第5話 そして事実が造られた


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 桃花の伯母である有村櫻子は、すさまじい選民意識の持ち主だった。少なくとも僕は、彼女に対して、どのような種類の親近感も抱くことができなかった。

 櫻子の父親、つまり桃花の祖父にあたる人物は、医師であったらしい。皇族の誰かが九州旅行中に体調を崩した時、診察にあたったというから、それなりに社会的地位の高い人物だったのだろう。同時に、資産家であったことも間違いなさそうだ。彼が五十代で他界した後、遺産の大半を受け継いだ櫻子は、結婚もせず、働くこともなく、不自由のない暮らしを続けているのだから。最近は資産も残り少なくなったようだが、特別な贅沢さえしなければ、余生を過ごすことは充分に可能であるらしい。

 桃花との結婚の承諾を得るため、僕が初めて訪ねた時、櫻子の態度は好意的ではなかった。彼女は有村家が特別に優れた家系であることを遠回しに、けれど執拗に口にした。そして結婚に際して、桃花を働かせないという奇妙な条件を提示した。櫻子によれば「有村家の女は、惨めな暮らしをするようには育てられていない」らしかった。努力すれば不可能なことではないと思ったので、僕はそれを承諾した。今にして思うと、共稼ぎが惨めな生活だという意見にまで同意を求められずに済んだのは、幸運だったのかも知れない。

 加えて櫻子は、「プロレタリアは浅ましい」とか「家柄の悪い人間は救いようがない」とかいうことを、平気で口にしていた。大抵それは機嫌の悪い時だった。そのたびに桃花は、すかさず櫻子を褒めそやした。「伯母さんから見ればそうかも知れないけれど、世間ではあれが十人並みですよ」などと云ってみせた。すると櫻子は「そう?」と答えて、機嫌を直すのだった。このようなやりとりは、僕の目にはかなり奇妙に映った。


 寒い季節に熊本を訪ねたのは初めてだが、街の印象は大きく変わらなかった。広々とした通り、整然と並んだ街路樹、そして街中を流れる川が、観る者に清々しさを感じさせた。熊本は近代的なビルディングと、美しい自然とが、絶妙のバランスで配置されている街だった。

 僕に続いてバスを降りた紗季が、小さく伸びをした。彼女は今朝になって、一緒に行くと云い出したのだ。櫻子を訪ねたことは、これまでに二度しかなかった。その二度とも桃花が一緒で、道案内も彼女が務めていた。桃花抜きで熊本を訪れる可能性を、僕はまったく考えたことがなかった。それで道順を覚える努力もしなかった。記憶が曖昧なだけに、迷うことが予想されたし、櫻子が留守という可能性だってあった。事前に連絡を入れようにも、川崎のアパートへ戻らなければ、住所も電話番号も分からない。『留守だったとしてもかまわない』と紗季がいうので、同行してもらうことにしたのだ。

「これから先はどうするんですか?」

 紗季はシンプルな空色のセーターに、白いハーフコートを重ねていた。関東よりは南に位置する熊本だが、沖縄と比べるとかなり風が冷たかった。薄曇りの空から漏れてくる陽射しのなかで、紗季は首をすくめるみたいにしていた。

「家がある場所は、イズミという町名だった。出ずる水って書くんだ。関東では普通『泉』って一文字で書く。だから珍しいなと思って、覚えていたんだ。タクシーの運転手に頼めば、とりあえず出水町までは連れていって貰えると思う。そこから後は記憶を頼りに捜すしかないね。でも、先に食事をしておこうよ」

 二人でファストフード店に入った。一階でオーダーを済ませ、トレーを持って狭い階段を上った。紗季はすでに窓際の席へ着いていた。まだ昼前であるせいか、他には主婦であるらしい女性客がいるだけだった。陽射しの入る窓際には、小さな鉢植えがたくさん並べられていた。

 トレーをテーブルへ乗せてから、紗季の正面へ腰かけた。紗季はミルクを入れたコーヒーを、プラスチックのマドラーで掻き混ぜていたが、やがて抑揚のない口調で、「今、考えていたんですけど」と切り出した。

「魚住さんは、櫻子伯母さんに苦手意識を持っていますよね。そんなに扱いにくい人なんですか?」

 視線をコーヒーに向けたまま、紗季が続けた。熊本へ到着するまでのあいだ、僕達は桃花の過去について話し合った。取り立てて櫻子を貶すようなことを僕は云わなかったが、口振りから感じ取ったのだろう。

「そうだね。でも僕は、色々な人に苦手意識を持っているから、櫻子伯母さんが特に扱いにくいかどうかは判らないな。それに、少なくとも桃花は絶賛しているよ。櫻子伯母さんは、本当に素晴らしい人だと信じ込んでいる」

「素晴らしいって、どんな風に?」

 すぐに紗季は訊き返した。

「伯母さんに引き取られてすぐ、つまり、桃花が小学生の低学年のころ、伯母さんには絶対にかなわないと悟ったんだそうだ。これからの人生、どんなに必死で努力しても、彼女の足元にも及ばないだろうって。もう、そのあたりからして、僕には不快な話だけれどね」

「なぜ?」

 紗季はテーブルに左肘をつき、掌で顎を支えていた。

「だって、小学校の低学年だよ。僕の小学校のクラスメイトで、プロ野球の選手になるって本気で宣言してた奴がいた。実際のところ彼の実力では、高校の野球部でさえレギュラーになれなかったけどさ。でも小学生なんて、普通そんなもんじゃないか? 自分の限界なんて見えちゃいない。それに普通の七・八歳の子供は、自分と養育者とを比較して、『絶対かなわない』なんて考えたりしないはずだ。養育者が子供に対して、そう思い込むよう仕向けない限りはね」

 右手にコーヒーの紙コップを持ったまま、紗季は何かを考え始めたようだった。僕は視線を逸らして、ベーコンエッグサンドを食べ始めた。

「要するにそれは、櫻子伯母さんが、桃花さんに思い込ませたってこと? どんなに努力しても、私には絶対かなわないって」

 僕は頷いてみせた。

「少なくとも僕はそうだと思ってる。桃花は他にも色々と云っていた。伯母さんは頭がいいとか、心が広いとか、品がいいとか、人望があるとか……。話だけ聞いていると、もう神様みたいな人なんだ。それで伯母さんと桃花はものすごく仲がよくって、喧嘩なんか一度もしてないそうだ」

 自分で話しているうちに、だんだん不快になってきた。僕はそこで言葉を止めて、ベーコンエッグサンドを頬張った。櫻子に対する不満を云い出したら切りがない。紗季もそれ以上は何も訊いてこなかった。

 黙々と食事を続けるうちに、ふと小野寺のことが頭に浮かんできた。彼も今、九州にいることに改めて気づいたのだ。今朝、ビジネスホテルを出る時、コオロギがフロントにいた。小野寺へ伝言を告げてくれたかを訊いてみた。「連絡がないんです。困っているんですよ」とコオロギは答えた。口先だけではなく、本当に途方に暮れているように見えた。僕は、小野寺の思惑を想像してみた。このタイミングで姿を消すのは、『私が怪しいですよ』とアピールしているようなものだ。まず考えられるのは、彼が事件に深く関わっていて、露見する前に逃げたケースだろう。しかし逆に、事件とまったく関係がないため、疑われるなんて夢にも思わず、呑気に出かけたケースも考えられる。

 ふと視線を感じて、僕は顔を上げた。こちらを見ていた紗季と目が合った。

「確かに、櫻子伯母さんには、問題がありそうですね」

 紗季が云った。食事中、ずっと櫻子のことを考えていたらしかった。ペーパーナプキンで口元を拭ってから、彼女は言葉を続けた。 「私は中学生のころなんて、毎週のように母と喧嘩してました。けれど、別に母を嫌っているわけじゃないんです。それに、私を育てていたころの彼女の年齢に近づくと、解ることもあるじゃないですか? 改めて尊敬できる部分が見つかるっていうか。そうはいっても、長く一緒にいると、今でも喧嘩になりますけど」

「桃花の友達で、以前それと似たようなことを話してた人がいた」

 ふと思い出して、僕は云った。 「その友達は、前日とかに母親と喧嘩をしたらしくて『うちの母は欝陶しい』みたいなことを愚痴ったんだ。そしたら桃花はすごく嬉しそうに、自分と伯母さんの関係が、夢のように理想的だってことを延々と喋っていた。そして友達が帰ってから『不幸な人ね!』って云ってたんだ」

 紗季が怪訝な顔をしていたので、そこで口をつぐんだ。なんだか僕は、さっきから文句ばかり云っている。時計を見ると、もう正午を過ぎていた。そろそろ出ようかと思い、紗季のほうへ視線を向けた。すると彼女は曖昧な笑顔を浮かべ、躊躇いがちに口を開いた。

「こういうことを訊くのは、すごく失礼かも知れないんですけど、ずっと解らないことがあるんです。義明と桃花さんの組み合わせなら理解できるんです。だけど魚住さんは、どうして桃花さんと結婚したんですか?

