第2話 殺人犯の自首
07
ベルで目を覚ました。一瞬どこにいるのか解らなかった。無意識に受話器を取るのと、沖縄にいるんだと思い出したのが、同時くらいだった。
『フロントです。お電話が入っております』
男の声が事務的に告げた。
「あ、つないでください」
(紗季からだな)と思いながら、何気なく時計へ目をやった。五時四十二分。五時? 少し変だと気がついた。
『魚住さん!』
訴えかけるような女性の声だった。聞き覚えがあった。
「比嘉さん?」
『外に来ているのよ。銃を持ってるわ!』
ガラスの砕ける音がした。ルミが短く悲鳴を上げるのが判った。
「誰が来たんです?」
『解らな……』
通話が切れた。「比嘉さん!?」と、何度か呼びかけたが無駄だった。ベッドから跳ね起きた。衣類を乗せておいた椅子まで裸足で行き、ジーンズをはいた。それからブルゾンとルームキーをつかんで部屋から出た。
エレベーターはなかなか上ってこなかった。ブルゾンを着ながら文字盤を睨んだ。傍に階段があったなら、おそらくそちらを使っただろう。エレベーターのなかで、つぶして履いていたスニーカーの踵を直した。直し終えても、文字盤のライトはまだ三階だった。舌打ちせずにはいられなかった。
「小野寺さんを呼んでもらえないかな。急用なんだ」
フロントには従業員が一人だけいた。エンマコオロギみたいな顔をした若い男だ。彼は一瞬戸惑ったが、すぐ「かしこまりました」と答えた。受話器を取って番号をプッシュすると、ほどなく小野寺が出たようだった。
「今、お客さまがフロントへいらして」
小声でそんなことを云っていた。もどかしいので、受話器を渡してくれるようジェスチャーで示した。コオロギはちょっと躊躇してから、慌てたように受話器をよこした。
『もしもし?』
耳に当てると、向こうで小野寺がそう云っていた。
「昨日から泊まっている魚住です。お休みのところ申しわけないけれど、比嘉ルミさんの住所を教えてほしいんだ。ほんの数分前に電話があって、誰かに殺されそうだって」
『解りました。表へ出て待っていてください』
小野寺が勢いよく通話を切った。コオロギに礼を云うと、僕は外へ出た。
夜明けの街はしんとしていた。どこかから車の排気音が低く聞こえるだけだ。ホテル前の通りには、車が一台も走っていなかった。遠くに信号機のレッドがぽつんと見えている。ブルゾンのポケットに腕時計が入っていた。取り出して見ると五時四十七分だった。電話が来てからすでに五分が過ぎている。焦りを感じたが、どうしようもない。小野寺は駐車場から白いワンボックスカーを回してきた。思ったよりも早かったが、それでも僕が外に出てから、さらに三・四分が過ぎていた。車のボディサイドには、ホテルの名前が大きく描かれていた。
「乗ってください」
停車すると、助手席にあった地図や雑誌を、小野寺は乱暴にリアシートへ放り投げた。慌てて出てきたらしく、彼はライトブルーのパジャマのうえに、黒いウインドブレーカーを羽織っているだけだった。
「ここから遠いんですか?」
助手席でシートベルトを締めながら訊いた。彼は黙ったまま曖昧に頷いてみせた。ベルトを締めている時に急旋回したので、僕はつんのめった。小野寺のほうへ視線を投げた。ビジネススーツを着ていないせいか、昨日と印象が違っていた。額にかかった髪には、白髪が混じり、頬が青白くたるんでいる。疲れ切った初老の男のようにさえ見えた。
彼の運転は荒かった。サイドウィンドーにもたれるようにして、僕は身体を支えた。車は何度か交差点を曲がりながら、人気のない街を進んでいった。一度信号で停止したが、車が来ないと解ると、小野寺は突っ切った。
何も質問してこないことが不自然に感じられた。比嘉ルミがどうして殺されそうなのか? 誰に殺されそうなのか? どんな風な電話が来たのか? 普通ならそういったことを訊きそうなものだ。
「小野寺さんは、比嘉さんが狙われていたのを知っていたんですね?」
問いかけると、驚いたようにこちらを見た。隣に人を乗せていることなど忘れていたので、話しかけられて驚いたという顔つきだった。
「ええ、聞いていました」
「誰に狙われていたかも知っていそうですね?」
わざとそう云って、彼の反応を窺った。
「いや、それは知りません。おそらく比嘉さん自身も知らなかったんじゃないですか」
小野寺は表情を変えずに答えた。彼の声は硬く、無感動な調子だった。そして、切迫した状況だというのに、のろのろとした印象があった。
住宅街の路上でワンボックスカーは停車した。幅広い道で、両脇にはブロック塀に囲まれた家屋が並んでいた。小野寺は車を下りると駆け出した。エンジンはかけたままだった。少し先に、左へ折れる路地があった。二つの住宅に挟まれており、一メートルくらいしか幅がなかった。小野寺がそこへ入っていったので、僕も後に続いた。
路地は舗装されておらず、両脇に雑草が生えていた。突き当たりに古いコンクリート造りの家が見えた。外壁には白いペンキが塗られているが、長年の雨風であちこち禿げ落ちている。窓枠だけを最近アルミサッシに替えたのか、そこだけが真新しかった。家の前に狭い庭があった。庭というより空き地と呼んだほうが適当かも知れない。
