第3話 彼は死んでいない



         12


 九時ちょうどにベルが鳴った。モーニングコールをセットしておいたのだ。カーテンを開けてみると、晴れ渡った空を、大きな雲が滑るように流れていた。真下に見えるアパートの屋上やアスファルトが、今まで雨が降っていたかのように濡れていた。

 義明は結局、残波岬のホテルへ戻ってこなかった。午後七時過ぎにフロントへ電話が入った。那覇のカプセルホテルに泊まるという電話だ。帰りのバスのなかでは、僕も紗季も言葉を交わす気力すらなかった。

 顔を洗ってから、エレベーターで一階へ下りた。ロビーの横に、小さなコーヒーショップがある。ホテルのパンフレットに書いてあった。多忙なビジネスマンが軽い食事をとれるようにしてあるらしい。カウベルのついたドアを押して店内へ入った。十人も客が入ったら一杯になりそうな広さだ。右手は全面がガラスだが、レースのカーテンが下がったままだった。それでも明るい陽射しだけは、充分に注ぎ込んできていた。

「おはようございます」

 カウンターテーブルの向こうで、グラスを洗っていた男性が云った。声をかけられて初めて気がついた。カッターシャツのうえに、黒いエプロンをかけた男性は、小野寺隆司だった。

「ああ、おはようございます。こんなこともなさるんですか」

 小野寺は弱々しく笑いながら、水の入ったグラスを出してくれた。

「うちのような小さいホテルは、何でもやらないといけないんですよ。何を召し上がりますか」

 サンドイッチとコーヒーを注文した。奥にキッチンがあるらしい。小野寺はそちらへ向かってオーダーを繰り返し、自分ではコーヒーを淹れ始めた。サンドイッチはすぐできあがってきた。自分で淹れたコーヒーと一緒に、小野寺はそれをカウンターテーブルへ並べた。

「魚住さんは川崎からいらしたんですよね? 中原区から」

 宿泊カードの住所を覚えていたらしい。サンドイッチを食べながら、「そうです」と簡単に答えた。

「私の実家は平間にあるんですよ」

 黙って相槌を打ってみせた。正直のところ、さほど興味は持てなかった。僕は基本的に他人には興味がないし、身の上話を聴いたりするのがあまり好きではないのだ。

「ガス橋ってあるでしょう。その傍に八幡宮があるんですけれど知っていますか? 実家はあの近所なんです」

 俯いてグラスを洗いながら、小野寺は懐かしそうに続けた。話に出てきたガス橋までは、僕のアパートからそれほど遠くない。云われてみれば、大きな神社のようなものがあった気もする。けれどそのあたりには滅多に行くことがないので、記憶がはっきりしなかった。

「今はどうか解りませんが、昔はあのあたりに……」

 彼がそう続けた時、テーブルの隅に乗せた電話が鳴り出した。指についた雫を、黒いタオルで拭き取りながら、小野寺は受話器を取った。

「うん、こちらにいらっしゃいますよ。魚住さん。ロビーにお客さまがいらっしゃっているそうです」

 受話器を掌で覆いながら、小野寺が云った。

「すぐ行くと伝えてください」

(紗季だな)と思って、僕は答えた。


 ロビーにはソファーが三つ、ちょうどコの字型に並べられていた。座っている全員が、フロントカウンターから見える配置だ。その真上では、騒々しい空調機の風が、照明のプラスチック飾りを揺らしていた。紗季だけだと思っていたので、義明の姿に少し驚いた。ブランド物であるらしい、紫と蛍光グリーンが複雑に配されたニットブルゾンを着ているが、少なくとも僕好みの配色ではなかった。

「おはようございます」

 僕が近づいていくと、紗季が云った。

「おはよう。義明さん」

 僕は義明へ挨拶した。彼の両眼は、不眠のためか真っ赤に充血していた。あまり愛想のよくない視線をこちらへ向けただけで、何も答えなかった。

「実はね、魚住さん」

 向かい側に座るなり、紗季が声をひそめて云った。 「話があるんですよ。桃花さんのことなんですけど」

 三人で話すのならば、桃花のことに決まっている。義明がわざわざ世間話に来るはずはないからだ。

「義明が警察で聞いてきたんですけど、桃花さんには動機がないんです」

 意味が解らなかった。納得のいかない表情を作ってみせると、彼女は言葉を続けた。 「比嘉さんを殺そうとした動機とか、どんな方法で殺したのかとか、死体をどこへやったとか……。そういうことを説明できないらしいんです。話が二転三転するし、リアリティもないし、すぐ泣き出してしまう。そんな具合で警察も困惑しているらしいんです」

 紗季の表情にも、困惑が浮かんでいた。僕は煙草の箱を胸ポケットから取り出し、一本を口で引き抜いた。火をつけてから、しばらくは宙を見詰めて考えた。

「普通に判断すれば、彼女は犯人じゃないってことなんだろうな」

 考え考えしながら答えた。 「本当の犯人は、桃花さんにとって大切な誰かで、そいつを庇っている……。そういうことになるのかな。義明さんはどう思うの?」

 テーブルに乗っていた灰皿を引き寄せ、煙草の灰を落としてから訊いた。自分の膝あたりを見詰めていた義明が、不機嫌そうな顔をこちらへ向けた。

「そんなこと、俺には解らないよ」

 考えたくもないと云った口調だった。僕は身体を逸らし、ソファーに背中を押しつけた。しばらく推測を重ねてみたが、納得のいく答えは見つからなかった。

 何気なく、壁にかかった油絵へ視線を向けた。紗季の背後に、大きな絵が飾られている。濡れたアスファルトの上で、仔犬がこちらを振り返っている絵だ。左隅にS・Mとサインが入っている。個人的には、あまり魅力的とはいえないイニシャルだ。描き慣れているし、決して下手な絵ではないが、各部の拙さから素人の作品であることが見て取れた。おそらく小野寺の友人か、得意先の誰かが描いたのだろう。S・M画伯はロビーに飾ってもらって満足かも知れないが、ロビーの格調をいくらか落としめる結果になっていた。

