。土曜の朝、弟さんと一緒に比嘉さんの家へ行った者です。弟さんに訊きたいことがあったんですが、出かけていらっしゃるんですね」

「仕事で鹿児島へ行きました」

 強ばった声で答え、小野寺の姉は立ち上がった。両腕はだらりと両脇へ下げていた。眼差しには、警戒の色が残っていた。 「業者の会合を忘れていたとかで、ついさっき出ていったんです」

 コオロギから聞いた話と同じだった。ふと、彼女の手に目をやった時、数本の指先に朱い色がついているのに気づいた。単純に血を連想して、彼女の顔を見た。虚ろな目が、無感動にこちらを眺めている。僕は小さく頭を振り、非現実的な想像を追い払った。それから、適当な言葉を告げて、会話を切り上げてしまうおうと考えた。少なくともこれで、顔ぐらいは覚えてもらえたはずだ。

「お訊きしたいことがあったんですが、お戻りになるのを待つことにします」

 そう云って背中を向けようとした時、彼女が一歩踏み出して、口を開いた。

「どういったことかしら?」

 感情のこもらない声で、彼女は訊いた。視線はこちらへ向けたまま、そっと指先でスカートの皺を整えた。僕はちょっと困ってしまった。

「実は、噂を聞いたんです。弟さんと比嘉さんのことで、興信所が訪ねてきたって」

 思い浮かんだ言葉を、そのまま口に出した。彼女は疲れたみたいに苦笑した。それから右手で顔の半分を覆うようにして、その手でゆっくりと髪をかき上げた。

「そんなことを云ったのは、おそらく池間でしょうね?」

 僕は返事をせずに、曖昧に微笑んでみせた。コオロギの名前が池間なのかどうか知らなかったからだ。黙っていると、彼女は一人で頷き、また言葉を続けた。

「弟と比嘉との間に、ちょっとした噂があったのは事実です。でも単なる噂に過ぎません。それに比嘉のような女は、弟の好みではないんです。もしかしたら、比嘉に好意を寄せられて、少し気持ちが動いたりしたことはあったかも知れません。でもそれは、一時的な気の迷いみたいなものでしょう」

 彼女の顔には感情がなかった。しかし、表情に出していないだけで、気分を損ねていることは間違いなさそうだった。

「噂を信じているわけじゃないんです。信じていないからこそ、小野寺さんに確認したかったんです。でも、弟さんのことをよく理解してらっしゃるんですね。僕にも妹がいますけれど、あいつが何を考えているかなんて、まったく解りませんよ」

 明るい口調で云ってみた。深い考えもない言葉だったが、彼女は過敏に反応した。

「そういうことも、池間が云っていたんでしょうね?」

 彼女は眩しいものでも見るように顔をしかめ、それから頭を振った。 「私と弟のことで、いかがわしい噂があることも、ちゃんと知っています。池間はそうやって騒ぐのが好きなだけの男です。私達は、傍からは奇妙に見えるんでしょう。でも、人にはそれぞれ複雑な事情も過去もあります。それを知らないで、面白おかしく騒ぎ立てるのは、悪趣味じゃありませんか?」

 その通りだと思ったので、「確かにそうです」と肯定した。気まずい雰囲気を和らげるために、言葉を付け足そうとしたが、思い浮かばなかった。彼女と話していると、なぜかリラックスできなかった。

「事情を話さないと、信用してもらえないみたいですね?」

 平板な声で、小野寺の姉が続けた。意外に感じて、彼女の顔を見た。どうやら僕の沈黙を、自分達を疑っているせいだと解釈したらしい。正直なところ、小野寺姉弟の近親相姦疑惑に関しては、興味が持てなかった。しかし、成り行きにまかせて過去の複雑な事情というのを聞くうちに、重要な事実が飛び出してくる可能性はありそうに思われた。

「嫌な気持ちにさせてしまったことは、申しわけなく思っています」

 しばらく考えてから、口を開いた。 「実をいうと僕は、事件があった前の晩、比嘉さんから家に泊まってくれと頼まれていました。彼女は身の危険を感じていたんです。なのに、僕は断ってしまいました。だからこんな結果になって、後味の悪さを感じているんです。もし差し支えなければ、話を伺わせてください」