「静かですね」
小野寺の背中に云った。彼は建物を見ているだけで、答えようとしなかった。ただ正面を睨んで唇を噛み締めていた。僕は周囲を見回した。玄関脇の窓が割れていた。僕は腕時計を見た。六時十二分になるところだ。電話が来てから、すでに三十分が過ぎてしまっている。
「比嘉さん、小野寺です。比嘉さん!」
小野寺がドアを叩き、ノブを引いた。ドアはロックされているようだった。僕は割れた窓から室内を覗いてみた。そこはキッチンで、その向こうに部屋が少しだけ見えた。窓には鉄格子のようなものが取りつけてあった。ここから入ることは不可能だ。
「裏へ回ってみましょう」
促したが、小野寺はドアの前で立ち尽くしているだけだった。僕は一人で裏手へ回ることにした。隣家の垣根が迫っていたが、人が歩くだけならスペースは充分だ。途中にガラスサッシの窓があったが、そこも上部が割れ落ちていた。しかしカーテンが下がっているので、室内の様子は判らない。試しに窓枠を引いてみたが、内側からロックされていた。
家の裏側にドアがあった。今度はロックされていなかった。ノブを引いて覗き込むと、なかは真っ暗だった。隅に段ボール箱が積まれているのがぼんやり判る。床はコンクリートで、玄関の靴脱ぎ場を大きくしたような場所だ。目が慣れるに従って、少しずつはっきりしてきた。突き当たりにガラス戸があるのが判った。足下に注意しながら近づいた。その向こうは板張りの廊下だった。
「比嘉さん。勝手に上がりますよ」
そう云ってスニーカーを脱ごうとした時、廊下にある黒い染みに気づいた。指先でこすり、顔を近づけてみた。それは血のようだった。
「比嘉さん!」
大声で呼んだが、やはり返事はなかった。(警察を呼んで対処してもらうべきだろうか?)とも考えた。だが、ルミが瀕死の状態で倒れている可能性もある。やや躊躇した後で、室内へ入った。
ルミの云っていたとおり部屋は二つあった。初めに入ったほうが居間だった。どこにでもある独身女性の部屋という感じだ。右手の隅にオーディオセットが置かれ、いたるところに小物が並べられている。可愛らしいルームランプやペン立て、CDケースや小瓶類だった。居間の隣は寝室だった。ガラスの一部が割れ落ちた窓は、この部屋のものだった。パイプベッドに和式の布団が敷かれている。シーツやブランケットは、今まで人が寝ていたかのように乱れたままだった。隅のほうに電話機があるのに気がついた。受話器を取り上げて耳に当ててみた。いきなり切れたことが気になっていたからだ。電話はちゃんとつながっていた。
念のため、他の部屋も覗いてみた。キッチンにはガラスの破片が散らばっていたが、トイレは綺麗なままだった。バスルームも乱れてはいないが、窓ガラスの一部が割れていた。犯人は家の周囲を回りながら、闇雲に銃弾を打ち込んでいったのだろうか。
バスルームにいる時、廊下に人の気配を感じた。小野寺が来たのだろうと思った。やがて足音が近づいてきたので、バスルームから出てみた。立っていたのは制服姿の警官だった。
08
銃声が聞こえたと、通報があったらしい。そして無理もないのだが、僕達は警察署へ連行されることになった。任意ということになっていたが、ほとんど強制連行だった。僕は素直に従った。下手に逆らうと、家宅不法侵入だとか、面倒なことを持ち出されそうだったからだ。
リアシートへ座らされた。隣には無愛想な警官が陣取った。パトカーに乗ったのは生まれて初めてだった。貴重な体験ともいえるが、できれば一生乗りたくなかった。決して気分のよいものではない。
警察署まではすぐだった。僕は取り調べのための陰気な小部屋へ通された。灰色のスチールテーブルと、座り心地の悪い椅子が置かれていた。フロアも壁もロッカーも灰色で統一されており、どれも埃や脂で薄汚れていた。やがて二人の私服警官が入ってきた。きっと親の躾が悪かったのだろう。彼等は満足に挨拶もできない連中だった。
「電話が来た。だから駆けつけた。それだけですよ」
珍しい柄のネクタイを締めた男が目の前に座った。紺地に金糸でダックスフントが何匹も刺繍されている。蒼黒い肌の馬面の男で、目に狡そうな光があった。背後には太った中年男が立っていた。髪を短く刈っているので、頭髪の間から茶色く日焼けした地肌が見えた。理由はさっぱり解らないが、彼等は無闇に威張っていた。
「だからねぇ、魚住さん。そういうことをされると、こちらとしてもあなたを疑わざるをえないんですよ。どうしてメモについて教えてくれなかったんです?」
ダックスフント・タイの男が云った。言葉自体は丁寧だが、態度は傲慢さに満ちていた。彼は机へ両肘をつき、右手の中指で、左の掌を弾くみたいにしていた。
「あなた達がとても忙しいって聞いたものだから。桃花の失踪についても、あんまり真剣になっていないという話だし」
「誰が云ったんだよ。そんなこと!」
背の低い、太った中年男が怒鳴った。人品の卑しそうな顔つきで、何かというとすぐに大声を上げた。 「調子に乗るなよ。おまえが犯人だって可能性もあるんだ。おまえは怪しいんだ。動機があるしな」