「後をつけていた中年男性ですけれど、そいつが怪しいんじゃないですか? 桃花さんは何か弱みを握られて、身代わりを強要されたのかも知れませんよね?」

 しばらく黙っていた紗季が、問いかけるように呟いた。油絵から視線を逸らして彼女を見た。紗季は自分の腿に肘をついていた。そして両の掌で、小さな顎を支えるようにしていた。

「違うんじゃないかな」

 ガラスの灰皿で煙草を揉み消した。 「だって手際が悪すぎる。そうだろう? 殺人の動機も手段も解らないんじゃ、身代わりで自首した意味がない。誰かを庇って、わけも解らず自首した可能性のほうが高いよ」

「うん。確かに、そうですね」

 紗季は頷いてみせた。 「それじゃ、誰を庇っているんでしょう。代わりに殺人の罪を被るなんて、よほど大切な相手じゃないとできませんよね?」

「まるで解らないな。僕の知っている限りじゃ、彼女がそこまでする相手は義明さんくらいしかいないよ」

 黙っていた義明が顔を上げ、「俺が殺したって云うのか!?」と鋭く云った。

「そういう意味じゃないよ」

 弁解したが、義明の目はもう、嫌な感じの光でぎらついていた。

「もういい! 初めから解ってたんだ。こんなことになって、あんたはさぞかし気分がいいんだろう。桃花と俺の関係が滅茶苦茶になったんだからな。話したって埒なんか明かない。そうじゃないか!?」

 義明は感情的にまくしたてると、少しよろけ気味に立ち上がった。そしてこちらへ、殴りかからんばかりの眼差しを向けた。喉の血管がぴくぴく動いているのが見えた。

「その通りだよ。埒なんて明かないかも知れない」

 ウンザリしながらも、僕は云った。 「テレビドラマの探偵じゃないんだから、そんなに色々閃かないさ。だけどね、感情的になっても何も解決しないよ」

 義明は答えようとしなかった。そのまま踵を返し、一度も振り返らずにロビーを出ていった。姿勢や歩きかた……、彼は全身で怒りを表現していた。僕は紗季の顔を見た。後を追うようにジェスチャーで示したが、彼女は小さく頭を振ってみせた。

「まぁ、仕方ないですね。私達は昨日の続きをやりましょうよ。桃花さんの足取りを、きちんと調べてみましょう」

 紗季は唇を尖らせて、「ひゅうっ」と息を吐いてみせた。




         13


 紗季の車は、軽自動車にも見えるぐらい小さなフランス車だった。黄色いボディは綺麗に磨かれているものの、バンパーなどの樹脂部分は白っぽく退色していた。おそらく十年くらい前のモデルなのだろう。東京で仕事を辞める時、「沖縄では車がないとかなり不便です」と話したら、職場の先輩が格安で譲ってくれたのだと彼女は笑った。

「紗季さんは、どんな仕事をしているの?」

 ふと、気になって訊いた。

「広告代理店です。東京でもこちらでも……。だけど今の会社は小さくて、分業がされていないから、一昨日みたいにショーウィンドーの飾りつけなんかもさせられるんです。だけど面白い仕事ですよ。消費者側との心理的な駆け引きもありますしね。狙いが当たったり、完全にはずれたり」

 よくは知らないが、洒落た職業だという印象があった。僕の生活とは無縁の世界だ。

 何度か交差点を曲がり、広い国道に出た。残波岬へ行く時に通った道だ。紗季がアクセルを踏み込むと、小さな車は意外なくらい元気よく加速した。

「まず、どこに行くの?」

 そう訊いてみた。

「月曜日、二人が最初に行ったのは、コザのレンタカーショップなんです」

 目を細めるようにして、紗季が答えた。サンルーフからの風で、前髪が煽られていた。 「そこでレンタカーを借りて、勝連城跡、東南植物園、琉球村……。まぁそんなところを見て回っているんです。途中で二度、食事もしています」

 ほとんど観光ツアーだった。もっともあの二人は観光で来たのだから、当然かも知れない。僕はサイドウィンドーを完全に下げ、そこへ腕を乗せてみた。かなりの風が車内に巻き込まれた。朝方に降った雨のせいで、空気は澄んでいた。市街地を抜けると、中古車センターがやたらと目についた。米軍専門なのか、フロントウィンドーにドルで価格が書かれている店もあった。ハーレーダビットソンに乗った青年が、風でジャンパーの背中を膨らませながら、僕達を追い抜いていった。

「魚住さんは、随分と素直な性格ですね。私のやり方が間違っているとか、私が魚住さんを陥れようとしているとか、疑ったりはしないんですか?」

 紗季がぽつんと訊いた。

「確かにね、紗季さんが共犯者という可能性は残っている。でも僕は事件の途中から参加しているので、右も左もよく判らない。とりあえず紗季さんに従うのがベストな判断だと思う。もし、それで裏切られたのなら、僕が甘かったということだろう。少なくとも、あの警官達よりも紗季さんのほうが信用できそうだ。もともと僕は、警察官ってのを信じていない。卑劣な誘導尋問で犯罪者にされそうになった知り合いがいるんでね」

 紗季は苦笑してみせた。そして「やっぱり素直な性格ですよ」と付け加えた。


 最初に勝連城跡へ立ち寄ってみた。そこは僕がイメージしていた城跡とは、かなり様子が違った。丘陵の斜面に、石灰岩の低い石垣だけが、忘れ去られたように残っていた。段々畑のように、あるいは巨大な階段のように、三つの平らな場所が作られている。そして、それぞれのステージが、白い石垣で区切られているのだ。石垣の内側には、雑草の混じった芝生が植えられていた。あたりには人影がまったく見えなかった。聞こえるのも風の音だけで、巨大庭園の跡地のような印象だ。

 一番上の城壁に立つと、遠い街並みを、雲の影が横切っていくのが見て取れた。僕はこの場所が気に入ったが、収穫は何も得られなかった。話を聞こうにも、誰も人がいなかったからだ。

 勝連城跡からコザまでは二十分ほどで着いた。那覇に比べると緑が少なく、小さな商店がひしめきあっている。色の剥げ落ちたトタン板の看板や、錆びたシャッターが下りたままの店、あちこち壊れているネオン文字などが目についた。