 小野寺の姉は無言で頷いてみせた。続けて「そういうことだったんですか」と呟いた。 「後味の悪さから開放されるためにも、何が起こったのかを知りたいんですね。そんな気持ちになるのも解らないではありません。そして私達姉弟は、傍からは奇妙に映るから、怪しむ気持ちになったんでしょう。別にそれを怒るつもりはありません」

 それから彼女はしばらく黙っていた。左手は下げたまま、朱い色のついた右手で、スカートを軽く引っぱったりしていた。やがて彼女は、少しだけ和らいだ声で話し始めた。

「私と弟は、普通の姉弟とは違って見えるかも知れません。でもそれは隆司……、弟の隆司が小学四年生の時に、両親が離婚したせいなんです。母は出ていって、それきり戻りませんでした。私はその時、二十歳を越えていましたから、両親の離婚をいくらか客観的に理解できました。でも隆司にはそれができなかったのでしょう」

 そこまで話すと、彼女はまた眩しいものでも見るような目で、まじまじとこちらを見た。僕は黙って頷くしかなかった。

「あの時、母の代わりとして、隆司を支えてやれるのは私だけでした。少なくとも私がベストな存在だったと信じています。それで私は、隆司が支えを必要としなくなるまで、結婚はしないと決めました。もし私が結婚したら、隆司は孤独感に苛まれてしまったはずです。まぁ、そうするうちに、婚期を逸してしまったんですね。でも、それでも隆司は、恋愛や結婚にどこか臆病になってしまいました。母に捨てられたことが尾を引いているのだと思います。時間が解決すると考えていましたが、そう簡単ではないようですね」

 彼女はそこまで話すと、ひどく疲れたように、溜め息をついた。想像したよりも重たい話だった。深刻な他人のプライバシーに、無遠慮に踏み込んだ後ろめたさを感じないわけにはいられなかった。

「どう云っていいのか、よく解りませんが。でも、あなたと弟さんの関係が、いかがわしいものでないことは理解できました。非礼はお詫びしたいと思います」

 今度は、素直な気持ちで謝罪した。そのような背景があるなら、一昨日の彼女の態度……、幼児を気遣う母親のような態度も、不自然には感じなかった。極端に歳の離れた姉が、弟を気遣う感情に、母性的な要素が加わっても不思議はないだろう。それが数十年を経た今でも、時々顔を覗かせるのはありえる話だ。

「理解してもらえて、嬉しいわ」

 小野寺の姉は初めて笑顔を見せた。僕も微笑を浮かべてみせたが、晴れやかな気持ちにはなれなかった。なぜなら僕は、土曜日朝の遠回りの件も含め、小野寺隆司のことをまだ疑い続けていたからだ。




         20


 一時間ばかり後、當間乃菜美と紗季に連れられ、僕は歓楽街を歩いていた。古びた民家を改装した店が多かった。通りに面する側だけを手直しして、ネオン看板や店舗用ドアを取りつけてあるのだ。入り口付近は綺麗だが、屋根は錆びたトタンで、側壁を電気コードが汚らしく這い回っている店もあった。夜になればそれなりの雰囲気を醸すのだろうが、陽射しに晒された歓楽街は、どうにも間の抜けた感じだった。

 辿り着いたのはステーキハウスだった。コンクリート造りの一階建てで、窓は一つもなく、看板がなければ、誰もステーキハウスだと気づかないだろう。

「魚住さんに沖縄のステーキを食べさせようって話してたんです。沖縄にはステーキハウスが多いんですけれど、ここは観光客相手の店じゃなくて、本当の沖縄のステーキハウスなんです」

 どこか得意気に説明しながら、紗季がドアを開けた。紗季と乃菜美は初対面だが、僕を待っているわずかな時間だけで、随分と打ち解けた様子だった。

 薄暗い店内には飾り気がなく、古びた病院の地下食堂みたいだった。壁に取りつけられた扇風機が、生温い空気を掻き回していた。空いているテーブルを見つけ、奥に乃菜美が、その向かい側に僕と紗季が座った。

