第16話
足にからみつく 岩倉の秋
誰もいない散歩道
知らない間にもう夏は落ちていた
枯れ木の間に あいつは挟まり
穏やかなあの膨らみも
ブチ模様に変わって行く
昨日までは確か 岩倉は秋
今日のこの夜空を見れば
比叡の頂き オリオンは光る
(岩倉の秋)
この歌は、寮の周りの風景を歌った作品だが、今となっては、良く分からない部分もある。
秋の何が絡みついたのか?
確かに落葉樹が多かったので、落ち葉が足に当たったのか?もっと心情的な何かか?
2番の枯木に挟まっていたのは、広告のビラか何かか?もう思い出せない。
京都はブルースの街。
アメリカの黒人音楽であるブルースは、シカゴで都会化され、やがてリズム&ブルースと言うアメリカ音楽の大切なパートとなって行く。
日本では、淡谷のり子の“別れのブルース”やご当地ソングの○○ブルースの様に楽曲の題名に使われ、アメリカのブルースとは関係なく“感傷的な歌”くらいの意味で使われる。ブルースの女王と言われる淡谷先生自体シャンソン歌手だし。
ブルースはブルース進行と言う独特なコード進行を持ち、基本的なものは今も日本の歌謡曲やポップスにも使われるが、京都のブルースはもう少し複雑なコード進行を持つ事が多い。あとマイナーコードのブルースは少ない。
京都には有名な“十捨(じゅっとく)“と言うライブハウスや、京大の西部講堂でブルースバンドのライブも行われており、当時の学生は自然にブルースが浸透する傾向があった。日本のブルースバンドで最も成功した例としては、京都ではないが関西中心に活躍した”憂歌団(憂歌はブルースの邦訳)“があり、京都でも人気だった。
この曲は寮の集会室で夜になると自然発生的に行われるセッションで、先輩がよくあるブルース進行の形として教えてくれたのを俺が弾いて、先輩がリードを弾くとめちゃくちゃカッコ良かったので、気に入って何度も弾いているうちに、メロディと歌詞が浮かんだのだった。ちなみにこの先輩は大手レコード会社に就職したので、もしかしたら偉い人になっているかも知れない。
残念ながら、この曲のメロディは、当時から
「あれ?なんか聞いた事あるけど…。憂歌団だったか?いやオリジナルのはず」と思ったのだが、就職してからレコードを買って聴いてみると、京都のブルースシンガー豊田勇造さんの”雨のブルース(淡谷先生の同名の曲とは別物)“のAメロにそっくりだった。無意識の盗作である。なのでレコード化のオファーが来ても無理なのである(ないわ)。
熊懐勤太郎(22)
4回生になると、そろそろ卒論も書かねばならない。某野球選手の卒論は、レポート用紙3枚で、しかもそれは表紙を含めてだったと言われているが、一般学生はそうはいかず、原稿用紙で結構な分量だった。
3回生からゼミに入り、指導教官と話してテーマを決める。学士論文なので、新しい発見は求められず、初めて聞いた学者の本を与えられ、その学者が提唱した学説について研究し、思うところを述べると言うものだった。困った事に現在ではその学説は主流ではなくなっており、なぜ論破されたのか?その上でこの学説の意義をまとめよ。と言う、本一冊読めば済む内容ではなかった。しかも教授から貸し与えられた研究書は、厚くはないが英書だった。
俺は英語が苦手で、訳文中心の大学の英語はなんとか誤魔化せたが、3回生の英会話のアメリカ人の先生(京都弁ベラベラなのに、授業は全て英語で進む)の最終テスト課題“私の授業について、思うところを書きなさい。ただし英文で1000ワード以上”と言う課題(しかも俺はこの先生の授業を2つとっていた)の時は、冬休み中、まず日本文で書き、英文に訳し、暗記する(×2)と言う苦行を強いられた。
今回は知人の有名大学英文科の人に頼み込んで、一冊まるごと訳して頂き(今考えれば、ど厚かましい俺)、後数冊の日本語の本を読んで完成させた。