彼はわざわざ近づいてきて、耳元でわめき散らした。
「大声を出さなくとも聞こえますよ。動機って何ですか? なぜ僕が比嘉さんを殺さなくちゃならないんだろう」
嫌気がさしてきて、投げ遣りな云いかたをした。
「動機がないっていうのかよ」
「ないよ。昨日初めて会って、親切にしてもらった。それでどうして殺意を持つんだろう? こっちが訊きたいくらいだよ」
「初めて会ったって証拠は?」
勝ち誇ったように中年男が云った。無闇に威張ったり、大声を上げたり、勝ち誇ったりするのが好きであるらしかった。
「ここで示せる証拠なんてないよ。比嘉さんに訊いてもらうしかないね」
「ベルリエの店長は、初めて会ったにしては親し気だったと云っているんだけどねぇ」
僕の顔を覗き込むようにして、ダックスフント・タイが訊いた。彼はまた右手の指で、規則的に左の掌を弾き始めた。
「そんな風に見えたかも知れない。だけどそれは、推測にすぎないでしょう?」
それだけ答えて黙り込んだ。もう話す気が失せていた。
「本当に初めて会ったのか? 比嘉はな、去年の暮れに東京へ行っているんだ。友達の結婚式に出るためだそうだが、そのわりには滞在期間が長かった。十日間も滞在しているんだぞ」
また背後の中年男が、怒鳴るみたいに云った。
「初耳ですね」
わざと無表情で答えた。中年男はこちらの返事など聞いていないかのように続けた。
「彼女が東京に行っていた時に、打ち合わせたんじゃないのか? おまえは別れた女房を恨んでいた。自分を裏切ったんだからな。それで比嘉を使い、女房を殺させた。ところがホテルでメモが見つかってしまった。それで足が着くのを怖れて、今度は比嘉まで狙った。どうだ!?」
中年男は独りで喋り、それからぐっと顔を近づけてきた。口臭がひどかった。
「どうなんだよ? え、魚住さん」
「一人で得意になっていて、あまり頭がよさそうには見えない。それに息が臭い。ブレスケアをしたほうがいいと思う」
中年男は怒って、拳で机を叩いた。音が部屋に響きわたった。
「まあまあ、赤嶺さん」
ダックスフント・タイが立ち上がった。 「魚住さん、あんたも悪いよ。いちいち挑発的すぎる。今日はもう帰ってもいいから」
帰っていいも悪いもない。逮捕されたわけじゃあるまいし、協力するかしないかはこっちの勝手なのだ。ダックスフント・タイの台詞も気に障ったが、黙って引き上げることにした。赤嶺と呼ばれた男は、掌で首の後ろをごしごし擦りながら、嫌な目でこちらを睨んでいた。
外の陽射しはかなり強かった。景色が白っぽく霞んで見えるほどだ。警察署の建物は交差点の一角にあり、すぐ前の埃っぽい大通りをバスやトラックが行き来していた。あたりを見回してみた。ガソリンスタンドと小さなリサイクルショップ、そして琉球銀行の看板が目についた。僕は途方に暮れ、空を仰いだ。道が解らないのだ。さらに悪いことに、ディパックはホテルに置いてきてしまった。ジーンズのポケットに入っているのは、数百円の小銭だけだ。
喉が乾いていた。とりあえず何か飲みたかった。どこかに自動販売機がないだろうかと見回してみた。その時、反対車線に停まっている車に気がついた。ボディサイドに[ビジネスホテルおのでら]と描かれた白いワンボックスカーだ。僕はほっとした。道路を横切って、車の前まで行った。サイドウィンドーをノックすると、運転席の小野寺が顔を上げた。
「大丈夫でしたか?」
ウィンドーを下げてから、彼は抑揚のない口調で訊いた。それで言葉とは裏腹に、まるで心配していなかったような印象を受けた。乾いた唇を湿らせて、話し出そうとした時に、僕はリアシートに誰かが座っているのに気づいた。ショートカットの女性だ。明るいブルーのブラウスのうえに、きちんとプレスされたライトグレーのビジネススーツを着ている。一瞬誰だか判らなかった。
「紗季さんじゃないか」
独り言のように呟いた。羽生紗季が身体を乗り出すようにして、こちらへ顔を向けた。そして形のいい唇を開き、可愛らしい感じの微笑みを浮かべた。
「私と義明も呼ばれたんですよ。それで、小野寺さんと知り合って、話をしていたんです」
(ああ、なるほど)と思った。紗季達は桃花失踪の関係者なのだから、呼ばれても不思議はなかった。
「乗ってください」
囁くように低い声で小野寺が促したので、僕は助手席へ座った。すぐに小野寺がエンジンをかけた。
「義明さんはどうしたんですか?」
どちらにともなく訊いた。紗季はまた身体を乗り出すようにした。
「まだ警察署です。待ってなくともいいと云っていました」
僕は頷いてみせた。
「大丈夫でしたか?」
また小野寺が同じ質問をした。そうしながら彼は、バックミラーで後方を確認しつつ、ゆっくり車を発進させた。
「もちろん大丈夫です。メモのことを黙っていたのはともかく、何も後ろ暗いところはないんだから」
答えると、小野寺は微かに笑った。あるいは笑ったのではなく、弱々しく息をついただけかも知れない。