「魚住さんは、何にします?」

 壁のメニューに目をやった。白いプラスチックボードに、品名が英語で書かれ、カタカナでルビが打ってあった。ステーキの以外にも料理が並んでいるが、まったくもって支離滅裂だ。スパゲッティとミソシル、タコスとスキヤキが同じ列に並んでいた。店内の装飾にも統一感がなかった。ジュークボックスと[福沢諭吉・心訓七ヵ条]の額縁は、どう考えても相性がよくない。

「観光客相手のステーキハウスとは全然違うでしょう?」

 感心して眺めていると、紗季が楽しそうに訊いた。 「ここはアメリカが統治していたころからの店なんです。こんな風に、色々な文化を片っ端から取り込んじゃうのが沖縄流なんですよ」

 結局三人とも、テンダーロインステーキを注文した。オーダーが済んだ後で、僕は二枚の写真を、向かいにいる乃菜美へ手渡した。一枚は桃花と義明が一緒に写っているもので、もう一枚は堂島恭一郎だ。「この三人のなかに、見覚えのある人がいませんか」と訊いてみた。

 乃菜美は気難しそうな眼差しを写真へ向けたが、すぐに視線を僕へ戻した。

「誰なんですか?」

 三人の名前と、その関係を説明した。乃菜美はもう一度写真へ目をやったが、何も思い出せない様子だった。

「仕事柄、客の顔はなるだけ覚えるようにしてはいるんですが」

 人差し指で眉根を押さえるようにしながら、彼女は息をついた。 「申しわけありませんね。ちょっと。一度や二度くらいですと」

「無理もないですよ。それで、魚住さんのほうでは解ったことがあるんですか」

 ちょうどその時、ステーキが運ばれてきた。炒めたオニオンが添えられているだけで、素っ気ない盛りつけだが、ボリュームだけは相当なものだった。東京都心なら倍近い値段がつくだろう。

「これまで解ったことを順序立てて説明するよ。まず小野寺さんにはちゃんとアリバイがある。ただ彼の行動には、不自然なところもあるんだ。土曜の朝、急いでいる振りをして、遠回りをしたみたいだ」

「遠回り。どうして?」

 ステーキを小さく切り分けながら、紗季が訊いた。

「それが解らない。ねぇ當間さん、比嘉さんは以前、小野寺さんのホテルで働いていたんでしょう? 辞めた理由を知ってますか。以前それと関連した問題で、興信所が来たこともあったらしいんですけれど」

 コオロギの話が引っかかっていたので訊いてみた。乃菜美は持っていたフォークを置いてから、おもむろに話し出した。

「ええ、比嘉ちゃんから聞いてます。それが変な話なんです。比嘉ちゃんと小野寺さんが恋人同士だって噂を流したらしいんです。それも小野寺さん本人が。あの歳で独り身だし、お姉さまと仲がいいんで、噂されるらしいんです。なんていうか、その、近親相姦だとか……。それが嫌だったって云うんです。それが原因で色々と気まずくなって、比嘉ちゃんはホテルを辞めたんです。でも、興信所の話は初めて聞きました。誰が頼んだんですか?」

「そこまでは解らないんですよ」

 僕は小さく頭を振ってみせた。断片を掻き集めただけで、結局は何も解っていないのだ。それに興信所の件は、コオロギの作り話という可能性もある。

「噂されるのが嫌だったとしても、不自然ですね」

 紗季が云ったので、頷いてみせた。近親相姦と誤解されたくないとしても、他にもっとマシな方法がいくらでもありそうだ。

「でも、解らない。小野寺さんが犯人であるにしろ、そうじゃないにしろ、どうして比嘉ちゃんが狙われるのかしら?」

 細い眉をしかめ、一段と低い声で、乃菜美が云った。

「そうなんです。動機が解らないんです。でも、桃花さんが戻ってくればはっきりすると思います。もうすぐですよ。夕方には釈放になりますから」

 紗季は対照的に、明るい声で答えた。


 午後七時過ぎに、紗季の部屋へ電話を入れることに決まった。桃花の精神状態が解らなければ、どうしようもないと結論したからだ。桃花の状態がよさそうだったら、僕も紗季の部屋へ行って話を聴く。もし駄目なら、紗季が一人で彼女のケアをする。それがいいだろうという結論になった。しかも紗季は、桃花の相手をするために、明日と明後日の休暇を申請してくれていた。さすがに申しわけない気になったが、義明が帰ってしまった以上、彼女に頼る以外に方法がないのも事実だ。

