第1話  残されていた名前 04~06


        04


「朝食は二階のレストランでとるんだが、桃花は先に行っていてくれと云った。で、すぐ来ると思ってたのに下りてこない。ホテルが調べてくれて判ったんだけど、どこかへ電話していたらしい。それが最後の消息だ」

 羽生義明は中肉中背だが、がっしりした体格だった。四角形の輪郭に、ギョロっとした目つき、そして濃いヒゲと、アクの強い顔立ちをしていた。

 正直のところ、僕は彼に好感が持てなかった。醜い容姿ではないものの、時代劇で悪代官を演じそうなタイプだ。しかしどのような顔つきでも、好感は持てなかったに違いない。出会いかたが悪すぎる。それでも僕はできる限り、フェアに接しようと決めた。そういう努力は必要だと思ったからだ。

「それで、桃花……、桃花さんがいなくなったのには、その中年男性が関わっているんだろうか」

「判らないよ」

 義明は擦れ声で、吐き捨てるように云った。苛立っているのが露骨に見て取れた。僕達はホテルを出て、松林のなかにある舗道を進んでいた。舗道はコンクリートで、枯れた松葉が積もっていた。左手の樹々の隙間から、エメラルド色の海が時折見えた。こちらが西になるのだろう。傾きかけた陽光を受け、海面がきらきら輝いていた。

「その中年男性が関係ないのなら、事故があったと思うんですよ」

 紗季が云った。彼女の態度は義明とは対照的で、冷静すぎるくらいだった。灯台のある断崖までは、ホテルから歩いて十分ほどだった。見晴らしは良好だが、ごつごつした岩ばかり目立って、寒々しかった。海から吹きつける風が、耳元で唸るような音を立てた。色褪せた看板がぽつんと立っており、[危険な場所なので荒天時は近づかないように]と書かれていた。

「あっちへ行ってみましょう」

 紗季が灯台の方向へ歩き出した。純白の灯台は、青空と紺色の海を背景にそびえていた。灯台の向こうは険しい岩場だった。冷えた溶岩のような穴だらけの岩で、二十メートルほど先で海へ落ち込んでいた。岩の表面は、小さく尖っていて、掌ほども平らな場所がなかった。ナイフのエッジのように薄く鋭い岩さえあった。

「こんなところにフェンスもないってのは危険ですよね?」

 歩きながら紗季が云った。風がうるさいほどに耳元で唸るので、大声で話さなければならなかった。スニーカーの靴底から、いくつもの尖った感触が伝わってきていた。断崖の淵まで行って、覗き込んでみた。岩場は直角に落ち込んでおり、数十メートル下に紺碧の海が見えた。青ガラスを何枚も重ねたような、透明感のある海だ。

「すごい場所だね。ちょっと怖いな」

 実際に軽い目眩を感じて、僕は云った。

「どう思います?」

 紗季は少しだけ後退りした。岩場で砕けた波が風に乗り、白い霧のようになって、その足元へ流れてきていた。

「このあたりで事故があるとすれば、ここじゃないかって思うんですよ。落ちたらちょっと見つからないだろうし。警察もそう云っていたんです」

 紗季が続けた。僕は一呼吸おいてから答えた。

「確かにさ、こういう場所は好奇心を刺激するよね。だけど彼女がここへ近づくとは思えないな。高所恐怖症なんだ。横浜のマリンタワーでさえ登ろうとしないくらいだもの」

「そうなのか……」

 義明が向かい風に顔をしかめながら云った。

「なるほどね」 隣にいた紗季が、得意気に頷いた。 「云った通りじゃない? 魚住さんを呼んだほうがいいって」

 義明は不快そうに、紗季を睨みつけた。紗季は動じることもなく、視線をまっすぐ受け止めた。僕を沖縄へ呼ぶべきかどうかで、諍いがあったのかも知れない。少し考えてから、どちらへともなく話しかけてみた。

「たまたま知っていただけです。たいしたことじゃない」

 義明はこちらを一瞥して、ちょっとバツが悪そうに、曖昧に頷いて見せた。それから彼は微笑もうとしたようだが、その笑みは機械的な感じで、しかも長く続かなかった。(やはり面倒な状況だな)と思った。僕は桃花と七年半を一緒に過ごしている。くわしいのは当たり前だ。僕と義明でどちらが優れているとか、そういう問題ですらない。けれど彼はそれを認めたくないのだろう。