「警察の人達から聞いたんですけど、反抗的に振る舞っていたそうじゃないですか。だから出してもらえないんじゃないかって、心配していたんですよ」
「反抗的ね」
僕は気分が悪くなった。
「ちょっと意外ですよね。私なんかは魚住さんをできた人っていうか、寛容な人だと思ってたんですよ。だって桃花さんと義明のために、わざわざ沖縄まで来てくれるような人じゃないですか。ちょっと意外だったな」
紗季が背後から云った。
「仮に、僕がものすごく寛容だったとしても、あんなの怒って当たり前だよ」
サイドシートの窓枠に肘をつきながら返事をした。 「反抗的だって、警察の連中が云ったんだろう? 反抗っていうのはさ、下の人間が上の人間に逆らうことをいうんだ。連中の仕事に協力してやってるのに、反抗なんて言葉が平気で出てくる。奴隷じゃあるまいし、失礼な扱いを受ければ抗議するのは当然だ」
「まぁまぁ、警察なんて普通あんなものですよ。私にも経験がありますけれどね。まるで特権階級みたいに思っているんでしょう。我慢して、もっと利口に振る舞ったほうが得ですよ」
小野寺が宥めるみたいな口調で云ったが、それも勘に触った。こうした考えかたは、僕が最も嫌悪しているものだ。立場が強い相手に盲従することを、オトナだとか利口だとか云っている連中ぐらい、信用できないものはない。
「目先の損得のために、奴隷的に振る舞うなんて、正常な人間のやることじゃありません。そんなことを続けていると、いつか後悔しますよ。何かを賭けてもいいくらいだ」
不機嫌になっていた僕は、感情的に云い返したが、お利口な小野寺は何も答えようとしなかった。その時、紗季が声の調子を変えて、「しッ!」と云った。反射的に耳を澄ますと、ラジオのニュースが聞こえてきた。
『……住民から通報があり、警察が駆けつけましたが、すでに比嘉さんの姿はありませんでした。警察は、比嘉さんがなんらかの事件に巻き込まれたと見て、付近の住民や関係者から事情を聴いています』
僕は無言で紗季の顔を見た。彼女も呆然とこちらを見ていた。まるで嘘みたいだった。昨日、川崎のアパートで電話を受けた時は、こんなことになるなんて想像もしなかった。次のニュースが始まっても、誰も話し出そうとしなかった。
09
車がビジネスホテルの前で停まった。時計は十一時前だった。比嘉ルミの電話で起こされて、警察へ連れていかれて……。時間の感覚が失われてしまっていた。まだ午前中であることが不思議に感じられた。
狭いホテルのロビーへ入ると、従業員の視線が集中した。ソファーに座っていた中年の婦人が、よろけるようにして立ち上がった。顎くらいの高さで切り揃えられたストレートヘアは、ほとんどが白髪になっていた。この年齢の女性としては大柄で、骨太のしっかりした身体つきをしている。彫りの深い顔立ちには、険しさと派手さが同居したような印象があった。
「大丈夫だったの?」
彼女は小野寺へ近ついていった。ほとんど抱き締めんばかりにして、彼の手を取った。まるで帰らない幼児を心配していた母親のようだ。
「平気です。私は何ともありませんから」
まるで怯えているみたいに小野寺が硬い声で応じた。そのあいだも彼女は、愛し気に彼を見詰めていた。年齢はおそらく、六十を過ぎたくらいだろう。母親にしてはちょっと若いし、妻にしては老けすぎていた。
「どなたです?」
今朝の従業員が傍にいた。エンマコオロギみたいな顔をした男だ。僕は小声で話しかけてみた。
「支配人のお姉さんなんですよ」
コオロギはもったいぶっているみたいな微苦笑を浮かべた。薄い唇がめくれて、大きな八重歯が覗いた。(姉なのか?)と思って、もう一度視線を移した。がっしりした顎のラインと太い眉のせいかも知れないが、彼女はかなり気が強く、偏屈な性格のように見受けられた。
「支配人とは、歳が十六・七も離れているんです。お二人とも結婚はなさってなくてねぇ、とても仲がいいんですよ」
薄笑いを浮かべたまま、コオロギが付け加えた。紗季が僕のブルゾンの袖を引いて、もう行こうと仕草で示した。
505号室のロックを解除して、紗季を招き入れた。部屋の掃除は済んでいた。灰皿が綺麗になっていたし、シーツも直されていた。陽射しが注ぎ込んでいる部屋は、雰囲気が昨夜とは違って見えた。女子大学の寮みたいな印象だ。壁紙やシーツが、ローズグレーで統一されているせいかも知れない。正面の小さなガラスサッシを開くと、どこからか鳩の鳴く声が聞こえてきた。
デスクの椅子を紗季にすすめてから、バスルームへ入った。今日はまだ顔も洗っていない。鏡に写る自分の頬が、ひどく強ばって見えた。溜め息をつき、コップ二杯の水を飲んだ。それからゆっくり顔を洗い、歯を磨いた。沖縄に来てから、丸一日も過ぎていないのに、もう三日分くらい疲れてしまった気がした。
バスルームから出ると、有線放送のフレンチポップスが部屋に流れていた。紗季は陽射しを全身で受け止めながら、窓際で煙草を喫っていた。
「すみません。勝手に貰っちゃいました」