 最初に食事を済ませた紗季は、「あまり時間がない」と云って、一人だけ先に席を立った。逆に乃菜美は時間に余裕があるらしく、食後にアイスコーヒーを注文した。僕はそれに付き合うことにした。差し当たって何もすることがないからだ。

「一つ、確認してもいいですか?」

 紗季が席をはずしてから、口数が減っていた乃菜美が、思い出したように云った。 「あの日の夜、比嘉ちゃんがあなたを家に泊めようとしていたと聞いたんですけれど、それは本当なのかしら? 気軽に男性を泊めるような性格ではないんですけど、比嘉ちゃんはね。それに会ったのは、あの夜が初めてなんですよね?」

「あの夜に初めて会いました。泊まってほしいと頼まれたのも事実です」

 簡潔に答えたが、乃菜美はあまり感じのよくない笑みを浮かべただけだった。

いくらかの困惑を覚えながら、僕は言葉を続けた。 「警察でも同じようなことを云われました。でも比嘉さん以外に、これが事実かどうかを証明してくれる人がいないんです」

 いくら疑われても、同じ言葉を繰り返す以外に手立てがなかった。

「さっきの羽生さんも、ずいぶん好意的に見えました。あなたは何か、女性の気を惹くテクニックでも持っているのかしら?」

 にこりともせず乃菜美が云った。僕はあまり気分がよくなかった。

「紗季さんは、僕が沖縄まで来たことについて、必要以上に感謝してくれているようです。比嘉さんが僕を泊めようとしたのは、それだけ強い危機感があったからでしょう。あなたがどう考えるかはあなたの勝手ですが、単純にそれだけだと僕は思っています」

 棘のある云いかたをすると、乃菜美は虚を突かれたみたいな顔をした。こちらが不機嫌になるなんて、想像もしていなかった様子だ。ここで乃菜美と争ってもメリットがない。僕はポケットから煙草を取り出し、黙って火をつけた。

「それにしても、警察は何をしているんでしょう。犯人の見当はついているのかしら」

 沈黙を続けていた乃菜美が、ぽつりと訊いた。話題を切り替えてくれたのは、彼女なりの気遣いなのかもしれない。

「小野寺さんを疑ってるみたいですね。ホテルの前に張り込んでいますから。だけど、どうして疑ってるのかが解らないんです。まさか比嘉さんのファックスが警察にも届いているわけじゃないだろうし。ひょっとして、小野寺さんには前科があるとか?」

 乃菜美は返事をしなかった。青いストローで、アイスコーヒーの氷を掻き回していた。やがて独り言みたいに微かな声で、「前科があるのかも知れない」と呟いた。意外に感じて乃菜美を見ると、彼女も顔を上げてまっすぐに見返した。

「前に聞いたことがあるんです。比嘉ちゃんから。小野寺さんは、もともと沖縄の人間じゃないんです。東京かどこかの人なんです」

「川崎です。本人がそう云っていました」

 僕の言葉に、乃菜美は頷いてみせた。

「そうだったかも知れません。彼はずっと帰っていないんです。その川崎に。若い時に問題を起こしたから帰れないんだって、話していたらしいんです」

 確かに川崎の話をしていた時、彼は懐かしそうにしていた。そう云われると、過去にどんな事件が起きたのかが気になった。

「何があったのか知りたいですね。大きなトラブルなら、近所の人が覚えているだろうし。誰かに調べてもらえればいいんだけど」

 知り合いを何人か思い浮べてみたが、それを頼めそうな人は思い浮かばなかった。生憎、僕には親しい友達がいないのだ。考えを巡らしているあいだ、乃菜美は一度何か云いたそうに唇を動かしたが、視線が合うと決まり悪そうに俯いてしまった。しかし、しばらくしてから、思い直したみたいに「あくまでも推測なんですが」と小声で切り出した。

「比嘉ちゃんは、東京の友達のところにいると思います。私はその友達の電話番号を知っているから、連絡も取れるはずです。だから小野寺さんのことは、比嘉ちゃんに調べてもらえばいいと思うんです」