 目的のレンタカーショップはすぐ見つかった。プレハブ造りの小さな建物で、繁華街から離れた道路脇に建っていた。プラスチックの看板は下半分が砕け落ち、内部の蛍光灯が覗いていた。地面はコンクリートだが、ずっと補修していないらしく、ひどくでこぼこだった。

「どうして、ここを選んだんだろう。もっとまともな店がありそうだけど」

「電話帳で調べて、予約を入れたんだそうです。電話帳じゃ店の外観までは解らないですからね」

 紗季は質問に答えながら、プレハブ造りの事務所へ進んでいった。事務所のなかには二十歳くらいの青年の姿があった。人影が見えなかったら、営業中かどうかさえ判らなかっただろう。

「いらっしゃいませ」

 埃で汚れたガラスサッシを開けると、青年が声をかけてきた。頬のあたりに、まだあどけなさが残っている。ちょうど春休みの時期だから、大学生のアルバイトかも知れない。パンフレットを並べたカウンターテーブルの向こうで、彼は丁寧に頭を下げてみせた。

「悪いけれど、客じゃないんだ」

 僕は青年へ向かって云った。

「ちょっと訊きたいことがあるんです」

 紗季が桃花達の写真を取り出し、テーブルへ乗せた。 「三月四日、この二人がここで車を借りてるんです。その時、変わったことがありませんでしたか?」

 青年は最初、決まり悪そうにしていた。それでも気を取り直したのか、「お待ちください」と答えて、ファイルのようなものをカウンターテーブルの下から取り出した。

「前日の夜に予約を入れていて、ここへ来たのは午前十一時ごろだったそうです。運転したのは女性のほうで、名前は有村桃花です」

「違うよ。有村は旧姓だろう。羽生桃花じゃないか」

 僕は横から云った。

「有村でいいんですよ」

 紗季が肩越しに云い返した。 「魚住さんと離婚してから、まだ半年過ぎていないので、籍を入れてないんです。だから有村桃花なんですよ」

「そうなのか」

 青年はファイルのページを開いたまま、こちらのやりとりを見守っていた。僕達の会話が終わった後で、彼は怖ず怖ずと切り出した。

「この方でしょうか?」

 そのページには、桃花の名前や宿泊先、車の利用時間などが書き留めてあった。

「そう、これだ」

 答えながら、ざっと目を通した。備考のところは空欄になっている。事故を起こしたとか、そういうトラブルはなかったみたいだ。

「このお客さまを担当したのは、仲松というものです。呼んできますのでお待ちください」

 青年が背後のドアへ手をかけた。おそらく狭い事務室か休憩室があるのだろう。建物自体が小振りだから、それほどのスペースがあるとは思えない。僕はもう一度ファイルへ目をやった。担当者の欄には、仲松チヅルと記されていた。

「仲松さん、ちょっと」

 ドアを少しだけ開けて、青年が申しわけなさそうに声をかけた。やがて奥から中年の女性が出てきた。年齢は五十歳くらいだろう。横幅の広い顔で、身体全体にまんべんなく肉がつき、逞しいといってもいいほどの体型だった。不機嫌そうな一瞥を僕達へくれると、茶色い制服のうえから、爪でがりがりと腕を掻いた。

「このお客さまのことで、こちらの方が話を訊きたいそうなんです」

 女性がファイルを手に取った。いかにも迷惑そうな仕草だった。しかし、名前を確認した瞬間、表情からどんよりした感じが消えた。店員達から死角になっているカウンターテーブルの影で、僕は紗季の足を軽く蹴った。彼女は(ちゃんと解っています)と云わんばかりに、小さく頷いてみせた。

「その二人のことで、何か変わったことがありませんでしたか?」

 紗季が落ち着いた声で訊いた。

「いえ、別に。何もありませんね」

 中年女性は視線が落ち着かなかった。

「とても大変なことになっているんです。思い当たることがあれば、どんな些細な話でもかまいません。教えてもらいたいんですけれど」

 写真を手渡しながら紗季が続けた。桃花と義明が石垣の前に並んでいる写真だ。しかし中年女性は、ろくに目を向けようとさえしなかった。

「このお嬢さんに、何かあったんですか?」

 やがて中年女性は、トーンの低い声で云い、弱々しい視線を紗季へ向けた。僕は隣から話しかけてみた。

「この写真には男女二人が写ってますよね。何かあったのが女のほうだって、なぜ解りました?」

 瞬間、中年女性がこちらを見た。大きく目を見開いたその顔には、間の抜けた感じさえあったが、彼女はすぐに険しい表情を作り上げた。

「何も知りません!」

 叩きつけるように云った。僕のことも紗季のことも、もう見ていなかった。大声を出したので、隣の青年はひるんだみたいに肩をすくめた。

「そうですか。解りました」

 どこか同情的な口調で、紗季が答えた。 「おそらく、そのうちに警察が訪ねてくると思います。警察よりは私達のほうが、ずっと話が解ると思うんですけど。じゃあ、もし、何か思い出した時には連絡をいただけますか?」

 紗季がパスケースから自分の名刺を取り出し、カウンターテーブルへ乗せた。女性が名刺を手に取ると、紗季はそのまま踵を返した。僕はちょっと驚いた。

「絶対に何か知ってるよ」

 仕方なく、後を追って事務所から出ると、紗季の背中へ云った。道路脇に停めた車のところまで来てから、彼女は振り返った。

「確かに知っていますよね。でも、あんまり理性的なタイプじゃなさそうだった。感情的になる前に引き上げたほうがいいと思ったんです」

「そうかな? もっと粘ったほうがよさそうな気がしたけど」

 納得がいかなくて反論した。相手が何の準備もしていない、絶好のタイミングだったように感じられた。紗季は自分の車のフェンダーにもたれ、考え込むような仕草をした。

「魚住さんの云う通りかも知れない。けれどあそこで、どうするべきかを相談するわけにもいかないでしょう? とにかくこれ……」

 紗季の言葉が途切れた。視線は僕の背後へ向けられていた。肩越しに振り返ると、さっきの中年女性がこちらへ近づいてくるところだった。僕達は呆然とそれを見守った。

「ねぇあんた達、堂島がどこにいるのか知らない?」

 すぐ目の前まで来て、中年彼女が云った。さっきまでとは打って変わって、しなだれかかるような甘え声を出していた。

「堂島?」

 紗季は呟くと、こちらへ視線を向けた。僕は首を振ってみせた。

「堂島っていうのは、誰です?」

 紗季が訊くと、中年女性は困ったような目をした。顔をしかめるみたいにして、僕達をじろじろ見回していたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「あんた達が何を調べているのか知らないわ。だけど私も人を捜していてね。場合によっては、知っていることを教えてやってもいいわ。あんた達が私に協力するならね」