 ここ数日、見ていて感じたことですが、魚住さんにとって大切なのは主体的な真実だけですよね。そういうのって実存主義っていうんでしたっけ? 世間の人達がどれほど重要だと感じていても、自分に興味がなければ魚住さんは価値を見出さない。逆に周りから笑われようが、自分が正しいと判断した事柄は尊重する。そんな人が、桃花さんを選んだ理由がどうしても解らないんです」     

 



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 初老のタクシー運転手によれば、出水は一丁目から八丁目まであって、範囲がかなり広いらしかった。「近くに庭園があった?」とか、「図書館はあった?」とか、運転手は色々なことを訊いた。そして「このあたりだと思うよ」と云って、路面電車の走っている通りで僕達を降ろした。彼の判断は的確だった。僕は二十分ほどで見覚えのある場所を見つけ、ほどなく櫻子の家に辿り着くことができた。

 家は住宅街の奥まったところにあり、広大な敷地は高い石塀で囲まれていた。敷地の大半は樹木に覆われ、雑木林のような状態だった。古びた鉄製の門扉をくぐると、湿った土の匂いがした。高い石塀と、陽射しを遮ってしまう枝葉のせいで、一度でも雨が降ると地面がなかなか乾かないのだ。

 敷地の広さからすると、木造の家屋は小さくて貧弱だった。板張りの外壁は、何十年分もの雨水を吸い込み、すっかり黒ずんでいた。ドアや窓枠は西洋風だが、屋内に畳や襖のある建物だった。このような和洋折衷は、建てられた当時はモダンだったのだろうが、傷みが目立つ今では見窄らしくさえ感じられた。

 呼び鈴を押してみたが反応がなかった。僕は紗季を促して、中庭へ回ってみることにした。両脇から覆い被さってくる枝葉を腕で押さえながら、湿った地面で足を滑らせないようにして進んだ。五十坪ほどの中庭は、家屋側に芝生が植えられ、突き当たりには古池が造られていた。樹木に陽射しを遮られ、まったく陽が当たらない池には、茶色くなった落葉が浮かび、油のように黒々とした水が溜まっていた。

「誰!?」

 ガラス戸を引き開ける音とほぼ同時に、鋭い声が聞こえた。中庭へ面する応接間に、黒いニットのワンピースを着た有村櫻子が立っていた。ワンピースは妊婦服のようにルーズなもので、そのうえに鮮やかなワインレッドのショールを重ねている。彼女は右手をガラス戸にかけたまま、肉づきのいい身体を誇示するかのように立っていた。

「すみません。呼び鈴を鳴らしたんですが、返事がなかったので」

 弁明しながら、芝生のうえへ歩み出た。憮然とした表情で、櫻子は僕をじろじろ見回した。その後で彼女は、紗季を一瞥した。紗季は頭を下げてみせたが、櫻子は表情をまったく変えなかった。しばらくの後、寒くて堪らないというようにショールを襟元で合わせ、勢いよくガラス戸を閉めた。

 もう一度玄関へ回って呼び鈴を押すと、櫻子は怒っているみたいに乱暴な仕草で僕達を招き入れた。通された板張りの応接間はひんやりとしており、古い小学校の音楽室を思わせる雰囲気があった。壁かけ時計の秒針が、必要以上に大きな音を響かせている。中央には大理石を台座にしたテーブルがあり、その周囲に肘かけつきの椅子が四つ置いてあった。椅子の座面に赤い革が張られていたが、しなやかさはすでに失われ、干乾びた地面のようなひび割れが走っていた。

 僕達は壁ぎわに並んだ椅子に、それぞれ腰をおろした。紗季は興味深そうに部屋を見回していた。百科事典が詰めこまれたガラス扉つきの本棚、ずっと使われていないらしいピアノ、どこかの海岸を描いた油絵、古びた筒型の石油ストーブなどが並んでいた。褪せて本来の色が判らなくなった薄紅のカーテンが、中庭へ面するガラス戸の脇にだらしなく下がっていた。

 櫻子が入ってくると、微かに板張りの床がきしんだ。銀のトレーへ乗っていたティーカップを、彼女は大理石のテーブルへ並べた。そして向かいの椅子へ座る時、大袈裟に「痛たた……」と膝を押さえた。彼女は顔をしかめたまま、僕と紗季へ交互に視線を投げかけた。僕は改めて、櫻子の顔を見た。まだ七十には届かないはずだが、実年齢より十歳は老けて見えた。三年ほど前に会った時より、一層老け込んだみたいだった。短く刈られた白髪は、後ろへ撫でつけられ、蛍光灯のしたで銀色に光っていた。赤茶色のべっこう縁の眼鏡は、小振りな顔に対して大きすぎた。弛みきった血色の悪い肌や、小さく萎んだ赤紫色の唇と対照的に、眼鏡の奥の眼差しだけが鋭かった。

「最近は、膝が痛くて。それに風邪ばひいてしもうて。ここ半年くらい、桃花もろくに連絡してこんし、どぎゃんなっとっとだろか?」

 そう云った後で櫻子は咳き込み、ポケットからティシューペーパーを取り出すと、そこへ痰を吐いた。それからおもむろに、「あなたはいくつになったと?」と訊いた。

「三十です」

 答えると、唇を歪めた笑いで、彼女は軽蔑を示してみせた。

「他人の家ば訪ねる時には、最初に電話なり手紙なりで、先方の都合ば聞いておくもんです。桃花にはそのあたりをよく云い聞かせたつもりばってん、あなたのこういった振る舞いを見ても、あの娘は何も云わんとだろうか?」

 そこまで云って、櫻子はまた軽く咳き込んだ。僕は妙な気がした。ふと、数日前の紗季の言葉が蘇ってきた。『桃花さんに伯母さんがいるんですか? そんな話、聞いていませんよ』 確かに、その通りなのかも知れない。櫻子は離婚のことも再婚のことも、まったく知らされていないみたいだった。

「突然伺ったことについては、本当に申しわけないと思っています」

 櫻子へ向かって云った。 「弁解になってしまうんですが、大変な状況なんです。堂島恭一郎という人が訪ねてきたんです。それで桃花さんは、なんと云うか、ひどく情緒不安定になっているんです。僕は今まで、堂島さんという人の存在を知らされていませんでした。彼がどんな人なのかも、まったく知らないんです」

 櫻子は途中で驚いたように目を見開き、何か云いたそうに唇を動かしたが、それでも話し終わるまで待っていた。しかし話し終えると、今度は何も云おうとしなかった。色々なことへ考えを巡らしているみたいだった。

「堂島は、何のために、会いに来たとですか?」

 しばらくの後、硬く冷たい声で櫻子が訊いた。まったくの無表情だった。

「それも解りません。桃花さんはただ、『自分が悪かった』としか云わないからです」

 櫻子はまた黙り込んだ。肘かけ椅子の手摺りの部分を、右手の人差し指で小刻みに叩いている以外は、凍りついてしまったかのようだ。僕は何も云わずに待った。やがて、強ばった眼差しのままで、櫻子は呟くように答えた。

「堂島は桃花の父親たい。そして桃花の母ば、殺した男たい」

 櫻子は表情を歪めた。それから自分の膝へ視線を落とし、もう一度顔を上げてから、諦観したかのように一気に話し出した。 「あの男は有村の財産ば掠め取ろうという腹で、妹の杏子と結婚したとです。私にはそれが解っとったけん、財産は一切渡さんと云ってやったとです。そぎゃんしたら堂島は、杏子ば働かせて、自分はその金で暮らし始めたとです。そうして財産ば掠め取る機会を狙っとったです。