暮れから2月の提出までは、生涯で一番勉強したかも知れない。単位的には3回生までにかなり取っていたので、1日を36時間と考え、10時間程度の睡眠時間以外は、ほとんど勉強していた。
おかげでなんとか単位を貰えたが、結局提出日ギリギリギリギリまでかかった。途中一回途中経過審査があり、完成稿に近い草稿を提出しなければならない。教授に
「ほぼまとまってるね。順調順調。ところでここのところのカルダモンと言うのはどう言うものか知ってる?」と言われ(中世の貿易品だったのだけど)、
「すみません。勉強し直して参ります」と、体調を崩した落語家が高座を降りる時みたいなセリフを残して退散したのだった。
原稿が出来上がると原稿用紙に清書。(パソコンもワープロもない時代だったので)字の汚い俺には苦行だった。一字間違えると400字分書き直しである。
論文は提出したら戻って来ないので、大学近くの事務用品店でコピー(コンビニなどない)して、所定の表紙をつけて提出。
我々世代の頃、名古屋の大学で卒論提出が30分ほど遅れて受理されず、留年が確定した学生が自殺するという痛ましい事があったが、俺の大学はのんびりしていて、各ゼミの教授が待っている教室に、俺もギリギリで提出したのだが、更に遅れて締め切り直前に慌てて学生が飛び込んできて、滑り込みセーフ!と思ったら、
「先生○○君、今近所の喫茶店で清書してます。なんとか待って頂けないでしょうか?」とメロスみたいな友達が叫んだ。その教授は
「えーよえーよ。○○君に字ぃ間違えんように書き、言うて」とお茶のお代わりを取りに行った。
俺の入ったゼミは男子学生が3人いたが、一人は院試に合格。もう一人は独創的な研究と言う事で、俺たちの論文は数年で廃棄だが、彼のは印刷されて図書館に収架された。凡人の俺は卒業出来ただけで満足だった。
そんなバタバタした4回生生活だったが、残り少ない京都、残り少ない寮生活を味合う様に毎日を送った。
ある先生の講義は最終提出がレポートで、京都の寺を一つ選んで、実際に訪れレポートすると言うものだったが、毎日近くをバイクで通っているのに、一度も行った事の無かった寺に行って、その歴史背景と境内の様子、特に寺の雰囲気を体感しようと縁側に腰掛け、静かに目を閉じていたら、うとうとしてしまい、目が覚めたらいつのまにか猫が膝に乗っていた。と言う事を書いたらAが貰えた。先生は学生に、京都を感じて帰って欲しかったのかも知れない。
本当にこれでおさらばだなあ…と思うとやっぱりモラトリアムというより、もう少しこの街、この大学に居たいなあと思う気持ちがあった。
新幹線で名古屋から1時間弱。いつでも来れる京都だが、観光客が見る京都と学生が見る京都とは別のものである。
もちろん京都人の見ている京都とも違う。我々学生は京都人にとってはお客さんに過ぎないが、観光客よりは近くに感じてくれていると思う。
ノーベル賞受賞者に京都大学出身者が多いのも、学生を大切にする京都の風土が影響している様に思う。
寮を去る前に、寮生活で一番思い出深かった思い出を語っておこう。入寮した2回生の春。この寮では新入寮生歓迎的な行事をしていた。いや飲み会の方の歓迎会はすでにあった。例によってすき焼きで、みんな酔っ払い、“ストーム”と言って新入寮生を中庭の池に突き落とす。俺は20歳になったばかりで酒量の限界がわからないので、勧められるままに相当サッポロジャイアントを飲んでしまい、池に突き落とされて逆上し、溺れないか(浅いけど)見守っていた先輩たちを両脇にまとめて壇ノ浦の平家の猛将よろしく道連れにもう一度飛び込んだ。らしい。
「熊懐はリアル熊だから酒のますな」と言う不文律が入寮数ヶ月で出来てしまった。
もう一つの歓迎行事は
「暗夜行路」と言う志賀直哉先生の名作から名前を貰った行事で、要するに、夜中に比叡山に登るのである。
まあ昔の比叡山延暦寺の僧はみんな歩いて登り降り