「いいですよ」

 紗季はあっさり答えた。中年女性は腕時計へ目をやり、それから通りの先を指差した。

「あそこにレストランの看板が見えるでしょう? あの店で待っててよ。あと三十分くらいで休憩になるからさ」




         14


 レストランの店舗は二階部分にあり、窓からは一階のパーキングスペースが見下ろせた。アスファルトに白のラインが引かれ、その枠内に乗用車がきちんと並んでいる。数台の車の上にまたがって、くっきりヤシの影がかかっていた。

 店の内装はオレンジ色と白で統一され、ファミリーレストランみたいな造りだった。紗季が沖縄そばを頼んだので、僕も同じものにした。運ばれてきたそばは、むしろうどんに近い形状だった。レンタカーショップの仲松チヅルは、僕達が食事を終えても姿を見せなかった。約束の時間をすでに十五分以上過ぎていた。(何かあったんだろうか?)と心配し始めたころ、悠々と歩いてくる姿が窓の外に見えた。

 チヅルはテーブルに着くなり、「煙草を持っていない?」と訊いた。僕は自分の煙草の箱を差し出した。

「これ、好きじゃないのよね。メンソールでしょう?」

 仲松チヅルは不満気に云いながらも、慣れた手つきで火をつけ、ゆっくり煙を吐き出した。それから思い出したように、古びたブランド物らしいバックを開き、一枚の写真を取り出してみせた。

「この人が堂島、堂島恭一郎っていうの。あんた達に捜してほしいのよ」

 指先で弾くようにして、こちらへ写真をよこした。僕はそれを手に取った。薄汚れた壁を背景に、五十代くらいの男が写っていた。多少アルコールが入っているのか、上機嫌らしい笑顔だった。肌の色は浅黒く、頑丈そうな身体つきをしている。くっきりした二重まぶたの瞳には、優しそうな印象があった。

「知らないな」

 見覚えがなかったので、紗季に手渡した。彼女は写真を指先で摘んだまま、少しのあいだ考えていた。

「身長は百七十五センチくらいですか?」

 しばらくの後、低い声で訊いた。

「そうね」

 すっかり寛いた様子で脚を組むと、煙を吐き出しながらチヅルが答えた。

「グリーンのウインドブレーカーと、白っぽいチノパンを持ってませんか?」

「よく着ていたわ。あんた、知ってるのね」

 チヅルが身体を乗り出した。紗季は写真をテーブルへ戻し、僕へ視線を向けた。

「おそらく、あの男性ですよ。五十代後半くらいの中年男性が、桃花さんを付け回してた話をしましたよね? 火曜日にずっと」

「そう。火曜の朝からいなくなったのよ」

 言葉を遮って、チヅルが云った。ちょっと興奮しているのか、熱っぽい目をこちらへ向けていた。

「誰なんです? この人」

 チヅルへ向き直り、僕はそう訊いた。

「一緒に暮らしてたのよ。それが急にいなくなっちゃったの。ずっと面倒を見てあげたのに、何も云わずによ。しかも私の車に乗っていったのよ。おかげで私は通勤するのにも、バスを使っているのよ」

 そんな話を聞きたいわけではなかった。僕はもう一度、同じ質問を繰り返した。

「だから、レンタカーを借りたあの二人と、どんな関係があるんですか」

「そんなの知らないわよ。女の父親なんじゃないの」

「父親?」

 紗季が小さく声を上げ、こちらを向いた。問いかけるような表情だったので、僕は頷いてみせた。

「そう。桃花の両親は亡くなっている。彼女が小学生の時、交通事故でね」

「あの人はね、去年の暮れに沖縄へ来たのよ。私が勤めていた店に来て、そこで知り合ったの。水商売はよくないって云ったから、私は仕事だって変わったのよ」

 チヅルはまた、訊きもしないことを喋り出した。くわしい事情を知りたければ、愚痴までまとめて聞くしかなさそうだった。

「泊まるところもお金も満足になくって、私のマンションに泊めてやったの。どこの誰かも解らないまま、ずっと面倒見てやったのに」

「どこの誰かも解らないんですか?」

 呆れた顔で紗季が云った。けれどチヅルは、紗季の表情など気にもならないらしかった。肉付きのいい腕を鷹揚に振りながら、言葉を続けた。

「そうよ。解りっこないわよ。自分のことなんか何も話さないんだもの。たぶん刑務所に入っていたんじゃないの。はっきり聞いたわけじゃないけど、それらしいことを、ほのめかしたことがあったわ。ただね、お酒を飲むと娘の話だけはするのよ。ずっと会ってないけれど、俺には娘がいるんだって……。いつも同じ話よ。バカみたいに」

「それが桃花さんなんですか?」

 紗季が訊いた。すぐには答えず、チヅルは悠然と煙草を揉み消し、続けざまに二本目へ火をつけた。

「知らないわ。だけどこんなことになるんなら、教えてやらなければよかったわ」

 忌々しげに、吐き捨てるように云った。話がさっぱり要領を得ない。「何を教えたんですか?」と、紗季がまた訊いた。

「この間の日曜に酔ってね、また娘の話を始めたのよ。今日は娘の誕生日だって。雛祭りに産まれたから、桃花って名前にしたんだって。今年で二十八になるんだって」

 僕は声を上げそうになった。おそらく人違いだとか、そのていどの話だろうと思っていた。しかし三月三日生まれで、桃花という名前で、しかも二十八歳の女性なんて、そんなに多くはいないだろう。