 僕は唖然としてしまった。一呼吸おいてから、「どうして、そう思うんですか?」と訊いてみた。

「比嘉ちゃんの高校時代の親友が、去年の暮れにあちらで結婚しているんです。何かの時に、友達の家がディズニーランドから近いって話してました。それで、ファックスが来た文具店の住所を、地図で調べてみたんです。思った通り、ディズニーランドから遠くありません。だから比嘉ちゃんが隠れているのは友達のところだと思うんです」

 文具店の住所が葛西だったことを思い出した。確かに可能性はありそうだ。「その友達の電話番号が、解るんですね?」と訊くと、乃菜美は頷いてみせた。

「去年、結婚式で上京する時、比嘉ちゃんが教えていったんです」

 バッグからアドレス帳を取り出しながら、乃菜美が答えた


 歓楽街を抜けたところで、乃菜美と別れた。しばらく歩いてから、最初に見つけた電話ボックスへ入り、ベルリエの店名が印刷された名刺を取り出した。八桁の電話番号と塚本茉莉の名を、裏面に書き留めたものだ。僕はガラスの壁にもたれかかり、乃菜美の癖のある文字をしばらく眺めてから、大きく深呼吸をした。

 一つ一つ確認しながら、番号を押した。呼び出しの音が三回だけ鳴って、『はい、塚本です』と女性が答えた。僕は警戒されないよう、できるだけ丁寧な口調で、自分が比嘉ルミの知人であることを説明した。

『警察からも電話をいただいたんですけど、連絡がないんです』

 知人と名乗っただけで、塚本茉莉は用意していたみたいに答えた。優しい感じの声だが、意識的にトーンを抑えたような話しかたをしていた。

「連絡がないのは、警察から聞いています。でも、これから連絡が来る可能性はゼロじゃないと思うんです。その時のために、伝言をお願いできませんか?」

 塚本茉莉は沈黙してしまった。もう一度、同じ言葉を繰り返そうとした時に、『解りました。ちょっと書くものを持ってきます』と答えた。しばらく保留のメロディが流れてから、また受話器が上がり『はい、どうぞ』と声が聞こえた。

「川崎市の中原区に、ガス橋と呼ばれている橋があります。多摩川にかかっている大きな橋です。電車なら南武線の平間駅が近いと思います」

 できるだけゆっくり話した。塚本茉莉はメモを取り終える度に、『はい。はい』と合図をくれた。

「橋の近くに八幡宮があるそうです。そしてその八幡宮の近くに、小野寺隆司さんの実家があります。彼はこの家に住んでいた時、何か事件を起こしています。どんな事件があったのか、できれば比嘉さんに調べてもらいたい。お願いしたい伝言は以上です」

 しばらくペンを走らせる音が聞こえていた。やがてその音がやむと、彼女はまた落ち着いた声で話し始めた。

『伝言の内容は解りました。それで、もしできたら、あなたが本当に魚住さん本人だという証拠のようなものを示していただきたいのですが』

「証拠のようなものですか」

 こんなことを聞かれるとは想像もしなかったので、戸惑ってしまった。それでも考え考えしながら言葉を続けた。 「あの夜、比嘉さんの言葉を信じて、家に泊めてもらえばよかったと本当に後悔している。そう伝えてもらえれば……。そう、それから、ベルリエはご存じですよね。そこの當間さんに電話をして、確認してもらってもいい。この件を塚本さん経由で依頼するよう提案したのは、當間さん本人なんです。ベルリエの電話番号は知っていますか」

 塚本茉莉はしばらく黙っていた。僕の話がまだ続くと思って待っているのか、今の内容では満足できないのか、判断がつかなかった。

『ベルリエの番号は知っています。でも、もう充分です。よく解りました。もしルミから連絡があったら、依頼は必ず伝えます』

 礼を述べて受話器を戻した。彼女は最後まで慎重な態度を崩さなかった。けれど僕には、逆にそれが不自然に感じられた。親友が事件に巻き込まれたのなら、普通は心配で堪らないはずだ。関係者から電話が来たら、最新情報を気にして、色々と訊いてくるはずだろう。何一つ質問をしてこないのは、むしろ彼女が、ルミの無事を知っている証拠のように感じられた。