 杏子は堂島に騙されとりました。世間知らずだったとです。父は杏子ば溺愛しとりました。妹は人の気持ちを惹きつけるような、不思議な素直さがあったんで、色々な人から可愛がられて育ったとです。だから他人を見る目に甘いところがあったとでしょう。そばってん杏子は、頭の悪い娘ではなかです。最後には堂島の正体ば見抜いて、この家へ桃花ば連れて逃げてきたとです。もちろん堂島には面白くなかです。遊ぶ金にも困ったでしょう。だけんあの夜、杏子ば連れ戻そうとして、やってきたとだと思います。そして杏子が応じないと解ると、腹いせに殺したとです。そこの中庭で、杏子は胸ば撃たれて死にました。こやん話は有村の恥です。だけんあなたにも今日まで話さんでした。だけんあなたは、この件で、私ば責めるべきではなかとです」

 そこまで一気に話すと、櫻子は深く息をついて、ガラス戸越しに中庭を眺めた。僕もつられて中庭へ目をやったが、そこで人が死んだという実感はわいてこなかった。やがて櫻子は正面へ視線を戻し、椅子の背もたれへ身体を押しつけた。その顔には一層険しい皺が刻まれていた。

「僕はただ、事情を知りたいだけなんです。いま、堂島が殺したとおっしゃいましたよね。ですが、犯人が堂島さんだということは、どうして解ったんですか?」

 櫻子は疲れたようにこちらを見てから、静かな声で答えた。

「杏子が殺された時、私は入浴しとりました。でも桃花が見とったとです」

(桃花が見ていた)

 僕は胸のなかで、その台詞を繰り返した。『嘘をついたせいで、お父さんが捕まった』という言葉は、このことを指しているのかも知れなかった。

「それだけ……、なんですか?」

 訊くと、櫻子は「それだけ?」と意外そうに言葉を返した。そして、やや顎を突き出すような姿勢で、僕のほうへ向き直った。

「たとえ桃花が見たと云わんでも、私には犯人が解っとりました。実際、桃花が見たと云い出したとは、かなり後になってからです。でも私にはちゃんと解っとりました。最初に堂島と会った時から予感があったとです。私が悪か印象ば持った人間は、必ず面倒な問題ば起こすとです」

 櫻子の返事は、僕の望む答えになっていなかった。どんな風に切り出せば、答えが得られるのだろうと考えているうちに、紗季が口を開いた。

「でも、そうじゃないんです」と、やや強ばった声で紗季は云った。 「桃花さんは今になって、『何も見ていない』と云っているんです」

 櫻子の目が大きく見開かれた。彼女は紗季に一瞥をくれてから、僕へ視線を移し、「そら、どぎゃんことですか?」と不自然なくらい落ち着いた声で訊いた。

「桃花さんは、自分が嘘をついたせいで、父親が逮捕されたと云っているんです」

 櫻子はすぐ何かを返そうとしたが、また咳き込んでティシューペーパーに痰を吐いた。いくらか手が震えているように見えたが、大きく息を吸い込むと、毅然とした口調で話し出した。

「そぎゃんことがあるわけはなかたい。仮に桃花がそぎゃん云うたとしても、堂島が云わせとるだけです。あの男は以前、杏子の気を惹くために、狂言自殺ばしでかしたこともあるとです。桃花に嘘を云わせるくらい、容易かことでしょう」

「状況から考えると、丸め込まれているとか、そんな感じじゃないんです」

 紗季が言葉を返した。櫻子は返事をしなかった。忌ま忌ましそうに紗季を見て、その表情のまま、ゆっくり僕へと視線を移した。そして「あなたは、どう思っとっとですか?」と訊いた。

「申しわけありませんが、紗季さんと同じ意見です。そして、桃花さんの母親が殺された時の状況をくわしく知りたいと思っています。仮に犯人が堂島さんじゃないのなら、他に容疑者はいなかったのか?とか、そういったことを知りたいんです」

 櫻子はまた動かなくなった。僕はしばらくのあいだ、壁かけ時計の秒針の音を、聞くともなしに聞いていた。一度、紗季が口を開こうとしたので、片手でそれを制した。やがて、またゆっくりと櫻子が話し出した。

「あなた達の云うように、仮に桃花が何も見とらんだったとしましょう。私は決して信じとらんですけれどもね。でも、それだけでは堂島が殺しとらんことにはなりません。決め手が一つなくなっただけです」

 確かにその通りだった。紗季も「そうですね」と同意したが、櫻子は何の反応も示さずに言葉を続けた。 「堂島は、桃花に見られたことば気づいとりませんでした。そばってん、見られたことを知って、観念したとでしょう。自分がやったと白状したとです。だけん、あの男が殺したことだけは絶対に間違いなかとです。疑われた人間は他にもおりました。杏子が勤めていた会社で、アルバイトばしていた大学生です。杏子は就職の相談などに乗ってやっていたようです。その学生が殺したと、堂島は云い出したとです。もっともそんな馬鹿気たことを云っているのは堂島だけですし、警察が調べると、学生が犯人でなかことはすぐ解りました」

 櫻子はそこまで話すと、テーブルからティーカップを取り上げ、少しだけ飲んだ。それからまた、ひどく疲れたように背もたれに身体を預けた。しばらく考えてから、僕は櫻子へ問いかけた。

「その大学生だった人が、どこにいるのかは解りませんか」

「あの学生がどぎゃんなったのかは解らんです。二十年以上も前のことだけん。小野崎という名前で、色が白くて、背が高かったように思います。でも、はっきりは覚えとらんです」

 隣で手帳に何か書き留めていた紗季がふっと顔を上げ、口を開いた。

「その人の名前は、小野崎ですか? 小野寺じゃありませんか」

 僕も同じことに気づいたところだった。小野寺の正確な年齢は知らないが、おそらく四十代の半ばくらいだろう。彼が二十年ちょっと前に大学生だったとしても、不自然ではなかった。櫻子の表情は硬いままだった。椅子の肘かけを、人差し指で叩くようにしていたが、しばらくの間をおいて話し出した。

「小野寺、だったかも知れません。そばってん、あの学生は関係がなかとです。警察が保証しとります。殺したとは堂島です」

「名前が小野寺だったかどうか、思い出してください。大切なことなんです」

 紗季がやや声のトーンを上げた。表情が緊張で強ばっていた。短い沈黙の後で、櫻子の眼差しにゆっくりと敵意が浮かんできた。どうやら紗季の言動が、彼女を悪く刺激したらしかった。

「はっきり云っときます」

 櫻子は肘かけを叩いていた右手を上げ、その手を宙で泳がせるようにした。 「私に命令することは許さんです。ここは私の家です。それから私に、無礼な態度を取ることも許さんです。あなたは私を知らんけん、そぎゃん態度ば取るとです」

 紗季が唇の端を噛んだ。櫻子を宥めるために、僕は何かを云おうとしたが、言葉が浮かんでこなかった。瞬間、携帯電話のベルが鳴り出した。バッグから電話を取り出し、無表情で立ち上がると、紗季はそのままドアを開けて応接間から出た。僕と櫻子は呆気に取られたようにドアを見ていたが、やがてそれぞれに息をついた。

「あれは、あなたの友達ですか?」

 しばらくの後、櫻子が不自然に優しい声で訊いた。怒りの行き場を失くしたせいか、決まり悪そうな表情をしていた。 「友達はもっと選ぶようにせんと。あんな女と付き合っとると、あなたの良識まで疑われることになるばい」