「これからどうしますか?」

 肩越しに振り返り、紗季が云った。向かい風でぐしゃぐしゃになった前髪を、片手で抑えるようにしていた。

「どうって?」

 意味が解らずに問い返した。

「義明から直接くわしい話を聴いた。警察が危険だと云った場所にも来てみた。これからどうするかは魚住さんに決めてもらいたいんです。私達には何も考えつかないんですよ」

 そういう意味かと思った。確かに僕はそのために呼ばれたのだ。けれど突然に訊かれても、何も考えつかなかった。

「じゃあ、とりあえずホテルへ戻りませんか。ここにいても仕方がない」

 紗季は頷いたが、義明は明らかに不満そうだった。まるで自分自身に憤慨しているみたいな顔をしていた。二人へ背中を向けてから、僕は人差し指の関節を噛んだ。見知らぬ土地に来て、イニシアチブを取るのは、かなり大変なことに思われた。


 二階にあるレストランで、僕は昼食と夕食を一緒にとった。紗季も向かいで食事をしていたが、義明はテーブルに着かなかった。彼に腹を立てられたところで、僕にはどうすることもできないのだが。

 二人きりになってから、義明の態度について、紗季はしきりに謝ってみせた。実際に彼女は恐縮しているように見えた。最善策だと信じ、勢いで僕を呼びつけたものの、今になって気が咎めているのかもしれない。

「来てみて、どうです?」

 気怠そうにバターロールをちぎりながら、しばらく黙っていた紗季が訊いた。僕は外を見ていた。窓からは屋外プールが見下ろせた。プールの向こう側にはハイビスカスの垣根があった。どちらも夕闇に沈み始め、窓ガラスにはレストランの照明が浮かび上がってきていた。

「訊かれても困るな。沖縄に来る必要があったのか、それすら判らない。桃花が失踪したって実感もないんだ」

「実は、私も」

 穏やかだが、物憂い口調で紗季が云った。 「うまく実感が沸かないんです。何か意外なことが起こるといつでもそう。たとえば昔の同級生が、急に事故で死んだ時なんかにね。だから気持ちは解るつもりです」

(離婚した時もそうだった)と思った。別れを実感する前に、慣れてしまったのだ。彼女がもう、傍にいないということが、今でもよく解らない。

「何が原因だと思います? 桃花さんの失踪」

 パンを指先でちぎりながら、紗季が続けて訊いた。

「想像もつかないね」

 曖昧に笑った。 「今なら、どんな可能性だって考えられる。結婚が嫌になって逃げた。事故に遭った。謎の中年男性に連れていかれた……。そんな具合にね。失礼を承知でいうけれど、あなたや義明さんのことだって疑えるんだ。信用に足る人物かどうか、僕には判らないからね」

 紗季は驚いた顔をしたが、すぐに明るい声で笑い出した。 「もっともですよね。私も義明も、魚住さんにとっては容疑者になりうるんだ。だけど、なんていうのかな。魚住さんのそういうストレートなところ、私は好きだなぁ」

 その時、自動ドアが開いて義明が入ってきた。ドアへ背中を向けていた紗季に、目で合図してやった。義明は足早に、まるで怒っているみたいな歩きかただ。目の前まで来ると、肩で息をしながら、持っていた紙片を紗季の前に置いた。それから彼は、テーブルへ伸しかかるみたいにした。

「今まで気づかなかったけど、桃花が何か書いたらしいんだ。下のメモに筆跡が残っていた」

 紙片を見た。隅にホテルの名前が印刷されているメモ用紙だった。文字を読み取りやすくするために、薄く鉛筆を塗りつけてあった。紗季がメモ用紙を取り上げて、顔の近くへ持っていった。

「読めますね。これは電話番号かな? それから、べ・る・り・え・ひ・が・る・み」

 紗季がメモを差し出したので、受け取って文字を呼んだ。桃花のものらしい筆跡で、走り書きではあったが、読み取ることは可能だった。七桁の番号の下に、片仮名でベルリエヒガルミと書いてあった。