         21


 桃花の釈放が待ちきれなかった。六時五十分を過ぎたころ、僕はエレベーターでホテルのフロントまで下りていった。フロントには誰もいなかった。薄汚れたカーペットを踏んで、そっと建物から出た。ホテルの入口付近には清涼飲料水の自動販売機が置かれており、その隣にカード式の公衆電話がある。約束までやや間があったが、受話器を持ち上げて、番号をプッシュした。

 呼び出し音が十回以上鳴っても、紗季は出なかった。まだ帰ってきていないのかも知れない。続けて携帯電話にかけてみたが同じだった。警察での手続きが長引いているのかも知れない。何かトラブルが起きている可能性もあった。時計を見ると七時三分前だった。とにかく、もう少し経ってから電話をするしかないだろう。

 ホテルから少し歩いたところに、コンビニエンスストアがあった。着替えのシャツやソックスを買ったことのある店だ。時間をつぶすため、歩いてみることにした。ブルゾンを部屋へ置いてきてしまったが、耐えられないほど寒くはなかった。三月の夜といっても、関東とはまったく気温が違っている。

 コンビニエンスストアに着いた時、腕時計は七時五分を示していた。煙草を買ってから、また店頭の公衆電話へカードを入れた。今度は四回目のベルで受話器が上がった。「もしもし」と問いかけると、『魚住さん?』と紗季が答えた。明るい声ではないが、切迫している様子でもなかった。

『ごめんなさい。さっきも電話くれましたよね? 桃花さんは連れて帰ったんですけど、話を聴いているうちに感情的になっちゃったんですよ』

 彼女は囁くような話しかたをしていた。

「感情的って、どんな様子なの」

『お父さんは殺していないのに!とか云ってるんです。よく意味が解らないんですよ。今はゆっくり説明できないから、後でもう一度電話をもらえませんか? 二時間後、ううん、三時間後くらいのほうがいいかな』

 紗季は通話を切った。二人が無事だったことには安心したが、さらに三時間を待つのはさすがに気が重かった。


 部屋で四・五十分の時間をつぶした。今の状況下では、僕にできることは何もなかった。ふと思い出して、東京の職場へ電話を入れ、木曜くらいまで休ませてほしいと改めて申し入れた。職場の先輩であるヒデさんは、個人的なトラブルが起きていると感じ取ったらしかった。『なんなら、今週いっぱい休んでもいいぞ』と云ってくれた。

 電話を終えてからもう一度考えてみたが、するべきことは何も思いつかなかった。僕は仕方なく、一階にあるコーヒーショップへ移動した。昨日、ここで小野寺にコーヒーを淹れてもらったが、今日は短髪の従業員がカウンターテーブルの内側へ入っていた。がっしりした身体つきの青年で、学生時代にずっとラグビーでもやっていたような感じだ。狭い店内には他に客がいなかった。短髪の従業員も退屈であるらしく、カウンターのなかでコミック雑誌を読んでいる。コーヒーを飲み、煙草を喫い、何度も時計を確認する作業は、想像以上に苦痛だった。次第に胃痛を覚えてきたほどだ。

 座っている席のすぐ脇に、小さな油絵がかけられていた。麦藁帽子やワインのボトルを並べた静物画で、作風に見覚えがある気がした。そうするうちに短髪の従業員がグラスの水を足しにきた。油絵を誰が描いたのか、僕は訊いてみた。

「支配人のお姉さんの絵です」

 彼は姿勢を正して、はきはきと答えた。 「昔、東京の美大に通っていたそうで、今も絵を嗜まれているんです。ロビーにある犬の絵もそうですよ」

 云われて思い出した。紗季達とロビーで話した時、壁に飾ってある犬の絵を見た。犬の絵も、ここにある絵と同じように朱色と群青色が多用されていた。そういえば昼間、小野寺の姉の指先に朱い色がついていた。(あれは絵の具だったのか)と考えた。

 電話の音がしたので、何気なく視線を投げた。短髪の従業員はすでにカウンターテーブルの向こう側へ戻っており、受話器を取ったところだった。僕はそれからまた壁の時計を見た。『三時間後に』と紗季は云っていたが、やっと二時間が過ぎたばかりだった。