していた訳だし、朝廷が言う事聞かないと桓武天皇の御霊が宿ると言う御神輿を引っ張りだして来て都で暴れて、平清盛に矢を打たれて真っ青になって逃げ帰ったりしてたのである。
もちろん今は自動車道路もケーブルカーもあるので、修行僧以外は使わない道だが、山登りが趣味な人以外は地元の人も使わない登山道がちゃんとある。これが結構険しい。
比叡山は平地からいきなり1000m級の山がそびえているので、ぐるりと回っていく自動車道に比べて、結構急勾配である。
寮母さんに握って貰ったでっかいおにぎりと、水筒にお茶を入れ、深夜に寮を出発。修学院近くにある登山道入り口から登る。表示はあるはずだが、暗くてわからない。経験者の記憶だけが頼りである。
倒木で道が塞がれているところもあり、最近誰も使ってない登山道を数回休憩しながら登った。
途中の休憩でみんなが話していると(流石に元気いっぱいな奴はいない)、突然先輩が
「黙れ!」と言った。
シーンとなった深山に小さく
「キキッ」と言う声。
「猿の斥候が来ている。騒いだりすると敵意があると思われるぞ」
比叡山は多数の野猿生息地で知られている。人間が作った道と言うものを人間が利用する事は猿も承知しているが、夜となると話は別。全山猿のテリトリーだ。
「一昨年は野猿に囲まれてしまい、○○先輩が交渉して辛くも脱出したらしい」
先達の先輩は、今回参加していない4回生の猿顔の先輩の名を出したので、流石に冗談だろうと思うが、そう言う危険は充分あった。狼は絶滅しているが、野犬がいると言う噂もあった。
6時間以上かけて展望台まで到着し、日の出を見たらすぐに下山。
帰りは八瀬から登って来るケーブルカー線路の脇にある点検用階段を一気に降りる。立ち入り禁止では無かったが、関係者以外は使わない階段なので、出勤して来た関係者に怪しまれない様に、一気に走って下りる。
この階段が、非常に奥行き深くてトントンとリズミカルに降りれない。
「トンタタタタトンタタタタ」と言う感じで、膝への負担が相当だ。
登り6時間が30分ほどで麓の駅まで到着。
そのまま笑う膝を騙し騙し、2時間程歩いて寮に戻った。
つぎの日からしばらく寮の階段を登り下りする度に皆手すりにつかまっていた。
2年目からは参加は辞退させて頂いた。休憩毎にみんなの持参した懐中電灯を近づけて麓方面を照らしたのだが、なんと寮から比叡山を見ると、その光がちゃんと見えるのである。
携帯もない時代なので、それで安否を知らせたのである。
「ああ俺もあそこに登ったのだなあ…」と毎春感無量だった。
卒業式も終わり、寮にも別れを告げる日が来た。
寮母さんにお礼を言って、父が会社から乗って来たトラックにエルシノアごと乗って帰った。
なんかまだ明日も寮にいる様な変な気がした。
明日もまた10時くらいに起きて、昼食のベルまで
紅茶で我慢して、昼食食べて、エルシノアに乗って大学行って、休講か確かめて、寮に帰って夕食食べて、夏橋君から譲って貰ったトリオのレコードプレイヤーと、大学生協で買ったパイオニアのレシーバー(プリメインアンプとFMチューナーが一体化したもの)、卒業した先輩が置いて行った巨大な白いスピーカーボックス(30cmのスピーカーユニットは外して持って行った)に横田くんのアドバイスでサブバッフル板を張り付け、16cmの名機ダイヤトーンP610スピーカーユニットを取り付けた自慢のコンポでユーミンや石川セリを聞くか、集会室でギターを弾くかする。0時になったら日本航空提供の“ジェットストリーム”の城達也の渋いDJを聴きながら寝る。
日曜深夜はそのあと片岡義男と安田南の“気まぐれ飛行船”を聞いて夜更かしする。
そんな日々は永久に戻って来ない。
陳腐な言い方だが、俺の青春が終わった。
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