「解りますか?」

 紗季が身を乗り出して訊いた。

「読めるけれど、意味までは解らない。番号は636の……。電話番号だとしたら、市外局番がないよね。どこの番号だろう」

 メモを受け取ると、紗季は立ち上がった。

「読谷か、那覇か。とにかく片っ端から電話をすればいいんだ。やってみますよ」




        05


 電話番号がどこのものかはすぐ判った。三度目に那覇市へかけると、そこはベルリエという店だった。

「ベルリエが店名なら、ヒガルミは人の名前だと思います。ヒガっていう苗字は沖縄に多いんですよ。ベルリエでヒガルミと会う。そういう意味じゃないのかな」

 帰りの車のなかで、紗季はそう説明した。

 義明はホテルへ残ることになった。桃花から連絡があるかも知れないという理由だった。那覇市役所の手前で僕を下ろし、紗季はしきりに恐縮しながら会社へ戻った。今日中に仕上げなくてはならない仕事があるらしかった。


 地図を頼りに進むうちに裏通りへ突き当たった。両脇には低いビルが並んでいた。街灯はまばらだが、代わりに飲食店のネオンライトが続いている。路上駐車したタクシーのハザードが、周囲の闇を規則的にオレンジ色に染めていた。

 ほどなく見つかったベルリエは、喫茶室みたいな店構えだった。木製のドアを引くと、店内は民芸品店を思わせる装飾がなされていた。奥へ向かって長い店で、天井はかなり高い。壁は漆喰だが、それ以外は柱も梁も床も、黒く煤けた木材でできていた。仕事帰りらしい会社員の客が三人、テーブルにいるだけだった。細長い店内の奥に、カウンターテーブルが作られていた。微かに軋む板張りのフロアを進み、僕はそこへ座った。そのほうが店員と話しやすそうだったからだ。

 店員は二人で、両方とも女性だった。メニューを持ってきてくれた若い女性は小柄で愛らしく、無造作に伸ばした黒髪が綺麗だった。もう一人は四十代の後半くらいで、華奢な身体つきだった。日焼けしたらしい髪は赤っぽく、ウェーブがかかっていた。和紙に版画文字で描かれたメニューを開き、とりあえず注文することにした。メニューは飲み物がメインだが、左の隅にいくつかの料理も紹介されていた。まず泡盛を頼んだ。次に食べられるものを……と思ったが、知らない名前の料理ばかりだった。

「じゃあ、カラス豆腐」

 店員が待っていたので、イメージできた料理を頼んだ。名前からして、黒っぽい豆腐だろうと見当をつけた。

「お客さん、カラス豆腐って知ってます?」

 若いほうの店員が真面目な声で訊いた。顔を上げて彼女を見た。骨格のしっかりした身体つきだが、それが健康的な魅力になっている。丸形をやや角張らせたような輪郭で、はっきりした目鼻立ちが印象的だった。

「実をいうと、知らないんだ」

 答えると、彼女は歯を見せて笑った。

「カラス豆腐っていうのは、豆腐の上にカラスが乗っているんです。醤油代わりに、乗せて食べるんですよ。カラスは知ってますか?」

 鳥のカラスしか思い当たらなかった。一応想像してみたが、そんな料理があるとは思えなかった。

「カラスっていうのは、アイゴの稚魚を塩漬けにしたものです。慣れない人は生臭く感じるかも知れないけれど。いいですか?」

「いいよ。とりあえず」

 健康美の店員は厨房へ戻っていった。動作が軽快なので、見ていて気持ちよかった。店員と親しくなるきっかけは、なんとか掴めそう気がした。やがて彼女が泡盛を持って戻ってきた。僕は泡盛という酒をよく知らなかった。運ばれてきた泡盛には、ミネラルウォーターとロックアイスが添えられていた。

「お客さん、どこから来たの?」

 女店員が正面に腰を下ろした。こちらからは死角になっているが、カウンターの内側に椅子が置いてあるらしい。

「神奈川県」

 答えながら、泡盛を無骨なガラスのコップに注いだ。泡盛は無色透明の酒で、ちょっと匂いがきつかった。 「だけどさ、一目でよそ者と判るものかな。初めから判ってたみたいじゃない?」

「何となくねぇ。それにこっちの人は、そんな厚手のブルゾンなんか着ないのよ」

 明るい口調で答えた。こうして向き合うと僕よりも少し年上だろうという気がした。小柄で童顔だから、若く見えるのだ。泡盛を飲みながら考えた。ヒガルミのことをどう切り出せばいいだろうか?