指先でつまんだ煙草の箱を、こちら側へ向けて振りながら、いくらか寛いだ調子で紗季が云った。フェイスタオルを使いながら、「別にかまわないよ」と答えた。顔立ちのどこかに幼さのある紗季は、煙草を喫っていると、生意気な女子学生みたいに見えた。あまり似合っているとは思えなかった。
「何から話せばいいのか、解らなくなっちゃいましたね」
彼女は首を少し傾げ、穏やかな眼差しを向けた。それからデスクの縁に片腕を乗せて、身体をもたせかけるみたいにした。
「本当にそうだな」
開いている窓の傍へ行ってみると、姿の見えない鳩の声はまだ続いていた。昨夜と違って、景色を綺麗に見渡すことができた。手前にいくつかのビルが建っていた。はるか向こうには丘陵が連なり、住宅が小さく並んでいた。五階の窓から見渡す春先の町並みは、とてものどかだった。
「とにかく、話を整理しましょうか」
紗季が淡々とした口調で云った。僕はベッドへ座って、そのまま身体を後ろへ倒した。乾いたシーツが心地よかった。瞼を閉じると、疲労がはっきり感じられた。このまま眠ってしまえそうなくらいだ。
「順を追って話すよ。昨日の夜、僕はあれからベルリエへ行った」
寝転がったままで、状況を説明した。その長い説明を、紗季は真剣に聴いていた。小さな青い手帳を取り出して、時々メモを取っているようだった。
「魚住さんから見て、何か不自然な感じのすることとか、ちょっと腑に落ちない行動をとる人物とか、そういうのってありますか?」
「僕自身が怪しいそうだ。警察側の見解だけどね」
持っていた手帳を閉じて、紗季は首を振ってみせた。
「バカバカしいですね。比嘉さんが襲われた時間、ここで寝ていたんでしょう?」
「そんなのアリバイにならないさ」
僕は小さく笑いながら答えた。 「共犯の女性がいればいいんだ。たとえば僕が比嘉さんを殺してホテルへ戻る。その後で共犯者が現場で銃をぶっ放し、ここへ電話を入れる。比嘉さんを装ってね」
紗季は不思議そうな顔をした。こちらへ向き直り、まっすぐに僕を見た。
「警察がそう云ったんですか?」
「そこまでは云わない。いま自分で考えたのさ」
紗季は少し唇を尖らせた。それから立ち上がり、デスクの隅にあった湯沸しポットを手に取った。水が入っていることを確かめると、彼女はシーソー式のスイッチを入れた。
「とりあえず私は、魚住さんを容疑者からはずしますよ。もちろん魚住さんが、私をはずす必要はありませんけど」
「どうもありがとう」
天井を見詰めたまま、礼を云った。紗季は声のトーンを変えずに続けた。
「小野寺さんのことはどう思います。怪しいかどうかは判らないですけど、少し変わった人ですよね。さっきの人、お姉さんなんでしょう? なんかシスターコンプレックスっていうか、おかしな空気を感じませんでしたか」
「まぁ、それに近い雰囲気はあった。だけど他人がどうこういう問題じゃないね。シスコンだろうが、ゲイだろうが、マゾヒストだろうがさ……。誰にも迷惑をかけてないんなら、何だっていいじゃないか」
紗季の笑い声が聞こえた。彼女はとても軽やかに笑った。
「魚住さんはそう云うと思いました。少しずつ性格が掴めてきた気がします。私、大学で心理学をやってたんで、人間観察はそこそこ得意なほうなんです」
ポットのお湯が沸き始めたらしく、低い音が聞こえてきた。僕は寝返りを打ち、今度はベッドのうえで頬杖をついた。紗季を見ると、彼女はカップを取り上げ、消毒済と書かれたビニールラップを破り捨てていた。
「問題は、これからどうするか?ですよね。かなり話が大きくなっちゃったし、警察に任せて手を引いたほうがいいと思いますか」
一杯分ずつパックされたインスタントコーヒーを、カップへ入れながら紗季が訊いた。
「あいつ等は信用できない」
率直な感想を云った。 「何よりもまず、人として信用できない。特に僕が会ったあの二人はね。それにもし、僕が近づいたことで比嘉さんが襲われたのなら、何とかしたい気はするな。もし、そうじゃなかったとしても僕はすごく後ろめたい。彼女の希望通りに、家に泊まっておけばよかったんだ」
「比嘉ルミさんは無事でいると思いますか?」
呟いた後で、紗季は口をつぐんだ。まずいことを云ったと感じたらしかった。
「全然解らないな。でも、無事を祈りたいね」
沈んだ表情で紗季が近づいてきて、右手に持っていたコーヒーカップを手渡してくれた。
「それじゃあ、何をすればいいですか? 桃花さんがこっちへ来てから出かけた場所を、一つ一つ順番に辿ってみましょうか? 何か解るかも知れないし」
青い手帳をぱらぱらめくってページを見つけると、彼女はこちらへ手渡した。電話番号が二つ書き留めてあった。『リシャールホテル那覇』と『ステーキハウス・カプリ』だった。
「先週の日曜、二人は夜の便で沖縄へ来て、那覇に一泊しています。残波岬のホテルに宿泊したのは月曜からで、日曜の夜だけは那覇に泊まっているんです。そのホテルがリシャールホテル那覇です。二人はチェックインを済ませてから、外出して夕食をとりました。食事をした場所がステーキハウス・カプリです。その後は、まっすぐホテルへ戻ったそうです」
手帳には色々なことがびっしり書き込まれている。僕には真似できない几帳面さだった。