「紗季さんは悪い人じゃありませんよ」

 僕はできるだけ穏やかに、櫻子の言葉に答えた。 「もちろん価値観が違いますから、僕がいい人だと思っても、伯母さんはそう思わないかも知れませんが」

 櫻子は軽く頭を振るような仕草をした。そしてまた紗季の出ていったドアのほうをぼんやりと見てから、のろのろと自分の手元へ視線を戻した。

「近頃の人達はいっそ、あぎゃん電話ば持ち歩いとって、くだらんことば延々と話しとりますね。傍で見とって、あまり見栄えのよかものじゃなかですけんね」

 今度は自分に云い聞かせるように呟いた。何でもいいから紗季を中傷しないと、気が済まなくなっていることは、もちろん僕にも解っていた。

「そういう人も大勢いるでしょうけど、本当に携帯電話が必要な人もいますよ」

 意外そうに櫻子はこちらを見た。少し身体を前に乗り出したが、思い直したように、再び椅子へ背中を押しつけた。

「なんしてあなたは、いちいち私の云うことに逆らうとだろか」

 怒りを露にこそしなかったが、櫻子は恨みがましい云いかたをした。

「逆らっているわけじゃありません。ただ自分の意見を述べているだけです。どこにでもある、ごく普通の会話じゃないですか」

 僕は努めて明るい口調で答えた。その言葉が聞こえていないように、櫻子は天井のほうへ視線を移し、ゆっくりと瞼を閉じた。

「桃花はいっちょん、私に逆らったりせんだったわ」

 低い声で呟いた。まだ瞼は閉じたままだったが、このまま終わらせるのでは、気が収まらないらしかった。

「桃花さんはそうでしょう。それは本当によく解っていますよ」




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 上昇していた機体が水平に近づくと、ベルトの着用を義務づけるライトが消えた。正面のテレビ画面も、夕暮れの空からニュース番組へ切り替わった。まばらに座っている乗客達の囁きが、混じり合ってこもった音になり、あたりを満たしていた。

 隣の席の紗季は、暗い表情のまま、顎のあたりをセーターの袖で抑えていた。僕と目が合うと、困っているみたいな顔をした。櫻子を感情的にさせてしまったことを、まだ気にしている様子だった。紗季が謝罪するたび「気にしなくていい」と答えたが、気分は軽くならないらしい。実際のところ僕には、紗季を責める気持ちはなかった。櫻子の態度のほうがよほど問題だったし、彼女は最初から紗季を目の敵にしていたようにも感じられた。

 それに明るいニュースも加わっていた。紗季の携帯電話へ連絡をよこしたのは、ベルリエの當間乃菜美だった。『堂島さんの連絡先を桃花が教えてくれた』という話だ。桃花は少しずつ、乃菜美へ心を開いてきているらしかった。そういう意味では、やっと先を見通せるようになった気がしていた。

 隣で頬杖をついたまま、紗季は考えに沈んでいるようだった。僕は僕で、別のことに考えを巡らせていた。桃花のことを……、これまで僕が理解しようとしなかった桃花のことを考えていた。添乗員がドリンクのサービスに来た。僕はホットコーヒーを受け取ってから、折り畳み式のテーブルを引き出すため、少しシートへ深く座った。それから、紙コップを受け取ったまま黙り込んでいる紗季に、もう一度話しかけてみた。

「櫻子伯母さんの矛先が、紗季さんへ向かなければ、僕が攻撃されていただけだと思うよ。あの伯母さんは、誰かに当たり散らしたい時には、躊躇なく当たり散らすんだ。それがどんなに理不尽なことだって、まるで平気なんだ。ボードビリアンは大抵のことを、後で正当化してしまえるからね」

「ボードビリアン?」

 紗季は顔を上げ、それから微かに首を傾げた。黒目がちの瞳で、僕の目を覗き込むようにした。 「ボードビリアンって、芸人とか喜劇俳優とか、そういう意味ですか? 前に義明にも云ってましたよね」

「そういう意味だよ」

 頷いてみせた。それから何気なく、窓へと目をやった。雪山のような雲の層が、淡いオレンジ色に染まっていた。僕はコーヒーを半分ほど飲んで、また紙コップをテーブルへ戻した。

「どう説明したらいいのかな。櫻子伯母さんのような人は、自分が認識している真実を無視してでも、周囲へ認識させたことのほうを重視する。自分が本当はどんな人間か……じゃなくて、どんな人間として見られているかが重要なんだ。たとえば、人の知能の優劣なんかは、生まれた時にほぼ決まっていると思う。少なくとも小学生のころには、おおかた決まっているはずだ。頭のいい人は、最終学歴が中学だって大学院だって、頭がいいことに変わりはない。優秀さを周囲が認めても認めなくとも、頭がいいことに変わりはない」

「そうですね」

 紗季は簡単に肯定してみせた。

「でもボードビリアンは、そんな風には考えない。『頭がいい人間』を演じることで、事実を造れると思い込んでいる。だから役作りのために、一流大学を目指すことさえある。向学心からでも、将来に対するステップでもなく、ただ周囲に見せつけるためだけに大学へ行くんだ。そういうやりかたで、周囲が認めてくれれば、『私は頭がいい』という事実が手に入ったと思って彼等は安心する。極端なことをいえば、それが不正入試の結果だとしても、一流大学に入って周囲に認めてもらえれば安心できるんだ。

 もちろん彼等の全員が、素晴らしい大学に入れるわけじゃない。だから失敗した連中は、新たに『一流大学へ入れなかったが、実は頭がいい』って事実を造ろうとする。(受験競争なんて低俗だから本気を出さなかった)とか(とんでもなく運が悪かった)とか、そういうストーリーを作り出して演じてみせる。その演技を周囲が認めれば、『頭がいい』って事実が手に入ったと考えて安心する。

 当然だけど、ボードビリアンの演技がいつも認められるとは限らない。仮に僕が、演技を否定したとするよ。もちろん彼等は激昂する。世間に認めさせたことが事実になるんだから、世間の一部である僕に否定されれば、それは深刻な事態だ。そこでボードビリアンは深刻な事態を解消するために、また事実を造ろうとする。たとえば『魚住は下劣きわまりない輩なので、あいつの意見には価値がない』って事実だよ。簡単にいえば、僕の言葉を曲解したり、重箱の隅をつついたような誹謗中傷を、適当な隣人に話して聞かせたりするわけさ。それを隣人達が認めれば、事実ができたと思って安心する。いつも彼等はそうやって、自分の望む事実を造り上げていくんだ」

 そこまで話して、紙コップのコーヒーを飲みほした。紗季が黙っていたので、僕はまた言葉を続けた。

「だから、櫻子伯母さんは、どんな理不尽なことをしても平気なのさ。後で『これは正当なことだ』って事実を造ればいいんだからね。もちろん、事実を造るっていうのは、すごく不自然な考えかただと思う。でもボードビリアンは、自分と異なるタイプの人格を理解しない。すべての人間が自分と同じように、事実を造るんだって信じ込んでいる。だから自分のやりかたに疑問を持つこともないんだ」

 紗季はやはり黙って聴いていた。僕は紙コップを潰して折りたたんだ。そして、こんな話をしてもどうしようもないのかも知れないと思った。

「そんなことより、伯母さんの話を聞いていて、気づいたことがあったんだ。さっきからずっと、そのことを考えてた。推測の域を出ない部分も多いんだけど、おそらく桃花の云っている通り、堂島さんは嘘のせいで捕まったんだと思う」

 紗季が問いかけるような眼差しを向けたので、僕は言葉を続けた。 「事件直後の桃花の気持ちを想像してみたんだ。両親が突然にいなくなって、本当に心細かったと思う。七歳の女の子は、自分で自分を守ることなんてできない。誰かに守ってもらわないと生きていけない。だから桃花には、伯母さんに好かれる必要があった。伯母さんはある意味では解りやすいから、好かれるのは簡単だったと思う。口にした言葉を、ただ繰り返せばいいんだ。伯母さんが素晴らしいと云ったことを、素晴らしいと云う。くだらないと云ったら、本当にくだらないと云う。感謝しろと云われれば、心から感謝していますと云う……。おそらく桃花は、そうやって育ってきたんじゃないかな。そして、大学進学で上京してきた。

 桃花は大学で、僕と知り合い、今度は僕に気に入られようとした。伯母さんにしたのと同じ方法でね。僕が素晴らしいと云ったことを、素晴らしいと云う。僕がくだらないと云ったことを、くだらないと云う……。桃花と一緒にいて、僕はすごく楽しかった。それはそうだよね。二人は対等じゃなかったんだ。それなのに僕は、自分が理解されていると思って浮かれていた。そして悪いことに、自分を理解してもらうのにばかり夢中で、桃花を理解しようとしなかったんだ。さっき空港行きのバスのなかで考えて、やっと桃花を理解できた気がした。彼女が相手に無条件に同意するのは、幼いころに身につけた、処世術みたいなものだと思う。僕はそのことに気づかなかった。でも気づいたら、色々なことが納得できるんだ」

 そこまで話して、僕は息をついた。何気なく外へ目をやったが、景色はもう闇に沈み始めていた。窓の向こうは薄い闇で、顔を寄せても風の唸りが聞こえるだけだった。掌を当てると、気流で小刻みにガラスが震えているのが判った。