「ヒガちゃん」

 不意に声がした。僕は慌てて顔を上げた。厨房にいた女性がこちらを見ていた。

「カラス豆腐できました」

 目の前の店員が立ち上がった。皿を受け取り、それをカウンターテーブルへ乗せた。

「あなたは、ヒガちゃんって名前なの?」

 緊張しながら訊いてみた。

「そう。苗字なのよ。ヒガって」

 彼女はカウンターテーブルに、指で[比嘉]と書いてみせた。

「下の名前は?」

 唐突で訝られるかと思ったが、彼女はあっさり答えてくれた。

「ルミよ。カタカナのルミ」

 唖然としてしまった。比嘉ルミが店員だとは思わなかった。それなら桃花は、彼女を訪ねてきたのだろうか?

「お客さん、いつまで沖縄にいるの?」

 黙っていると比嘉ルミが訊いた。できるだけ自然な表情を作って、彼女を見た。

「そうだね。まぁ、長くても四・五日かな。決めていないんだ。実をいうとまだ泊まるところも決めてないような状態でさ。でもホテルもたくさんあるみたいだし、大丈夫そうだよね」

「どうかなぁ」

 比嘉ルミが首を傾げた。 「シングルルームはもともと数が少ないし、今は受験シーズンで学生が多いのよ。知り合いのホテルに訊いてあげようか?」

 こちらが答えないうちにルミは立ち上がり、カウンターの隅にある公衆電話へ行った。僕は泡盛を飲み始めた。少なくとも比嘉ルミは怪しい人物ではないように見えた。

「お客さん。ちょうど空いているって。一泊五千円。いいよね?」

 片手で受話器を押さえたまま、ルミが溌剌とした声を上げた。頷いてみせると、ルミは二言三言話して、受話器を置いた。

「私が前に働いていたホテルだから大丈夫だよ。何かあったら私に云って」

 彼女はそれから色々な料理をすすめた。丁寧に説明してくれるので、食欲はなかったが、二・三の品を追加注文してみた。

「お客さん。撮影で来たの?」

 三十分くらい経った後、ルミが訊いた。

「撮影?」

 訊き返すと、隣の椅子に置いたカメラバッグを、彼女は顎で示した。カメラメーカーのロゴが、かなり大きくプリントされているバッグだ。

「ああ、撮影じゃないんだ。カメラはいつも持ち歩いているから、何となく持ってきただけでね。実は人を捜しているんだよ」

 ルミは少し身体を乗り出してみせた。

「誰を捜してるの? あなた、探偵さん?」

「まさか」

 僕は笑った。泡盛は強い酒で、酔いが確実に回ってきていた。僕は煙草へ火をつけて、一口目をゆっくりと喫った。 「別れた妻を捜しているんだ。変な話だけれど。理由を話すと長いんだけどね」

「そうなの……。で、奥さんは見つかりそう?」

「どうかなぁ。手がかりはこれだけなんだ」

 ブルゾンのポケットから四つ折りにしたメモ用紙を取り出した。ホテルに残っていたベルリエヒガルミのメモだ。彼女は熱心な目つきで、僕の動作を見守っていた。

「え!?」

 メモへ目を向けたかと思うと、ルミは鋭く声を上げた。曖昧な微笑みのようなものが、彼女の強ばった口元へ、一瞬だけ浮かんで消えた。僕は顔色を観察したが、演技をしている様子はなかった。本当に驚いているみたいだった。