「たいしたもんだよ」
身体を起こし、ベッドサイドに座り直すと、手帳を返しながら云った。
10
川の両脇にはグリーンのネットフェンスがあったが、それを覆い隠してしまうくらいに草樹が溢れていた。川の流れは、どちらへ向かっているか判らないほど緩やかだった。陽射しの強さは、木陰へ入ると涼しいと感じるぐらいで、三月とは信じられなかった。
「あれがリシャールホテルです」
紗季が指差したのは、マンションのようにシンプルな造りの白い建物だった。側壁の一番高い位置に、イニシャルのRと楕円を組み合わせたようなロゴマークがついている。
ロビーの天井には、いくつものシーリングライトが埋め込まれていた。大理石のフロアは天井からの照明を弾くほど滑らかで、フロントカウンターの前にだけ、カーペットが敷いてあった。そのカウンターには、二人の女性が並んでいた。右の女性が「いらっしゃいませ」と云って、技巧的だが華やかな笑顔を向けた。
「六日前の日曜日、こちらへ泊まった客のことで伺いたいんですが」
紗季が切り出した。名刺を示し、怪しいものでないことを強調した。少し離れて、僕はやりとりを見守ることにした。紗季の説明はとても要領がよかった。
「解りました。担当の者をお呼びしますので、おかけになってお待ちください」
制服の女性は丁寧な、けれど感情のこもらない声で答えた。迷惑がっているのか、親身になってくれているのか、判別のつかない話しかただ。指示通りにソファーで待つことにした。
「何か教えてもらえそうかな。こういうホテルは対応マニュアルがあるだろうから、不都合なことは教えてくれないんじゃないの」
「うーん、どうでしょうか」
紗季が答えた時、電子ベルの音が聞こえてきた。静かなロビーでは、電子ベルの音は大きく響いた。すぐ近くだと気づいた時、彼女がジャケットの内側へ手を差し入れ、銀色の携帯電話を取り出した。
「会社から?」
「そうですね。ちょっとすみません、電話してきます」
立ち上がると、紗季はロビーの入口へと歩いていった。僕は彼女の姿をぼんやり目で追った。面倒な用件らしかった。時々考え込みながら話していた。
「仕事?」
戻ってきた紗季に、訊いてみた。
「いえ。義明から会社に、電話があったんだそうです。至急連絡を取りたいって。だからステーキハウスへ電話するように伝言しました。何もなければ、三十分くらいのうちに行ってるからって」
紗季は携帯電話のディスプレイ画面を見て、何か操作していた。彼女が携帯電話を持っていることを、僕は今まで知らなかった。
「どうして義明さんに、携帯電話の番号を教えていないの?」
気になったので、訊いてみた。
「ああ、これは私物じゃないんですよ。外出中のスタッフへ連絡が取れるよう、会社名義で契約しているやつなんです。だから私以外の社員が使うこともあるし……。でも、携帯電話は必要かも知れませんね。魚住さんも持ってないんでしょう?」
頷いてみせた。携帯電話は、ここ数年で急速に普及していた。僕の周囲でも、三人に一人くらいは所有している。しかし、ろくに友達もいない僕にとっては、必ずしも必要なものではなかった。
「そんなことより、義明さんからの電話だけど、何かあったんだろうか?」
「あったみたいですね。慌てていたらしいですから」
携帯電話をポケットへ戻しながら、あっさりと答えた。こういう時の紗季は、不思議なくらい冷静だった。義明が慌てているのなら、ルミではなく桃花のことだろう。その時、唐突に思い出したことがあった。
「桃花の伯母さんには、もう連絡したよね」
「伯母さん?」
彼女は驚いたみたいに訊き返した。 「そんな人がいるんですか?」
ちょっと呆れた。僕のアパートへ電話をよこすくらいだから、とっくに連絡したものだと思っていた。
「桃花が小学生の時、両親が事故で死んだだろう。それから後は伯母さんが面倒を見ていたんだ。母親のお姉さんで、今も熊本に住んでいるんだ。まいったな、てっきり連絡済みだと思ってたよ」
紗季は黙り込んでしまった。髪の毛を指先へ絡めるようにしながら、記憶を確かめているみたいだった。しばらくの後、ゆっくりと口を開いた。
「私はそんな話、聞いていませんよ。きっと義明も知らないんじゃないかな」
「まさか。たった一人の肉親なんだよ。結婚式にだって呼んでいるはずじゃ……」
その時、近づいてくる男性に気がついた。長身の中年男性だった。高価そうなチャコールグレーのビジネススーツを着ている。彼は目の前まで来ると、丁寧に頭を下げた。
「お待たせいたしました。副支配人の大城と申します」
名刺を差し出したので、紗季は立ち上がって名刺の交換をした。僕はただ頭を下げてみせた。
「事情は伺いました。担当の者に訊いてみましたが、特別に思い当たるところはないそうです。お力になれなくて申しわけありません」
一つ一つ言葉を噛み締めるように、けれど毅然とした調子で彼は話した。
「そうですか。お手数をかけました」
紗季は頭を下げた。ねばってもこれ以上聞き出せそうになかったし、何かを隠している雰囲気でもなかった。副支配人は口元に微笑を造り出し、そうしてまた丁寧に一礼してみせた。