「それで、その翌日に、桃花が車を借りに来た?」

 僕もさすがに真面目になって、そう訊いた。

「借りに来たわよ。私も驚いたけれどね。だから教えてやったのよ。こういう客が来たわよって。そしたらあの人、苗字はなんていうんだって訊くの。有村って苗字は覚えていたわ。そしたら今度は宿泊先はどこだって訊くのよ。そんなのいちいち覚えているわけないじゃない? そしたら調べろっていうのよ」

「その翌日にいなくなった?」

 紗季の問いに、チヅルは憮然とした表情で頷いてみせた。

「いなくなったわ。今日までさっぱり連絡もないのよ。とにかくあんた達、あの人を捜して私のところへ連れてきて。すぐによ」


 仲松チヅルは、注文したステーキセットをがつがつ食べると、お金も払わずに帰っていった。僕達はそれから二杯目のコーヒーを飲み、レストランを出た。

「もし、その男が父親だったとしたら、話は簡単だよな。桃花は父親を庇って自首したんだ」

 陽射しに晒されて、熱を持ったシートに腰を下ろしながら云った。

「話の辻褄も合いますね。比嘉さんの家に無言電話が来たり、鶏の死体が置いてあったりしたのは、二・三ヶ月前からでしょう? その男性が沖縄に来たのが去年の暮れだから……。それにしても刑務所にいたって云ってましたよね? お父さんが服役中だから、桃花さんは事実を隠していたんでしょうか?」

 シートベルトを締めながら、紗季が訊いた。

(堂島、恭一郎)

 僕は胸で呟いてみた。有村という姓は母方のものだった。桃花を引き取って育てたのは、母親の姉だったので、彼女は有村姓を名乗っていた。父方の姓を思い出そうとしたが、うまくいかなかった。一度くらいは聞いたような気もするが、それが堂島だったかはっきりしなかった。桃花は両親の話を避けていたから、そういったことはあまり話題にならなかったのだ。

「それにしても、これからどうしましょうか?」

 紗季が訊いた。堂島が立ち寄りそうな酒場を、チヅルはいくつか教えてくれた。しかし彼が逃げているのなら、そこへ現われる確率は低いだろう。

「そうだな、とりあえず義明さんに報告してきなよ。僕は行かないほうがいいだろうから、途中で下ろしてくれれば一人で那覇に帰るよ」

 紗季は黙ったままエンジンをかけ、ゆっくりと車をパーキングスペースから出した。一つ目の交差点を越えてから、車は穏やかに加速していった。

「帰るなら、一緒に帰りましょう。義明には向こうから出向かせます。大体あいつは大人げがないんだ。話がだんだん難しくなりそうだし、三人で力を合わせたほうがいいに決まっていますよね?」

 サンルーフに四角く切り取られた空を見ながら、僕は少しのあいだ沈黙していた。義明とうまくやるのは難しそうに感じられた。今朝のことで呆れ返っていたので、自分から歩み寄る気にもなれなかった。彼もまたボードビリアンだと僕は思っている。けれど紗季が頑張るというのなら、特に反対する理由はなかった。

「紗季さんに任せるよ」

 僕は空を見上げたまま、大きく息をついた。


 ホテルの前で紗季と別れた。フロントにはコオロギに似た例の従業員がいて、ルームキーと一緒に紙片を渡してくれた。留守中に入った電話のメモだ。僕はエレベーターのなかで、二つ折りの紙片を開いて読んでみた。

[忘れ物を預かっているので、取りに来てください。ベルリエ 當間乃菜美]

 ベルリエというのは、ルミが働いていた店だ。けれど當間という名前は知らなかった。そして何より奇妙なのは、ベルリエに忘れ物をした覚えがないことだった。




         15


 停車したのに気づいて、顔を上げた。タクシーはすでにベルリエへ到着していた。アスファルトに立って見回すと、前に来た時とは随分印象が違っていた。一昨日は夜だったせいで判らなかったが、この裏通りには意外と緑が多かった。つやつやした新緑が陽射しに揺れていた。

 木製の重たいドアを押し開けた。やはり高い天井と、がっしりした柱が印象的だった。ゆっくり奥のカウンターテーブルまで歩いていき、一昨日と同じ場所に座った。客の大半は若い女性で、コーヒーを飲みながら静かな声で言葉を交わしていた。

「いらっしゃいませ」

 カウンターテーブルに、武骨な琉球ガラスのコップが乗せられた。金曜の夜、厨房にいた痩せた女性だ。年齢は五十歳の手前だろう。端正な顔立ちをしているが、削げた頬や、傷みが目立つ赤茶けた髪のせいで、明るい印象は受けなかった。この女性が當間乃菜美かも知れなかった。いずれにしても彼女は、目の前にいるのが、『金曜の夜にルミと話していた男性客』であることに気づいてない様子だった。

「コーヒーをお願いします。それから、當間さんはいらっしゃいますか?」

 メニューを返しながら云った。彼女はちょっと驚いたみたいにしたが、それでも営業用の微笑みは口元へ残していた。

「當間は私ですが」

 少しの沈黙の後で、やっと気づいたらしかった。目を細めて、ぎこちなく笑った。「失礼しました。お顔を覚えていなかったもので。電話を差し上げたのは……」

 ゆったりした口調で話しながら、もう笑っていなかった。不自然なくらい細い眉の間に、鋭い皺を寄せながら、囁くように言葉を続けた。 「奥の部屋へ来ていただけませんか?」

 當間乃菜美の後について、厨房の脇を進んでいった。間近で見ると、女性にしてはかなり長身であることが解った。やがて雑然とした部屋へ辿り着いた。薄暗い六畳ほどのスペースに、テーブルと椅子が三脚並べてあった。おそらく従業員が着替えたり、食事をとったりする場所なのだろう。

「小野寺さんに気づかれませんでしたか? この店へ来ることを……。実を云いますと、忘れ物なんかないんです。ただ、気づかれないほうがいいと思ったんです。小野寺さんにね」