「彼女のホテルに残っていたメモなんだ。それで、ここへ来れば何か解るかも知れないと思ったんだ」

 今までのことを、くわしく説明した。去年桃花と別れたこと。再婚した桃花が突然いなくなり、沖縄に呼び出されたこと。

「あなた、変わってるわ」

 話し終えると、ルミは信じられないという顔をした。 「再婚した奥さんの捜索を手伝っている人なんて、初めて会ったわ」

「そうだろうね」

 苦笑しながら答えた。 「僕も聞いたことがない。同じ境遇の人がいるなら、会ってみたいくらいだよ」

 三人だけいた客が帰り支度を始めていた。壁にかかっている古風な時計は、十時になったところだった。時計を見たのに気づいたのか、ルミが立ち上がって云った。

「ちょっと待っていて、ここは十時で終わりなの。ホテルまで案内するから一緒に帰りましょう」




        06


 三月上旬とは思えない暖かな夜だった。僕達は並んで住宅街を進んでいった。沖縄の人は厚手のブルゾンを着ないという、ルミの言葉は本当だった。すれ違う人を注意して見ていると、ほとんどはカーディガンをはおったりしているだけだった。

「桃花さんは私を訪ねては来なかったわ」

 肩を並べて歩きながら、ルミが云った。 「店に来たかどうかは解らない。そうね、写真を見せてくれる?」

 そこで初めて、写真を持っていないことに気づいた。人捜しをするのだから、写真くらいなくてはどうにもならない。

「間抜けな話だけど、忘れちゃったんだ。明日借りてくるよ」

 街灯がないせいで通りは暗かった。けれどむしろ、それが穏やかさを強調していた。民家の庭にもヤシの樹が植えられている。二階建ての屋根より高いヤシが、夜空を背景に何本も黒くそびえていた。

「実は、お願いがあるんだけど」

 ルミが躊躇いがちに口を開いた。 「ホテルをやめにして、私の家に泊まらない? 小さな一軒家を借りているの。二部屋あるから気兼ねはないわ。駄目かしら? 宿泊費もいらないし、好きなだけいていいんだけど」

 強い風が吹いて、ルミの髪があおられた。乱れた髪は表情を覆い隠した。僕はちょっと驚いた。どういうつもりなのか解らなかった。

「解らないな。ひょっとしてそれは、誘惑してくれているの?」

 冗談めかして云ったが、ルミは笑わなかった。俯くようにして、指先で髪を整えた。

「そういう風に取ってもらってもいい。怖いのよ。一人で家にいたくないの」

 ふざけている口調ではなかった。僕もぐっと真面目になり、彼女へ向き直った。

「何が怖いの?」

 ルミは答えなかった。僕達は裏道から折れて、広い通りを歩き始めた。オレンジ色の街灯がまばらに立っている以外は、ネオンが遠くに一つ二つ見えるだけで薄暗かった。ホウオウボクの街路樹が、微かな風に枝葉を揺らしていた。ゆっくり歩を運びながら、僕は何気なくあたりを見回した。少し先に公園があるのに気がついた。子供向けの遊び場というよりは、洒落た休憩所のような場所だった。

「ちゃんと話をしよう。座ってさ」

 ルミは返事をしなかった。僕は彼女を促すと、先に立って進んだ。公園は石畳みで、三方を石灰岩の石垣で囲まれていた。人影は見えなかったが、どこからか水の流れる音が聞こえていた。

「あのね」

 石のベンチはひんやりしていた。隣へ腰を下ろしてから、ルミが低い声で話し出した。 「毎日みたいに無言電話が来るの。それだけならまだいいんだけど、鶏の死骸が玄関に置いてあったり、[かならず殺す]ってドアに書いてあったりするのよ」

「それは悪質だな。いつごろから?」

「頻繁になったのは一ヶ月くらい前から。だけど二・三ヶ月前から、無言電話は来ていたわ」

 そんなに前からなら、少なくとも桃花がやっているのではないなと思った。

「思い当たることはあるの?」

「全然解らない。はっきりしてるのは、あなたが犯人じゃないってことくらいね」

 無理に作り出したような微笑が、口元に浮かんだ。僕はしばらく、考えを巡らせてみた。

「親しい友達とかに来てもらったほうがいいんじゃないかな」

 答えると、ルミの顔に落胆が広がった。

「何度か来てもらったのよ。けれど友達がいる時に限って何もないの。考え過ぎなのかも知れないけど、解らなくなっちゃったの。見張られているんだろうか?とか、友達のなかに犯人がいるんじゃないか?とか。とにかく、もう怖くて仕方ないの。しばらく沖縄を離れて暮らそうかと、最近は真剣に考えているくらい」