「つまり、こういうことですか?」

 背後から紗季が云った。声に陰欝な感じがあった。 「伯母さんは、堂島さんを嫌っていましたよね。とにかく彼を貶したくて仕方ないみたいだった。幼い桃花さんにも、それは感じ取れたと思う。だから嘘をついた。犯人は父親だって嘘をつくことが、伯母さんを喜ばせるって解っていたから? 桃花さんの性格を考えれば、その可能性があるってことですか」

 僕は窓の外から、紗季へと視線を移した。

「その可能性が高いと思う。桃花は自分の嘘で、父親が逮捕されたって云ったんだろう? でも嘘をついた理由を訊くと混乱してしまう。何らかの事情で伯母さんの機嫌を損ねて冷淡にあしらわれ、このままでは見捨てられるという恐怖がピークに達したら、七歳の彼女がそれをやっても不思議はないはずだ。伯母さんは、桃花の立場に付け込んで、好ましい事実を色々と造ってきた。自分は頭がいいとか、心が広いとか、人望があるとか。そのなかの一つが『堂島は最低の人間だ』っていう事実なんだろう。その事実を造り上げるために、桃花の嘘は役に立った。世間がその嘘を認めてしまったからさ。だからそれは伯母さんのなかでも桃花のなかでも、ずっと不動の事実として扱われてきたんだと思う。

 でも桃花は心の底で、それが嘘だってことを覚えていた。そこへ堂島さんが切り込んできた。おそらく、どうして嘘をついたんだ?と詰問したんだろう。嘘をついた理由は単純だ。伯母さんの機嫌を取りたかったからだ。でも桃花のなかでは、伯母さんは素晴らしい人間として認識されている。あの伯母さんに育てられたことに、優越感さえ感じているんだ。嘘をついた理由を説明するには、伯母さんがあまり愛情深くないことや、無条件には愛してもらえなかった不幸な境遇まで、自覚しなくちゃならなくなる。これまでに築き上げてきた事実を、根底から覆さないと、嘘をついた理由を説明できない。だから桃花はパニック状態になった。婚約者の義明さんを置き去りにして失踪したり、警察へ自首してみたりした。もう何日も経つのに、情緒不安定なままだったり、すぐに混乱して泣き出したりするのも、それが原因だと思う」

 紗季はしばらく黙っていた。やがて顔を両手で覆うようにして、長い息をついた。

「その通りだとしたら、ひどい話ですね」

 僕は黙って人差し指の関節を噛んだ。そして、そのひどい話に、自分も加担しているのだと考えた。八年前、桃花に色々と同意してもらえたことで、僕は浮かれてしまっていた。結局僕のやってきたことは、櫻子のそれと大きく変わらない。

 ふと顔を上げると、ベルト着用のサインが点灯していた。耳の奥側には、微かな痛みも感じられた。ガラスへ頬を寄せ、機内の灯りを掌で遮って、外の景色を眺めてみた。白い切れ端のような雲が、浮かんでいるのが判った。その下側は平板な闇だったが、小さな船のライトが確認できた。そのまま眺め続けていると、やがて前方に、光の粒を連ねた海岸線が見えてきた。





         25


 電気機器メーカーやクレジット会社のネオン看板が、ビルの屋上に取りつけられていた。それらは夜のなかで鮮やかに浮き上がっていた。那覇市街へ向かう国道には、赤いテールランプが連なっていた。前方に見える信号が青になっても、車は五・六台ぶんしか進んでいかない。ステアリングホイールを握る紗季の頬も、ランプを受けて赤く染まっていた。

 リアシートに乗せたハンドバッグのなかで、携帯電話が鳴り出した。バッグを取り上げて手渡すと、紗季がポケットから電話を引き出した。かなり長く鳴っていたが、切れずに済んだみたいだった。

「すみませんでした。飛行機だったので、電源を切っていたんです」

 紗季が誰かへ説明していた。僕はぼんやり車の列を眺め続けた。前の車のブレーキランプが、ちょうど視線の高さにあって、赤い光が眩しかった。

「つながったんですか? どんな人です?」

 先の信号が青に変わり、また二十メートルほど車が進んだ。紗季は会話を続けながら、ゆっくり車を前進させた。僕は煙草を喫うために、サイドウィンドーを下げた。

「どうかなぁ。難しいですね。本人には話してみたんですか? おそらく私よりも、魚住さんに訊いてみたほうがいいと思います。待ってください」

 自分の名前が出たので、紗季のほうを見た。

「ベリルエの當間さんです。桃花さんから聞いた堂島さんの連絡先へ、電話を入れてみたんだそうです。つながったんですけれど、堂島さんは、桃花さんと会って話したいと怒っているんだそうです。それでどうしたらいいかって」

 手渡された携帯電話を耳へ当て、「かわりました」と云った。すぐ乃菜美の声が聞こえてきた。

『當間です。電話してみたんです。堂島さんに。ずっと桃花ちゃんから連絡がないので、心配していたみたいなんです。私のところにいると話したら、どうしても会いたいって云うんです。それで、どうしたらいいかと思って』

 唐突に訊かれて、答えられるような内容ではなかった。僕は持っていた煙草をくわえた。片手でジーンズのポケットを探り、ライターを出して火をつけた。そして、考え考えしながら返事をした。

「父親が会いたがっていて、桃花がそれに応じるのなら、周りにどうこう意見する権利はないと思います。ただ状況が状況なので、堂島さんがどんな人物なのか、桃花と会って何をするつもりなのかが解らないと、まったく答えようがないですね」

 どうして無計画に堂島へ電話したのか納得できなかったが、口には出さないでおいた。また電話の向こうから、乃菜美の低い声が聞こえてきた。

『そう思います、私も。まだ桃花ちゃんには、堂島さんが会いたがっていることは伝えていないんです。その前に、誰かが堂島さんに会って、彼の人柄なりを見極めるべきだと思うんです。魚住さんと紗季さんにお願いしたいのですけれど、どうでしょうか? 私は桃花ちゃんの傍を、離れないほうがいいと思うので』

 考えてみた。会うのはかまわなかった。むしろ堂島には会ってみたかった。

「僕はかまいません。紗季さんのほうは……、本人に訊いてみてください」

 隣の紗季へ電話を手渡した。紗季は二・三の言葉を交わした後で、「解りました。それでいいです」と答えて通話を切った。

「堂島さんへ連絡して、折り返し電話をくれるそうです」

 シフトレバーの傍にある凹みへ、紗季は携帯電話を収めた。それから前の車の動きに合わせて、また少しだけ車を前進させた。


 二十分ばかり後、紗季は国道から逸れて、静かな通りに車を停めた。まっすぐな通りは、舗装が新しかった。あたりにはまったく人影が見えず、街路樹の枝葉から漏れた街灯の光が、アスファルトのうえで波打つように揺れているだけだった。

「もし堂島さんが、どうしても桃花さんに会いたいと云ったら、どうすればいいんでしょうか?」

 紗季が訊いた。サイドウィンドーから、ひんやりした空気が流れ込んできていた。空気は雨の匂いを含んでいるように感じられた。

「面倒だろうね。ベルリエにいるのが知られてしまったんだから。それに二人は血のつながった親子なんだしさ。もう僕達は、桃花とは他人でしかないわけだし」

 窓を開けていても、車内の静けさは変わらなかった。あたりはまるで真夜中のようだ。どこか遠くの街角から、車のクラクションが時折聞こえるくらいだった。

「一つ、訊いてもいいですか?」

 紗季が決まり悪そうに云った。 「もう桃花さんとは他人なのに、どうして魚住さんは、真剣に色々なことをしているんですか? まだ桃花さんに愛情があるから?」

 苦笑してしまった。一言で答えるなら、紗季に頼まれたからだ。そんなことは彼女にも解っているはずだし、だから決まり悪そうに訊いたのだろう。僕はしばらく迷ってから返事をした。