外の陽射しは、眩しさを増している気がした。
「簡単に追い払われちゃったね」
話しかけてみた。紗季はジャケットを脱ぎ、片手に持ったまま歩き出した。十二時半を過ぎたくらいで、気温が上がってきているのが判った。
「そうですね。でも怪しい感じもしなかったじゃないですか? 大きなところはやりにくいですね。義理人情の入る余地がないし。だけど庶民的なところならうまく行きますよ。ウチナンチュは、基本的にはフランクですから」
「ウチナンチュ?」
訊き返すと、淡く笑った。
「知りませんか。こっちの言葉で沖縄の人を指すんです」
「いや、知らなかった。紗季さんもウチナンチュなの?」
「私は静岡生まれですから、内地の人間。つまりナイチャーですね」
彼女は微笑した。 「大学時代に沖縄へ来て、気に入っちゃったんです。一度は東京で就職したんですけど、どうしても沖縄に住みたくて、去年の春に引っ越してきたんですよ」
僕達は川沿いの道を逸れて進んでいった。何度か角を曲がって、やがて賑やかな通りへ出た。両脇にデパートやショッピングプラザが並び、色つきブロックがはめこまれた歩道を、観光客らしき人達が大勢歩いていた。土産品店から聞こえてくる琉球民謡、歩行者信号が赤に変わりかけていることを示す電子音、多くの話し声や笑い声など、さまざまな音が入り交じって聞こえた。
「ここが国際通り、那覇のメインストリートです。カプリはこの通りにあるんです」
前を歩く紗季が説明した。建物がひしめきあっているわりに、通りが爽やかに見えるのは、緑が多いせいかも知れない。そうするうちに偶然、[ステーキハウス・カプリ]という看板を見つけた。木製の看板は、建物から水平に突き出たポールに吊されている。僕が見つけたのとほとんど同時に、「あそこですよ」と紗季が指差した。
11
カプリの内装は、ステーキハウスらしくなかった。壁は地中海の島にでもあるような純白のもので、フロアは石畳だった。窓は一つもなく、淡緑の照明が灯っている。あちこちに巨大な貝殻が飾ってあるので、深海をイメージしているのかも知れなかった。
隅のテーブル席へ案内された。食欲がわかなかったので、なるべくボリュームのなさそうなものを頼んだ。オーダーを済ませてから、紗季が写真を取り出した。義明と桃花が、沖縄で撮影したものらしい。
「見せてもらえるかな」
受け取って眺めた。どこか石垣のある場所だった。義明が桃花の肩を抱き、二人は幸せそうな表情で並んでいる。隅に入っている日づけは三月四日だ。桃花は以前よりも髪をのばし、首を傾げて微笑んでいる。幸せそうな笑顔だった。
その時、ベルの音がした。壁の向こうに電話があるらしい。女性の声が「カプリです」と名乗り、続けて「ちょっとお待ちください」と答えるのが判った。
「お客さまの羽生さま、いらっしゃいますか。お電話が入っております」
奥から出てきた女店員が云った。紗季は「はい」と答えて立ち上がり、壁の向こう側へ歩いていった。やがて何か話す声が、微かに聞こえ始めた。僕は一人でテーブル席へ残った。写真を見詰めながら、電話の内容を想像してみた。義明が慌てているのは何故だろうか? 桃花のことではなく、ルミの死体が見つかったとか、不吉な話かも知れないと気づいた。嫌なイメージが掠めたので、頭を振ってそれを追い払った。
やがてまったくの無表情で紗季が戻ってきた。途方に暮れながら気抜けしているみたいな、そんな歩きかただった。
「犯人が自首したそうです。比嘉さんを殺した」
立ったままで呟くように云った。驚いて顔を上げた僕を、紗季の暗い瞳が見下ろしていた。
「殺した?」
無理やり微笑むみたいに頬を引きつらせると、紗季は向かいに腰を下ろした。不思議な沈黙がしばらく続いた。グラスの水を一口飲んでから、彼女はやっと囁くように云った。
「犯人は、桃花さんですよ」
カプリの店員達は桃花のことを覚えていなかった。何人もが写真を見ながら、真剣に思い出そうとしてくれたが、うまくいかなかった。けれどもう、そんなことはどうでもいい気がした。食事を済ませると、僕達は店から出た。
「どうしますか?」
陽射しのなかで紗季が目を細めた。こちらが教えて欲しいくらいだった。桃花が犯人だなんて信じられなかった。なぜ彼女が、比嘉さんを殺さなくてはならないのだろう。
「義明が戻るのを待ったほうがいいかな。とにかく、くわしい状況が知りたいですよね」
「義明さんが警察から出たら、連絡がつくようになっているの?」
紗季は虚を突かれたみたいな顔をした。
「そのことを話さなかった! まいったな。私も義明もすごく慌てていたから」
紗季が宙を叩くように右拳を振り下ろした。 「仕方ないですね。残波岬で待っていましょうか? 義明はあそこのホテルへ帰るでしょうから……。また連絡があるかも知れないので、会社には伝言しておきますよ。ホテルで待っているって」
「そうしよう」
簡単に答えた。何でもいいから行動に移したかった。ただ考えているだけではあまりにも堪えがたい。