 話が本当なら、彼女の恐怖心は理解できる。ホテルよりも気を遣う状況になるだろうが、ルミの家に泊めてもらうこと自体はかまわない。しかし、どんな問題が隠されているのか解らなかった。

「あのさ、明日からじゃ駄目かな。僕も僕なりに非常事態なんだ。桃花の失踪とも関係あるかも知れないし、みんなと相談してから決めたいんだ」

 ルミの表情がぱっと明るくなった。

「本当? そうしてもらえると助かるわ」

 とても嬉しそうに微笑んだ。その笑顔を見ていると、少なくとも彼女は、信用してかまわないように感じられた。


 ホテルとルミの家は、同じ方向なのだと僕は思っていた。しかしルミは近くまで来ると、「後はまっすぐ」と云って、自分のためにタクシーを拾った。彼女を見送ってから、一人で裏通りを進んでいった。あたりは怖いほどに静かだった。僕のスニーカーの靴音や、自動販売機の唸るような音でさえ、聞き取れるくらいだ。

 ホテルまではすぐだった。外壁はコンクリートで、ローズグレーのペンキが塗られていた。五階建てだったが、敷地面積が狭いせいなのか、とても細長く見える。自動ドアをくぐると、小さなフロントカウンターがあった。毛足の短い、色褪せたカーペットが敷かれていた。天井の空調機が壊れかけのような音を立てており、透明プラスチックで作られた照明飾りは埃で汚れていた。

 フロントカウンターには痩せた長身の男性がいた。真面目だが気の弱そうな印象で、年齢は僕よりも十歳は上だろう。彼は抑揚のない声で「いらっしゃいませ」と云った。プレスのきいたビジネススーツを着ているが、どうにも頼りない感じがした。くたびれたコリー犬のような男だと思った。

「支配人の小野寺さんはいらっしゃいますか? 比嘉ルミさんから紹介された者なんですが」

 ルミから教えられたとおりに告げた。

「ああ、先ほど電話で伺いました。私が小野寺です」

 彼はまったく表情を変えず、のろのろとした口調で答えた。口元にはずっと、薄いビジネススマイルを浮かべていた。こちらへ背中を向け、背後の棚からキーを取り出した。

「何泊のご予定ですか?」

「とりあえず一泊だけ」

 出されたカードに住所と名前を書いた。彼はビジネススマイルを浮かべたまま、身じろぎせずにそれを見ていた。それ以外の表情を持ち合わせていないかのようだ。小野寺はまた、抑揚のない口調で「ごゆっくり」と云い、静かに頭を下げた。僕はエレベーターを待ちながら、(ルミよりも小野寺隆司のほうがよほど怪し気だ)と思った。気弱く穏やかな表情をしているが、独特の陰湿な雰囲気が妙に引っかかった。

 505号室は狭かった。ドアのすぐ右にバスルームの張り出しがあり、その向こう側にベッドが置かれていた。カーペットが見えているのは、ようやく人が歩けるスペースだけだった。

 突き当たりにガラスサッシの窓があったので、ロックをはずしてみた。急に風が吹き込み、カーテンが舞い上がった。五階なら見晴らしはいいはずだが、見えるのはネオンライトくらいだ。窓を閉めてから、一脚だけある椅子に座り、クライマックスの番号を押した。出たのは羽生紗季本人だった。まだ仕事をしていたらしかった。

『ベルリエはどうでした?』

 彼女はすぐに訊いてきた。

「一言で話すのは難しいな。比嘉ルミさんはベルリエの店員だった。事情は話したけれど、桃花のことは知らないってさ。くわしくは明日説明するよ。比嘉さんも交えてね」

 テーブルに置いてあるパンフレットに、ホテルの住所と電話番号が書かれていた。それを告げると『じゃあ明日、そちらへ行きます』と紗季が云った。忙しいらしく、通話は続かなかった。

「とにかく明日だな」

 独り言を云ってから、バスルームのドアを開け、壁を探ってライトをつけた。三畳ほどのスペースに、洋式トイレと洗面台とバスタブが隙間なく配されていた。僕はバスタブの傍まで行き、二つの蛇口で温度を調節してから、お湯を流し込んだ。

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