「誰かから何かを頼まれた時には、できるだけ引き受けるようにしてはいるんだ。僕だって他人に迷惑をかけることはよくあるから、ギブ・アンド・テイクって感じでね。けれど、引き受けるかどうかを決めるのに、自分なりの判断基準が一つだけある。それは僕自身が、後々その件で、恩着せがましいこと云ったりしないかどうかなんだ。あの日、紗季さんから電話をもらった時には、どうしようか迷ったよ。でも引き受けたのは、状況的に可能だったからだと思う。いくらかお金があったし、仕事を休むこともできたし、体調も悪くなかった。そのどれかが欠けていたら、無理をしてまで沖縄へ来なかったと思う。無理をして引き受ければ、後で恩着せがましいことを口にするかも知れない。恩に着せるくらいなら、最初から何もしないほうがいい。僕の判断基準は、ただそれだけだ。あのさ、同じ質問をしていいかな? 気になっていたんだ。義明さんが入籍する気がないのなら、紗季さんだって、桃花とのつながりは何もなくなると思うんだけど」

「それはそうですね」

 気が乗らない口調で呟くと、紗季はステアリングホイールを抱えるように腕を組み、そのうえに顎を乗せた。 「このトラブルの原因が何か、知りたい気持ちはありますね。好奇心みたいなものかも知れないけど……。それに、魚住さんを巻き込んだのは私じゃないですか? その魚住さんが手を引かない以上、私がやめるのは無責任だろうなとも思っています。魚住さんからすれば、無用の義理立てをされているみたいで嫌かも知れないけれど」

(なるほどな)と思った。確かに彼女の立場からすれば、そう感じるかも知れない。その時、携帯電話が鳴り出した。紗季が取り上げて、ディスプレイを確認した。そして「ベルリエからです」と囁くような声で告げた。





         26


 海の手前にある公園に辿り着いた。公園の向こう側、軽く見上げるくらいの位置を、臨海道路が真横に走っている。臨海道路の街灯が、オレンジ色に周囲を染めていた。名前こそ『臨海』だが、道路は海岸の上に設えてあった。これでは「臨海道路」ではなく「海上道路」だ。紗季の説明によると、この付近の海岸がえぐれるように陸地へ食い込んでいるため、二百メートルほどの区間だけ、海上道路になっているらしい。オレンジ色の照明のせいで、彼女の空色のセーターは、不自然に黒ずんで見えていた。

「この公園の先に、小さな砂浜があるんです。そこで待っているそうです」

 車から出てドアをロックしながら、紗季が説明した。僕は薄暗い公園を見渡した。園内には緩やかな起伏が続き、四本の柱に瓦屋根を乗せた休憩所が、遠くにぽつんと見えた。まだ九時半を過ぎたくらいだが、公園にはまったく人影が見えなかった。

「こんな寂しい場所を選ぶなんて、嫌な感じがしないか?」

 振り返って、訊いてみた。 「堂島さんが犯人じゃないって確証は、まだないわけだよね。少し警戒したほうがいいんじゃないかな。念のため、まず僕が一人で会って、紗季さんは離れて様子を見るっていうのはどうだろう?」

 ハーフコートを胸に抱えたまま、紗季は少しのあいだ考えていた。

「そうですね。でも、私達が堂島さんを警戒するように、彼もこっちを警戒しているのかも知れませんよ」

 さほど興味がなさそうな口調で、紗季が答えた。それから彼女はハーフコートへ袖を通し、先に立って公園へ入っていった。あちこちに固まって植えてあるソテツやヤシの樹が、月光で浮き上がっていた。あたりの芝生は水気を含んでおり、歩いてもまったく靴音がしなかった。

「ちょうどその先に砂浜があるんです」

 ほとんど歩かないうちに、紗季が指差した。植え込みの間から、低いコンクリートの防波堤が見えていた。すぐ傍まで行くと、切り立った岩場に挟まれた砂浜が、かなり低い位置に見えた。端から端までが百メートルほどしかない扇形の砂浜だ。僕は二・三歩進んで、すぐ足を止めた。防波堤のうえに人影が見えたからだ。離れているようにと、紗季へ手振りで示した。再び歩き出しながら、自分の頬が緊張で強ばるのを感じた。

 人影は海を向いていた。男性のようだ。暗い色のウインドブレーカーを着て、ブルージーンズをはいている。十メートルほどの距離まで近づいた時、彼は肩越しに振り返った。白髪混じりの髪が、耳が隠れるほどまで伸びていた。

「魚住君か?」

 低音だが、よく通る声で訊いた。僕は「はい」と頷いてみせた。角張った輪郭で、はっきりした顔立ちの男性だった。オレンジ色のライトに照らされて、口脇へ刻まれた深い皺が浮き上がっていた。彼はしばらくこちらを見ていたが、音もなく防波堤から飛び下りると、すぐ目の前まで歩いてきた。それからはにかんだ笑みを浮かべ、おもむろに右手を差し出した。

「堂島だ。桃花の父親、と云ったほうがいいのかな?」

 僕は握手に応じた。見た目は厳つい掌だが、感触は柔らかだった。死んだものと思っていた桃花の父と、こうして向き合っている事実が、とても非現実的に感じられた。

「さっきベルリエの當間さんから、君と話をするように云われたんだ。そうしないと、桃花には会わせられないと云うんだ。一体何がどうなっているんだ? 桃花は本当にベルリエにいるのか?」

 眉をひそめながら、堂島が訊いた。口調には微かな訛りが感じられた。

「何も事情を知らないんですか?」

 訊き返すと、堂島は疲れたように頭を振った。最初に声をかけた時より、彼はいくらかリラックスしているように感じられた。

「魚住君のことだって、ついさっきまで知らなかった。桃花の結婚が、再婚だとは聞いていなかったんだ。君がどうして沖縄にいて、當間さんと結託しているのかも解らないし、どういう経緯で桃花がベルリエにいるのかも、俺にはさっぱり解らない」

 不当な扱いを受けていると云いた気な口調だった。

「事情が入り組んでいるんです。それに僕のほうでも、聞きたいことがたくさんあります。たとえば僕が沖縄にいる理由を、堂島さんが知らないように、堂島さんが沖縄にいる理由を僕は知りません。最初から順番に話してもらいたいんです」

 そう云ってから、僕は背後を振り返った。十数メートル先に、白いハーフコートがぼんやり浮かんで見えていた。手を上げると、紗季がこちらへ向かって歩き出した。

「羽生紗季さんです。羽生義明さんのイトコです」

 説明すると、彼は頷いてみせた。

「電話で聞いたよ。本当に色々な人を巻き込んでいるんだな」

 意外そうに、そして独り言みたいに堂島が呟いた。それからウインドブレーカーのポケットに手を入れ、くしゃくしゃになった煙草の箱を取り出した。なかから一本を引っぱり出すと、オイルライターで火をつけた。 「それで俺は、何を話せばいいんだろう?」

 堂島の口調は、どこか投げ遣りな感じがした。

「まず話してほしいのは、奥さんが殺された時の状況です。僕達が知っているのは、あなたの奥さんが殺されたことと、桃花さんの証言であなたが逮捕されたことです。だけど、あなたは犯人ではないらしい。だったらなぜ、罪を認めたりしたんですか?」

 堂島は煙草をくわえ、ジーンズのポケットへ両手を入れたまま、頭を逸らして空を仰いだ。インクブルーの空に、冴えた半月が出ており、いくつかの小さな星も冷たく煌めいていた。やがて彼は、長く静かな溜め息を漏らした。

「どうして罪を認めたのか、説明するのはかまわない。でもすごく長い話になるし、信じてもらえる自信もまったくない」

「長くてもかまいません」と僕は答えた。堂島は半分も喫っていない煙草をコンクリートのうえに投げ捨て、爪先で丁寧に踏み消した。僕が黙っていると、防波堤を左手でなぞるようにしながら、ゆっくり歩き出した。

「ちょっと恥ずかしい気もするんだがな。俺の外見は、そこそこ剛胆に見えるらしいんだがね、実際はとても弱い男なんだ。たとえば杏子と親しくなったのは、俺が大学の時に自殺未遂をしでかしたからなんだ。自殺未遂とか、つまりなんて云うか、そういう話を年下の君達にするのは、ちょっと情けないよな」