 椅子に腰を下ろし、僕にも座るよう促すと、乃菜美が云った。低音の声で、ひどくゆっくりと話す人だった。視線を合わせるのを避けるみたいに、乃菜美はテーブルのうえを見ていたが、やがてティーポットを引き寄せた。乃菜美はポットへお湯を注いでから、ようやく口を開いた。

「ファックスが送られてきたんです。比嘉ちゃんから」

「何ですって!?」

 思わず大きな声を出した。 「ここに来たんですか?」

 乃菜美の骨張った頬に、神経質そうな線が現れた。(まぁ落ち着いて)と云わんばかりに、大きい掌を宙で動かした。テーブルの上に古ぼけたタオルが敷いてあり、ティーカップが伏せてあった。そこから二つを取り上げながら、彼女は低い声で言葉を続けた。

「魚住さんが心配なさっているはずだから、無事を知らせておいてほしいと書かれていたんです。そのファックスに。そして、それから、犯人は小野寺さんらしいって」

「小野寺さんが?」

 僕は混乱してしまった。ルミを襲ったのが、堂島恭一郎である可能性が見えてきていたからだ。もちろん動機までは解らないが、そう考えるのが一番自然に思えた。

「だけど」

 ふと気がついて、僕は云った。小野寺が犯人のはずはない。ルミが自宅で襲われた時間、彼はホテルの自室にいたのだ。そのことについては、僕自身が証人になっている。 「おかしいですね。事件の朝、僕はフロントへ行って小野寺さんを呼び出した。彼は自分の部屋にいましたよ」

 乃菜美の表情が曇った。それから彼女は、口元に曖昧な笑みのようなものを浮かべて、「それは確かなことなのかしら?」と訊いた。そうしながらティーカップの一つを、僕の目の前へそっと置いた。

 念のため記憶を探った。一昨日の朝、従業員はすぐ小野寺へ電話を入れてくれた。けれど電話をかけた先が、本当に小野寺の部屋だったかどうかまでは判らない。もし従業員が共犯で、小野寺が携帯電話を持っていたなら、そしてルミの家から五分ほどで戻ってくることが可能なら、アリバイは崩れるわけだった。

「比嘉さんの家から、小野寺さんのホテルまで、五分くらいで戻れますか?」

「無理でしょうけど。それは」

「絶対に?」 僕は重ねて訊いた。

「ええ、絶対に……と云っていいと思います」

 乃菜美は疲れたような笑みを浮かべた。

「だとすれば、小野寺さんのアリバイは確かですよ。ねぇ當間さん。ファックスには何が書いてあったんですか。それにこういっては失礼ですが、確かに比嘉さん本人から送られてきたものなんですか」

「そうおっしゃられますと」

 乃菜美は疲れたみたいに頭を振った。そしてテーブルの引き出しから、折り畳んだファックス用紙を取り出した。差し出されたので、僕はそれを受け取った。

「読んでいいですか」

 乃菜美が頷いた。ファックス用紙を開いてみて、ちょっと驚いた。文章はすべてワードプロセッサーで打ってあるのだ。これではルミが書いたかどうか判るはずがなかった。

「ワープロ文書じゃないですか?」

 乃菜美はまた、掌を目の前で揺り動かしてみせた。おそらく、僕の言動の何かが気に入らないという意思表示なのだろう。彼女がそれきり黙ってしまったので、僕は淹れてもらったお茶を飲んでみた。独特の苦みがあるハーブティーだった。

「比嘉ちゃんはここへ来る前、半年くらい前になりますけれど、小野寺さんのホテルで働いていたんです。もちろんあなたは知らないことでしょうけれど」

 沈黙の後で、無表情のまま、乃菜美は諭すように云った。「知ってますよ」と答えてもよかったが、僕はただ頷いてみせた。

「ワープロを使い慣れているんです。比嘉ちゃんは。ホテルのパンフレットとか、各部屋にある利用案内とか、そういったものは彼女が作っていたんです。ですから傍にワープロがあったら、手書きで文章は作らないはずです。それに彼女の使いそうな云い回しとかがあります。そういったことまで、考えたうえで、私は話をしているんですけれど」

 僕は口をつぐんだ。とりあえず先にファックスを読んでみようと思ったのだ。


【當間さん、心配をかけてしまいましたね。ごめんなさい。でも私は逃げることができました。確信が持てるわけじゃないから、警察には黙っていてほしいんですけど、犯人の見当もつきました。家に銃を撃ち込まれているあいだ、私は息を殺していました。しばらくして、外が静かになったので、キッチンの割れた窓から覗いてみたんです。自宅前の路地の向こうに、赤い車が見えていて、ちょうど発進するところでした。見えたのは一瞬でしたけれど、ホンダ・シビックみたいでした。どうして解ったのかというと、小野寺さんが同じ車を持っているからです。だけど、確証があるわけじゃないので、ホントに警察には云わないでおいてください。

 私のところに変な電話が来たりしていることは、これまでに何度か話しましたよね。あれはイタズラなんかじゃなくて、本気で殺すつもりがあったってことが、今回やっと解りました。でも、どうして狙われているのか、私には思い当たることがありません。ホントにまったく解らないんです。だから、しばらく身を隠していたいと思ってます。それでそのあいだ、仕事を休ませてほしいのです。勝手でごめんなさい。

 それから、一つお願いがあります。金曜の夜、私と一緒に帰った男性のことを覚えてますか? 彼は神奈川から来た魚住さんという人です。もし彼がまだ沖縄にいるようでしたら、私が無事だと知らせてほしいんです。でもマズイことに、魚住さんは『ホテルおのでら』に泊まっているんです。私が紹介しちゃったせいで。だから小野寺さんには気づかれないよう、なんとか連絡を取ってみてもらえませんか? 心配していると思うんです。ホントに色々と申しわけありません。よろしくお願いします。 ルミ】


 読み終えて顔を上げると、乃菜美と視線が合った。「どう思われますか?」と、彼女は硬い声で問いかけた。

「難しいですね」

 そう答えるしかなかった。 「まあ、小野寺さんが犯人かどうかは、これだけでは判らないと思いますよ。赤いシビックなんて、どこにだってあるでしょうから。でも、もし比嘉さんが無事でいるなら一安心ですけれど」