三時間ばかり後、僕は海岸にいた。残波岬のホテルから遠くない海岸だ。ホテルのフロントで訊いたが、やはり義明は戻っていなかった。紗季をロビーへ残し、僕はホテルから出た。少しでいいから独りきりになりたかった。あたりを散歩してくると云うと、紗季は黙って頷いてみせた。
ホテルへ背を向け、なだらかな坂を登った。道路脇のサトウキビ畑を、風がサラサラ鳴らしている。途中で畑のなかの小径に入ってみた。頭上でしきりにトンビの声がしていた。振り仰ぐと空の高いところに、悠々と旋回する姿が二つ、逆光でシルエットになって見えた。やがて海に突き当たった。前方の岬と残波岬に挟まれて、弓形の湾になっている場所だ。湾のなかは凪いでいるが、沖には白い波頭が見え、波音が遠雷のように聞こえた。引き潮の時間であるらしく、波で表面を削られた岩が、巨大な石畳のように沖へ続いていた。
海岸の岩場へ下りると、波がひたひたと音を立てていた。貝殻がたくさん散らばっている。ソフトクリーム型の貝殻を見つけた。苔のようなものがついていたので、くぼみの水溜まりで洗った。汚れは簡単に落ちた。純白の貝殻には、どこにも欠けたところがなかった。桃花の顔が浮かんだ。けれど、もう桃花は傍にいない。綺麗な貝を拾っても、それを喜ぶ人はいない。そんなことがいつまで経っても、僕には実感できないのだ。
桃花と知り合ったのは大学四年の時だった。僕はそのころ、すでに周囲と距離を置くようになっていた。それは一種の処世術だった。なぜならボードビリアンは、どんなグループにも紛れ込んでいたからだ。彼等は周囲の人達、『観客』へ思い込ませたことが、そのまま『事実』になると信じている。そしてボードビリアンの傍にいると、彼等は僕のことも観客と認識してしまう。一度でも演技を認めれば、事あるごとに擦り寄ってくるのだ。
僕はボードビリアンのやりかたに、ずっと嫌悪感を抱いていた。自惚れきった自慢をしたり、僕のやることを貶したりして、自分の優位を懸命にアピールする。他人を手ひどく傷つけておいて、都合のいい云いわけを並べ立て、罪悪感を有耶無耶にする……。事実を造ろうとする時の、彼等のしつこさは病的だった。はっきり演技を否定しないかぎり、執拗にパフォーマンスを続ける。もっとも否定したら否定したで、今度は僕のことを激しく憎悪するのだ。
中学や高校に比べると、大学という環境は、周囲へ距離を置くことが容易だった。誰かと特別に親しくならなくとも、問題なく生活できた。そのせいで僕は急速に孤独へ馴染んでいった。しかし自分で思っていたほどには、孤独に馴染めていなかったらしい。なぜなら、独りきりだということを常に意識していたからだ。もし本当に馴染んでいたなら、孤独を意識しないでいられたはずだった。
そんな時、桃花が僕を好きだと云った。最初は無意味だと感じた。僕達はそれまでに二・三度しか話したことがなかったので、彼女には僕がどんな人間であるか解るはずもなかった。ちょっと世間話をしただけでは、心理学者にだって、たいしたことは解らないだろう。
「あなたが好きなのは僕じゃない。あなたが勝手に作り上げた僕に関するイメージだよ」
僕はそう説明した。しかし、ボードビリアンには理解できない台詞だったらしい。彼等の恋愛はいつも、福袋を買うようなところから始まるのだ。
「私は真剣なんです」
そういった言葉も、僕にとっては茶番劇に近かった。偶然道ですれ違った人に「真剣に好きです」というのとほとんど変わらない。そうするうちに、桃花の友人が代わる代わるやってきて「気持ちを解ってやってほしい」と云った。「真剣なのよ」と云った。
「桃花さんのことは好きでも嫌いでもないよ。だって、彼女がどんな人なのか、ほとんど何も知らないんだ」
僕はただ、その台詞を繰り返すしかなかった。すると友人の一人が「じゃあ試しに付き合ってみたら?」と提案した。「好きになるかも知れないじゃないですか。そうでしょう?」と詰め寄ってきた。そんな風に切り込まれると、断る理由は出てこなかった。それで僕達は、時折会って映画を見たりするようになった。桃花は僕を理解しようと努力していた。僕は次第にそれを嬉しく感じるようになってきた。(近い将来に僕を理解し、ボードビリアンではなくなるんじゃないか)と期待した。
しかし今にして思えば、桃花の努力はきわめて表面的だった。必死で同化し、意見を合わせ、僕と同じものを好きになろうとした。それは役者が、与えられた役になりきろうとするのと同じやりかただ。つまり、桃花が必死で演じていたのは、僕の人格そのものだったのだ。すべてに気づいたのは結婚した後だった。僕はただ、彼女の存在が嬉しくて、そういった可能性を疑うことさえしなかった。一緒に過ごした七年半のうち、最初の五・六年は本当に幸せだった。たとえ今になって、これほど虚しくとも。
海岸に巨大な流木があった。海藻や小さな貝殻が付着し、それらは絡みついたままで干涸びていた。流木に腰を下ろし、水平線を見詰めた。そして持っていた貝殻を、できるだけ遠くの海へ放った。
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