 堂島は肩越しに振り返って、どこか云いわけがましく笑った。僕達が黙っていると、彼はまた正面に向き直り、やがて静かな声で話し始めた。 「初めて杏子に会った時、俺は熊本の大学に通っていた。あれからもう三十年以上が経ってしまったんだな……。俺が自殺しようとしたのは、大学四年の冬だった。動機は単純だ。大学を卒業すれば、社会へ出て働くしかない。嫌な上司に頭を下げたり、色々なことに耐え忍んでいかなければならない。そんな風にしてまで、生きていくのが億劫だったんだ。『億劫だった』と云っても、解らないかも知れないな。いうなれば俺は、生のインポテンツみたいなものなんだ。生きる喜びみたいなものを、実感したことがなかった。学生時代でさえ生きるのが苦痛だったのに、社会に出ればもっと悪いことになると思った。

 生活のために苦痛に耐えて働く、そして働いた金で面白くもない生活を維持する……。それは俺にとって、シシュフォスの岩運びと何も違わなかった。要するに、何十年も苦しんで寿命を迎えるのと、苦しまずに今すぐ自殺するのとでは、どう考えても今すぐ死ぬほうが楽だった。理解できないかも知れないが、そういった考えかたをする人間もいるんだ。ただの怠け者だと思うのなら、そう思ってもらってもいい。それも間違った解釈じゃない」

 堂島はそこまで話すと、またポケットから煙草を取り出して、火をつけた。

「自殺の動機は解りました。共感を抱くまでには至りませんけれど、そこまでの必要はないんでしょう?」

 僕の言葉に、堂島は微笑して頷いた。彼はまた夜空を見上げるみたいにした。それから「海岸へ降りてみないか?」と訊いた。防波堤には途切れた部分があり、そこに海岸へ降りるための長いステップが造られていた。コンクリートのステップは砂が積もっていて歩きにくかった。先に立って砂浜に下りてから、堂島は通る声で言葉を続けた。高い防波堤に囲まれた海岸では、声が闇のなかに小さく反響して聞こえた。

「自殺に失敗して、気がつくと病院のベッドにいた。友人の一人がたまたま訪ねてきて、俺を見つけてしまったらしい。正直がっかりしたが、頃合いを見計らって、もう一度やればいいと考えた。とにかく、シシュフォスの岩運びだけは御免だったんだ。そのころの杏子は単なる友人に過ぎなかったが、どういうわけか、俺がもう一度やると確信したらしかった。頻繁にアパートへ来て、気持ちを変えさせようとした。自殺を諦めた振りをしても、騙されなかった。ある日、俺は酒を飲んで、泣きながら杏子に喋ってしまった。さっき話したようなこと、どうして死にたいのかを全部喋ってしまったんだ。

 杏子には呆れるほど純粋なところがあった。誇張じゃなく、聖母みたいな女だった。あの時、杏子は俺に恋愛感情を持っていなかったと思う。ただ、自分が誰かを救えるのなら、それはどうしたって救うべきだと信じていたんだ。杏子は自分が働いて、俺を養うと云い出した。もちろん断った。そこまでしてもらう価値が自分にあるなんて、考えてもみなかったからだ。それでも、最後には杏子の提案に従うことになった。まぁ結局、俺は死にたくなかったんだろう。楽をして生きたかったんだ。こうやって話していると、俺には本当にいいところがないな」

 堂島は振り返って、曖昧な笑顔を浮かべた。なんとなく同意を求めているようでもあった。黙っていると、また前を向いてのろのろ歩き出した。砂浜は水気を含んで硬くしまっていた。どこからか土砂を運び込み、整地したかのような、不自然に綺麗な海岸だった。波打ち際の先に高架橋が建てられ、その上をさっきの臨海道路が走っていた。均等に並べられたライトが、眩い光を周囲に投げかけている。闇のなかで扇形に浮き上がる砂浜は、海へ向かって造られたステージのようにも見えた。

「そうして俺達は結婚した。俺は家事と、たいした金にはならなかったが、時々は内職みたいなこともした。奇妙に聞こえるかも知れないが、少しくらいは杏子を助けたかったんだ。人に会わずに内職をするだけなら、さほど苦痛でもなかったからな。杏子はその金を貯金しておいた。やがて杏子が妊娠して、貯金は出産費用になった。あれは嬉しかったな。桃花が生まれたのは、俺が二十七歳の時だ。女房だけを働かせて、こんなことを云えた立場じゃないが、本当に幸せだった。俺みたいな人間が、こんなに幸せでいいのだろうか?とよく考えた。桃花が生まれてから七年ほどのあいだが、俺の人生で一番幸せだった。そして、その幸せは、すべて杏子が与えてくれたものだった」

 海から風が吹いていた。その風のなかを、ポケットへ両手を入れたまま、ふらふらと堂島が進んでいった。オレンジ色の光に照らされ、彼の姿は黒いシルエットになっていた。

「桃花が小学校に上がったころだった。杏子の会社に、大学生のアルバイトが来たんだ。小野寺という男だ。ひょろひょろに痩せて、蒼白い顔で、見るからに不健康そうだった。ノイローゼ気味だという話で、杏子は心配して何かと面倒を見ていた。この小野寺のせいで、俺は間違いに気づいてしまった。俺は杏子をかけがえのない女性だと感じていた。そして、いつの間にか、杏子もそう感じていると信じ込んでいた。でもそれは思い違いだと気づいた。杏子みたいな女は他にはいない。少なくとも俺は会ったことがない。でも、俺や小野寺のような社会不適合者は大勢いるんだ。なんだか後ろめたくなった。自分が何か汚い方法で、特別な幸せを独占しているような気がしてきた。

 俺は杏子に、独りになって将来のことを考えたいと切り出した。本心では独りになんてなりたくなかった。ただ独りになって、自分を傷めつけてみせて、杏子から心配してもらいたかったんだ。小野寺以上に優しくされたかったんだ。あなたは特別だと、杏子に云ってほしかった。もちろん、そんなひねくれた気持ちまでは、杏子にも理解できなかった。彼女は俺の気持ちを尊重して有村の家へ戻った。そして、それからすぐに殺されたんだ」

 そこで言葉を切ると、堂島はゆっくりと踵を返し、こちらを振り返った。 「これは全部本当の話だ。もちろん俺は杏子を殺していない。誰も信じなかったが、本当に殺していないんだ」

 逆光のなかで、堂島の顔は黒ずんで見えた。目には悲壮な光があったが、僕が黙ったままでいると、やがてそれは弱々しいものへ変わっていった。

「信じますよ」

 まっすぐに堂島を見て答えた。堂島は虚を突かれたみたいな顔をした。「信じる」と聞こえたのかどうか、確信を持てないような顔つきだった。

「一つ、訊いてもいいですか?」

 ずっと黙っていた紗季が、背後から云った。 「ちょっと気になったことがあるんです。話が客観的すぎると云うか、冷静に分析されすぎている気がしたんですが」

「ああ」

 堂島は表情を崩して、口元へ笑みを浮かべた。それから、まるで恥ずかしがっているみたいに、視線を足元へ落とした。 「まぁ、そうかも知れないな。うまく説明できないが、お嬢さんも刑務所に入ってみれば、解るかも知れない。刑務所での生活には、希望も、不安も、悩みごともないんだ。ただ時間はある。その時間を使って、将来について考える人間もいるんだろうが、俺は過去のことばかり考えていた。きっと、そういう性格なんだろう。何百回も繰り返し考えていると、はっきりと客観的に見えてくることも多い。まぁ、確かに考えすぎた結果、自分が納得できるよう、都合のいい解釈を取り入れた部分もあるだろう。だが、君達を騙そうとか、そんなことは本当に考えてないんだ」

 紗季は首を傾げるみたいにした。それでも、やがてはっきりした声で答えた。

「私も堂島さんの話を信じます」

 今度は堂島が黙り込んでしまった。

「不思議なもんだな」

 やがて彼は、足元の砂を見詰めたまま、独り言みたいに云った。 「あの時は、どんなに必死で主張しても、誰一人として俺を信用してくれなかった。なのに今は、簡単に信じてくれる人間が目の前に二人もいるんだ」

 堂島は顔を上げると、風が吹いてくる海の向こうを見詰めた。暗い空と海は境界も判らなかったが、点滅するグリーンの光が一つ、海上に小さく見えていた。

「杏子が死んだと聞いて、最初はただ呆然としていた。感覚は妙に冴えているのに、頭が混乱しているような感じだった。半日くらいして、やっと普通に考えられようになった。俺が最初に考えたのは、桃花のこれからのことだ。杏子が死んだ以上、俺が仕事を見つけて、桃花を育てていくべきだろう。俺がきちんと働いて、桃花を立派に育てていけば、杏子もきっと喜んでくれるだろうと思った。