「あの、魚住様ですよね?」

 短髪の店員が受話器を片手で押さえたまま、こちらを見ていた。頷いてみせると、「お電話です」と彼は答えた。


 ベルリエから少し離れた路上に、黄色い小型車が停まっていた。そこはブティックの店頭だが、シャッターは下りていた。この裏通りにはいつも路上駐車の車が多い。営業を終えている店の前には、必ずといっていいほど車が停めてあった。僕は屈み込んで車内を覗き込んだ。ドライバーズシートの紗季はすでに気づいていた様子で、隣へ座るようジェスチャーで促した。ドアを開けて滑り込み、布張りのシートへ身体を落とし込んだ。

「すみませんでした」

 ドアを閉めてすぐ、紗季が低い声で云った。憔悴しているみたいな声だった。柑橘系の芳香剤が、車内の空気に微かに溶け込んでいた。

「判ったことを順番に話すけれど、かなり複雑ですよ。少なくとも私が想像していたより、何倍も話が入り組んでいるんです。まず桃花さんは、比嘉さんを襲ったのが自分の父親だと思っています。だから父親が生きているのは間違いないみたい」

 予想はしていたことだが、事実として告げられると、また違った驚きがあった。「そうか」と呟いた自分の声が、少し強ばっているように感じられた。

「父親が比嘉さんを襲った理由なんですけれど、桃花さんのお母さんが、誰かに殺されたことが関係しているみたいなんです」

「殺された?」

 驚いて訊き返した。紗季はステアリングホイールのうえで腕を組み、正面を見据えたままで頷いてみせた。

「桃花さんが云うには、彼女が子供のころ、お母さんが殺されたらしいんです。そして、桃花さんのせいでお父さんが犯人にされてしまったそうです。そのあたりの事情もよく解らないんですけどね……。あのレンタカーショップの女性が云ってたでしょう? 堂島さんが刑務所に入っていたとか」

 僕はシートへもたれかかり、それから瞼を閉じた。紗季の言葉通り、事情はかなり複雑なようだ。桃花の云っていることは非現実的にも思えるが、これまでに判ってきていた事柄との関連は感じられる。だとすれば、まったくの作り話とも思えなかった。

「どういうことなんだろう?」

 全身から、力が抜け落ちていくような感じがした。 「桃花の両親が交通事故で死んだのは、彼女が小学二年生の時だって僕は聞いていた。だけど、おそらく交通事故というのは嘘で、実際にはその事件が起きたんだろう。でも小学二年生の女の子が、どうやって殺人の罪を父親にきせるんだ?」

「桃花さんは、自分が嘘をついたからだと云ってました」

 呟くように紗季が答えた。 「自分が嘘をついたから、父親が捕まったんだって。どんな嘘をついたのか、なぜ嘘をついたのかを訊いたら、彼女は泣き出しちゃったんです。なんだか自分でもよく理解できていないみたいでした。それから後はほとんどパニック状態」

 僕はただ頷いてみせた。何も言葉が浮かばなかったからだ。それから紗季にすまないような気になって、一言「ごめん」と謝った。

「解ったのは、桃花さんが罪の意識に苛まれてることです。自分の嘘のせいで父親が捕まって、真犯人が逃げた。だから父親は報復、おそらく報復を目的にして比嘉さんを殺した。父親が捕まったのも、比嘉さんが殺されたのも、全部自分のせいだと思ってるんですよ。とにかく桃花さんを落ち着かせようと思って、ベリルエに連れて行くことを思いついたんです。乃菜美さんはすぐ解ってくれて、比嘉さんが生きているはずだって説明してくれました。例のファックスを見せてね……。それで桃花さんもやっと落ち着いてきた。私は傍にいなくてもよさそうだったから、さっき店から出て魚住さんへ電話したんです」

 やはり言葉が見つからなくて、僕は外の景色を見詰め続けた。街灯のまばらな裏通りを、時折人影が横切っていった。遠くに[P]と書かれたネオンがあり、そこに取りつけられた黄色いランプが点滅する度に、黒いシルエットになった車が、通りへ這い出てきた。

「これから、どうしますか?」

 しばらくの後、紗季が訊いた。ふと浮かんだ考えが、そのまま口から出た。

「とりあえず、熊本へ行ってみようと思う。桃花の伯母さんがいるんだ」


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