 そう云いながらファックスを見ているうちに、上端に記されているデータに気づいた。『3/10 AM10:48 コンドウ ブングテン』とプリントされ、そのすぐ脇にファックス番号が続いていた。

「この発信先、近藤文具店には連絡してみましたか? 市外局番が03だから、東京らしいけれど」

 乃菜美は頷いてみせた。

「もちろんです。こちらからファックスを送って、事情を説明してね。ファックスサービスをしている文房具店で、誰が送ったかまでは判らないそうです。でも、住所は聞いておきました」

 乃菜美は身体を捩るようにして後ろを向き、電話機を乗せた黒いボックスへ手を伸ばした。そしてメモパッドを取り上げ、何枚かをめくると、確認しながらゆっくりと読み上げた。 「東京都、江戸川区、中葛西三丁目ですね」

「誰かが、比嘉さんを装って書いた可能性もありますよね」

 解り切ったことではあったが、口に出してみた。

 もし、ルミ以外の人間が書いたのだとしたら何が目的なのだろう。小野寺に罪を着せるつもりなら、少なくとも小野寺自身が関わっている可能性はなくなる。それともルミが生きていると思わせるのが目的なのか? 目の前にいる當間乃菜美を、全面的に信用していいのかも疑問だった。




         16


 ベルリエを出てホテルへ戻った。フロントへ行くと、コオロギに似た従業員がまた伝言のメモを差し出した。

「留守中にお電話がありました」

 彼は事務的に云った。僕はまたエレベーターのなかで、二つ折りの紙片を開いてみた。[連絡をください。自宅にいます。羽生紗季] それが伝言の内容だった。随分と伝言が多い日だ。紗季の云っていたように、携帯電話を入手するべきかも知れないと思った。

 部屋へ入って、まず顔を洗った。三月とは思えない気候のせいで、身体が汗ばんで気持ち悪かった。できればシャワーを浴びたいくらいだったが、電話を先に済ませてしまうことにした。最初にレンタカーショップの仲松チヅルに電話した。そして、堂島が乗っていったという、彼女の車が何だったのかを訊いた。

『銀色のトヨタ・カムリよ。最新型じゃなくて、一つ前の型よ』

 チヅルは即答した。旧型のトヨタ・カムリが、どんなデザインなのか知らなかったが、赤いホンダ・シビックと見間違う可能性はなさそうだ。僕は受話器を置き、続けて紗季へ電話した。呼び出しのベルが六回鳴って、それから彼女が出たが、話しかたがおかしかった。感情を押し殺しているような声だった。

「どうかしたの?」

 紗季が受話器の向こうで溜め息をついた。あるいは気分を落ち着かせるために、深呼吸をしたのかも知れなかった。

『義明がね、これから東京に帰るって云うんです。桃花さんを置き去りにして』

 感情のこもっていない声で、彼女は説明した。

「どうして?」

 驚いて訊き返した。

『話にならないんです。だから来てもらいたいんですよ。私達だけで話していても、埒が明かないので』

 今度は怒っているみたいな口調だった。しかし具体的な不満を口にしないところを見ると、すぐ傍に義明がいるのかも知れない。紗季の部屋へ行くのは気が進まなかった。

「桃花はね、おそらく比嘉さんを殺してないよ。ちゃんとそう説明したかい?」

『もちろん説明しましたよ。何度も!』と尖った声が受話器から聞こえた。

「義明さんは、僕のことを嫌っているしさ……」

『それは解っています。嫌になるくらいにね。でも、義明と対極的な性格の魚住さんだからこそ、説得できる可能性があると私は思っているんです』

 確かに僕と義明の価値観は対極だろう。とはいえ、義明のような人間に、僕の考えかたを理解させるのはほとんど不可能なのだ。

「解った。とにかくそっちへ行くよ」

 諦めに似た気持ちで、僕はそう答えた。


 紗季が電話で説明した通り、低いソテツを植えられた歩道は、緩い登り坂だった。しばらく行くと、コンビニエンスストアの隣に、三階建ての真新しいコーポラスが見えてきた。彼女の部屋は二階の一番端だった。羽生というプレートを確認してから、呼び出しのベルを押した。紗季はすぐドアを開けてくれた。

 入ってすぐは十畳ほどのダイニングルームだった。すっきりした部屋で、ブラインドを通して縞になった陽射しが、フローリングのフロアに広がっている。左手の壁際に、二人がけのソファーとベンジャミンの鉢植えが並べて置いてあった。ソファーのうえでは義明が缶ビールを飲んでいた。彼は昼前に会った時と同じ、紫と蛍光グリーンのニットブルゾンを着ていた。

「すみませんでした。座ってください」

 僕の顔を見て、紗季が云った。眼差しからは、疲労が感じられた。僕は紗季の隣に、義明と向き合う形で座った。

「話し合う余地なんて、どこにもないぜ!」

 いきなり義明が怒鳴った。すでに五・六本の缶ビールを空けているせいか、瞼のあたりが赤く染まっていた。 「なぁ魚住さん、俺が何をしたって云うんだよ。何でこんな目に遇わなくちゃならないのか説明してもらいたいよ。あんた達のおかげで、俺の人生は滅茶苦茶だ」

「落ち着きましょう」

 説得する自信はまったくなかったが、とりあえず諭してみた。義明は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。渡された缶ビールのプルリングを切りながら、僕は彼の目を見て言葉を続けた。 「別に義明さんの人生は滅茶苦茶でも何でもない。本当に桃花さんは、人を殺したりはしていないと思いますよ。だから投げ遣りにならずに考えましょう。これからのやりかたによっては、あっさり問題が解決するかも知れないじゃないですか」

「解決? あんたね、俺にこれ以上、何をさせようって云うんだ!」

 擦れた、けれど荒々しい声で義明が云った。しばらくヒゲを剃っていない顔が、醜悪に見えた。努めて穏やかな口調で、僕は言葉を続けた。

「まだ確かなことは何も解らないんだし、悪いほうばかりに考えて、自棄になっても仕方ないでしょう。あなたが一番しっかりしなくちゃいけないんですよ。桃花さんを支えてあげなくちゃならないんだから」