 なのに、信じられないことだが、俺はそれでも働く気になれなかった。働くのが、社会に出るのが、どうしても嫌だったんだ。俺自身が呆れたくらいだから、君達にこんな話をすれば、軽蔑されるのは解っている。けれど、本当にそうだった。あんなに桃花を可愛いと思っていたのに、それでも社会に出るのが嫌で嫌で堪らなかった。俺は桃花と心中することを考えた。しかし桃花を殺すなんて、絶対にできそうになかった。次は櫻子義姉さんに頼んで、金を工面してもらうことを考えた。でも、それもうまく行くとは思えなかった。仕方なく、別の問題だけを考えるように努めた。誰が杏子を殺したのか?と云うことだ。

 俺は小野寺が怪しいと思った。小野寺は明らかに杏子に惚れていた。杏子が気持ちを受け入れなかった場合、思い余って殺すかも知れない。精神的に不安定そうな男だから、可能性はありそうだった。警察が最初に連絡した時、小野寺は自分のアパートにいた。しかし、その後で突然に失踪したんだ。ショックで何も考えられなくなって、さまよい歩いていたという話だが、いかにも怪しいじゃないか? でもアリバイがあった。杏子が殺された時間の直前まで、知り合いと会っていたらしい。その知り合いと別れてから、有村の家へ行くのは、時間的に無理だった。それは確かに無理なんだ。小野寺は容疑者からはずれた。まさか次に疑われるのが、自分だなんて想像もしなかった。だって殺意を抱くような理由は何もないんだ。けれど、話がすっかり作り替えられていた。俺は財産目当てに結婚したヤクザな男で、やっと杏子もそれに気づき、桃花を連れて実家へ戻った。それに腹を立てた俺が、怒りにまかせて杏子を撃ち殺したと云うんだ。誰がそんな話を作り出したのか、見当はつくけれどな」

 波打ち際まで来た堂島は、そこで立ち止まった。いくつもの波が、闇のなかで白く泡立ち、音もなく巻き返していった。

「それで、そう、無罪を主張しなかった理由だったな」

 ようやく思い出したかのように、堂島が呟いた。俯いたままで曖昧に笑い、それから波打ち際へしゃがみ込んだ。落ちていた木切れを片手で玩びながら、彼は話を続けた。 「あのころの俺は、ヒモみたいな暮らしをしていたから、世間の心証はよくなかった。そして杏子が実家に戻った理由を、説明できる人間もいなかった。それを知っているのは、俺と杏子だけなんだ。唯一の希望は桃花だった。それなのに桃花が、俺が殺したと云い出したらしい。その話を聞いても、最初は信じなかった。警察の誘導尋問みたいなものだと思っていた。でも実際に、桃花は法廷で云ったんだ。顔を涙でくしゃくしゃにしながら、苦しそうな小さな声で『お父さんが撃ったところを見た』と云った。俺はわけが解らなくなった。これは天罰じゃないのか?と思った。桃花のためにさえ、働く気にならなかった俺への、天罰じゃないかと思ったんだ。誰かが次々と桃花に質問していた。桃花はそのたび、泣きじゃくりながら途切れ途切れに答えた。本当に苦しそうだった。俺はいつの間にか泣いてしまっていた。そして、ほとんど無意識のうちに『全部認めるから、その子にはもう訊かないでくれ!』と叫んでいた。自分でも何を云っているのか、よく解っていなかったんだ。正気に戻ってから怖くなった。すぐに証言を翻したが、もう状況は不利になっていた」

 堂島はそこで言葉を切った。波の音ではっきりしなかったが、声が震えているようだった。泣いているのだろうか?と思った。紗季へ視線を向けると、彼女もこちらを見ていた。誰も何も云い出さないまま、沈黙が長く続いた。やがて堂島が持っていた木切れを海へ放った。それから彼は気を取り直したみたいに、また落ち着いた声で話し出した。

「出所した時に考えていたのは、杏子が殺された理由を知りたいと云うことだけだった。八代という街で住み込みで働きながら、小野寺を捜したが、沖縄にいると判るまでに半年もかかった。それからすぐに沖縄へ来たが、地理感もないし、知り合いもいない。仕方なく、半年間で貯めた金を使って、興信所へ頼むことにした。興信所はさすがにプロだった。一週間もしないうちに小野寺を見つけてきた。小野寺は小さいホテルの支配人になっていた。結婚はしていないが、喫茶店に勤めている若い恋人もいるらしいと、興信所が教えてくれた。どうやって小野寺に近づこうか?と考えた。決め手がないまま、二ヶ月ほどを過ごした。そんな時、桃花が沖縄に来ていることを知ったんだ。これは偶然だった。信じてもらえないかも知れないが、本当に奇跡的な偶然だった。俺はずっと桃花に会いたかったが、諦めたほうがいいと自分に云い聞かせてきた。でも、すぐ近くにいると解ったら、抑えがきかなかった。

 最初は姿を見るだけで満足するつもりだった。だが一度姿を見ると、話をしたくて堪らなくなった。電話をして桃花を呼び出した。桃花は突然のことに興奮して、感情的になってしまった。それで俺のほうまで慌てたみたいになって、『どうして嘘をついた?』と責めてしまった。そんなことを云うつもりはなかったんだが、口から出てしまったんだ。桃花は確かに見たと云い張った。俺はあの時に一人でアパートにいたことや、殺す動機がないことを、くわしく話して聴かせた。桃花はまだ興奮していたが、しばらくすると、嘘をついたことを泣きながら認めた。俺も謝った。『責めるつもりじゃなかった』と云って……。それから、小野寺を追って沖縄へ来たことを説明した。すると桃花は手伝うと云い出したんだ。巻き込むのはどうかと思ったので、俺はその場で返事をしなかった。でも考えてみると、桃花の助けがあったほうがよさそうだった。小野寺の恋人は、桃花と年齢が近かった。桃花が彼女と親しくなれば、小野寺のことを訊き出せるかも知れない。だから翌朝、桃花が電話をくれた時、そう話したんだ」

「ベルリエ、ヒガルミ」

 紗季が呟くように云った。

「そう、比嘉ルミだ。俺は桃花からの連絡を待っていた。しかし数日して、比嘉ルミが殺されたらしいことを知った。桃花が何かしくじったんだろう。小野寺が感づいて、比嘉ルミの口を封じてしまったんだ。桃花のことが気になったが、こちらから連絡を取る方法がなかった。すでに二人を殺した小野寺が、桃花を殺す可能性は高いと思った。この数日間は地獄で暮らしているようだった。俺が桃花を巻き込んで、あの子を死なせたのだとしたら……。さっきベルリエから電話が来るまで、気が狂いそうに苦しかった」

 そこまで話し終えると、堂島は心底から疲れたように、深い息を漏らした。

「桃花さんは最初、警察にいたんですよ。自分が比嘉さんを殺したと嘘をついて自首したんです。どうやら彼女は、堂島さんが犯人だと思っていたみたいです」

 紗季がそう説明した。

「なぜ俺が? 俺は殺してなんかいない!」

 しゃがんでいた堂島が顔を上げて、こちらを見た。僕はそれに頷いてみせた。

「奥さんを殺された報復に、相手の恋人を殺したと考えたようです。だからあなたの身代わりに自首したんです。それから比嘉さんは、まだ死んだと決まったわけじゃありません。そして小野寺さんなんですが、彼にはアリバイがあります。確かに不審な部分が多くありますし、警察も重要な容疑者と考えているようです。けれど、犯行時刻に比嘉さんの家にいたと考えるのは、時間的に無理なんです」

 堂島の表情が強ばった。それから彼は視線を足元へ落とし、「杏子の時と同じじゃないか!」と吐き捨てるように云った。

「もう一つ、同じことがありますよね。小野寺さんは行方をくらましたんです。事件直後は自分のホテルにいたんですが、昨日の昼に鹿児島へ行ったきり、消息が解らないんです」

 紗季が付け加えると、堂島は再び顔を上げて、僕達のほうを見た。

「いや、それは違う。小野寺は那覇港にあるリゾートホテルに、昨日から部屋を取っているんだ。桃花が監禁されているかも知れないと思って、ずっと見張っていたんだから、それは間違いない」

 きっぱりとした口調で、堂島が云った。



                              

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