「面白がっているだろう?」

 意味か解らなくて「え?」と訊き返した。

「解ってるよ。あんたはさ、最初からそのために来たんだもんな。あんたにとっちゃ、これ以上ないぐらいの展開だろうよ。確かなことは解らないって? ふざけんなよ。これだけ解れば充分だよ。桃花の父親が刑務所に入っていて、本人も警察で取り調べを受けている。入籍してないのがせめてもの救いだよ。だけどな、会社の上司だって、友達や親戚だって、みんな結婚式に呼んでいるんだぜ。祝儀だって貰ってるんだ。一体これをどう説明したらいいんだよ」

 押し殺した声で、視線を伏せたまま義明が続けた。 「俺はね、家柄だって悪くないし、人並み以上の大学も出ている。仕事だって羨まれることはあっても、蔑まれるようなことは一切しちゃいないんだ。何もあんな離婚歴のある女と結婚する必要はなかった。ただあの女があんまり哀れだったから、そうさ、だから救ってやろうと思っただけなんだ。それのどこが悪い? まんまと騙されたよ。あの女に騙されたうえに、あんたにまで笑いものにされて、もう滅茶苦茶だよ」

 僕は大きく溜め息をついた。義明が顔を上げ、こちらを睨んだ。目には憎悪の色があった。煙草へ火をつけてから、僕は話し出した。

「以前、桃花に云ったことがあるんだ。自分のことは自分で守るのが当たり前だってさ。その時に彼女は憤慨していた。きっと守ってくれる人間が必要だったんだろうな。ねぇ義明さん、あなたは桃花に『守ってやる』みたいな台詞を云ったことはない? きっと云っているんじゃないかと思うんだけれど……。もし、彼女が戻ってきた時、あなたがいなかったら、とてもショックを受けると思うよ」

 義明は意外そうな顔をした。少しのあいだ、虚ろな目を向けていたが、すぐに云い返してきた。

「だけどあの女は、犯罪者の娘だってことを隠していたんだ。騙されたんだぜ? どうしてそんな女に、何かしてやらなくちゃならないんだよ」

 僕は人差し指の間接を噛んだ。考えるほどに気分が悪くなってくる。息苦しい感じがして、着ていた革のブルゾンを脱いだ。気持ちを静めようと考えながら、大きく深呼吸をして、もう一度義明へ向き直った。

「桃花の父親が犯罪者かどうかは判らない。けれど犯罪者といったって、加害者が全面的に悪いこともあるし、被害者がどうしようもないクズだってこともある。前科があるとか、離婚歴があるとか、表面的なことばかり問題にしすぎてるんじゃないか」

 義明が口元を歪めて、露骨な嘲ら笑いを浮かべた。僕は気にせずに言葉を続けた。 「それに、自分がそうだから云うわけじゃないけれど、離婚歴があるのなんて、たいした問題じゃないと思うよ。いまあなたが桃花と別れれば、戸籍に傷はつかないけれど、その内容は離婚と変わらないだろうしね。離婚なんて実質的には、恋愛に失敗したことがあるっていう、ただそれだけのことじゃないか」

「俺はね、明日から仕事が始まるんだよ」

 充血した目に奇妙な笑みを浮かべて、義明が云った。 「あんたみたいに、バカでもできる仕事にしか就いていない奴には解らないだろうけど、俺は責任のある立場なんだ。第一、こんな目に遇わされたのに、どうして犯罪者の親娘を思い遣らなくちゃならないんだよ。自分のことさえ、どうしていいか解らないのにさ」

 僕はすっかり嫌気がさしてきた。これがボードビリアンの常套手段だ。自分自身が社会的地位だの世間体だのに固執しているから、相手もそうだと思い込んでいる。僕が町工場でやっている仕事は、華やかさもなければ特別に高収入でもない。だから仕事のことを持ち出せば、僕にダメージを与えられると信じている。一度感情的になったが最後、相手を誹謗中傷して遣り込めることしか頭にない。話し合ったところで不愉快なだけなのだ。

「自分のことばっかりだね。だったら初めから、結婚なんてしようと思わなければよかったじゃないか」

「あんたなんかに云われたくないよ」

 薄笑いを浮かべたまま、義明が擦れた声で返した。

「そうか。解ったよ。どうすればいいのか自分じゃ解らないんだろう? だったら僕が教えてやろうか」

 次第に不快感を抑えられなくなってきていた。いくらか声を荒げたせいか、義明は驚いたように口をつぐんだ。虚を突かれたような顔をして、頬を強ばらせている。

「いいかい? 東京へ帰ったら、桃花を極悪非道な悪役に仕立てて、自分を完全な被害者に仕立てて、事件を都合よく脚色して、みんなに喋って回るんだ。難しい役どころだけど、きっと上手に演じられるよ。観客がみんな嘘を信じて、同情を寄せてくれれば、すぐ安心できるようになる。自分の嘘を自分で信じ込むのなんて、お手のものだろうしな。学歴だの仕事だのって、外面ばかり飾り立てても、あなたの常套手段はせいぜいそんなもんだろう。プライドの欠けらもない人間と、これ以上話しても時間の無駄だな」

「プライドがないのは、おまえのほうだろう!」

 義明は歯を剥き出して怒鳴った。目鼻立ちが派手なので、怒るとひどく動物的な顔になった。

「僕の云っているブライドは『人間としての誇り』のことだ。あなたの云っているプライドは『世間体とナルシシズム』だ。この二つはまったく違うんだよ。あなたみたいなボードビリアンには、死ぬまで解らないだろうけどね」

 義明は持っていた缶ビールの中身を、こちらに向かってぶちまけた。ビールの雫が僕の前髪を濡らし、頬を伝って首筋まで流れた。あまりのバカらしさに、もう怒る気にもなれなかった。

「さっさと帰りな、自分の芝居小屋にさ!」

 火の消えてしまった煙草を、僕は指先で灰皿へ弾いた。義明は怒りを露にしたまま、黙って立ち上がった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る