第14話
昔の手紙を読んでるように
私の心を暗くする
秋の訪れ告げる様に
ひぐらし鳴いてる
昼下がり
いつまでも無くさない様に
開いた両手の間から
夏が 落ちた
(夏が落ちた)
熊懐勤太郎(21歳 夏)
自宅に戻った俺は、どこへ出かけるともなく家に篭っていた。
歌詞ももう残っていないが、英国のフォークロアバンド“ペンタングル”の曲に自分で歌詞を付けた
「聖地巡礼」と言う曲で、彼女とデートした場所を綴って、いつかそう言う場所を巡る様な気持ちになれたら…。と言う思いを歌ってみたが、現実は、名古屋市内至る所が
「禁断の聖地」だったので、エルシノアがあってもほいほい出かける気にはならなかった。
元々出不精なデブなので、親もあんまり心配はしていない様だが、2年前にあんな事があったので、気にはしているようだった。俺は家に置きっ放しだったクラリネットを吹いたり、12弦ギターを弾いたりして、特に何もせずに過ごしていた。
当時の俺たちは、家にいる奴に一番情報が入る様になっていた。
もう一度言うが、携帯がないのである。
パソコンも持っている人は少なく(BASICとやらでプログラムを作るしかない時代)、メールなんつう便利なものもない。
電話か郵便、稀に電報。
俺みたいにほぼ夏中家にゴロゴロしている奴は、連絡役として大変重宝。
電話かけて母親が出るとかは、かなり気まずい。
彼女と連絡取り合ってた時は基本的に毎日夜9時とかに決めておく。で一旦ワンコールだけして、11時ごろ、家族が寝静まった後にもう一度電話するのである。
本当に携帯電話と言うのは偉大な発明だと思う。
俺の友達と言っても連絡を取るのは3人しかいない。
中学時代のバンド仲間の夏橋くんは近隣の大学に入った。人見くんは一浪して東大に行った。岸辺くんは放送関係の仕事がしたいとかで、東京の専門学校に行った。お盆には4人で会ったが、夏橋くんは家も近くで、よく連絡していた。
高校の友達の森田くんとはよく会った。関東の大学に行った横田くんが夏休みは帰省していて、趣味を生かして家電店のオーディオコーナーでバイトしていたので、そこへ遊びに行ったりした。まだ誰も車は持ってないので、エルシノアが足だった。
もうひとり親の知り合いの息子で幼馴染の篠崎くんとも良く遊んだ。これ一方的におれのお誘いが多く、
「篠崎くーん。今夜遊ぼうよ」と誘うと、
「急だなあ、まあいいけど」と気のいい篠崎くんは答える。彼は名古屋の国立大学に入学して、アマチュアとしてはかなりレベルの高いバンドでキーボードをやっており、時々東京のミュージシャンのレコーディングも手伝うと言う学生プロだったので、忙しい時は遊んでくれないのだが、この夏は時間があったのか、結構都合を合わせてくれた。
この頃は、日本語でロックを歌うと言う事を初めてやった“はっぴいえんど”が解散して、細野晴臣、松本隆、大瀧詠一、鈴木茂が、それぞれに活動を開始。細野晴臣と鈴木茂は、松任谷正隆、林立夫と組んで、キャラメル・ママ(東大安田講堂紛争の際、立て篭もった我が子にキャラメルを差し入れた母親の故事から。当時は嘲笑の対象だったが、今思えば革命家にだって母親は居るので、いいお母さんだと思う)改めティンパン・アレー(ニューヨークの音楽事務所が集中している地域から)を中心に、
いわゆる“ティンパンサウンドと言われる、独自の日本ロックが誕生した。この流れから、山下達郎と大貫妙子のシュガーベイブ。荒井由実(後に松任谷正隆と結婚)、吉田美奈子などが生まれた。
名古屋にもこの流れに影響されたセンチメンタルシティロマンスと言うバンドがメジャーデビューしており、大学でもその影響を受けたバンドが多く出来ていた。
ロックのキーボードはディープパープルのHighway Starの様にかなり前に出てリードを取るイメージだったが、ティンパンサウンドでは、少ない音数でコードをキッチリ抑えて行く奏法が中心で、篠崎くんは早くからこの奏法をマスターし、重宝がられていた様だ。ロックやジャズのピアノ、キーボードは、基本楽譜が用意されてない事も多く、バロック時代のチェンバロ(通奏低音)の様に、コード譜のみで演奏する事があると言う。アクセントのつけ方も違うので、小さい時からピアノをやっていても、すぐ出来る訳ではない様だ。
篠崎くんは海外のロックバンドのレコードを沢山聞いて勉強しており、かなり評価されていたミュージシャンだった。
こんな有名人をちょくちょく誘うのは、彼が俺の友達で唯一車を持っていたからで、後の時代で言うアッシー君の様に使ってしまったと、後々反省した。
ただ迎えに来てくれ、と言う様な事は一回しか頼んだ事がない。本山でパチンコに負けて帰りのバス代さえなくなった時(前にも同じような事を…)、公衆電話からSOSしたのだが、この時は留守で、そんな理不尽なお願いをせずに済んだ。結局“なんで居ないんだよー”と呟きながら、家まで歩いて帰った。清々しいほどのカスである。
大体篠崎くんを遊びに誘う時は、
「で、どこ行くのさ」
「内海」
「またかい」
と言うのが多かった。南知多道路が開通し、一番先端の師崎まで行けるようになったので、名古屋の若者の恰好のドライブコースになっていた。
「男二人で?」
「じゃあ妹さん誘ってもいいよ」
「多分断られるから」
篠崎くんには高校生の可愛い妹がいて、この兄は妹の事になるとガードが固くなる。
「友達連れてってもいい?」
「いいけど、友達とかいたの?」
「失礼な!3人くらいはいる。M大でジャズやってる後輩」
「それは面白そう」
「じゃあさそってみる。今夜7時な」
「へーい」
森田に電話すると、暇だと言う。
姉からも注意されたが、車に乗っていない人は、車持ってる人に気軽に乗せてと言いすぎる。当時は余り分かってなかったが、ガソリン代だってかかるし、運転は神経を使うので疲れるのである。
後に就職して免許を取ってからは、出来るだけ人の”乗せてって要請“には応えるようにした。篠崎くんへの罪滅ぼしのつもりで(伏線)。
彼の車は名古屋の青年らしくカローラだった。名古屋の青年はカローラから初めて、カリーナかコロナ→マークIIと出世魚の様に買い換えて行くのである。結婚してマークII。が上がりだった。当時はミニヴァンとかでっかいワンボックスとかは商業車で、あくまでもセダン。出世して
「いつかはクラウン」となる。性格により、大人しい4ドアセダンや、スポーティな2ドアハードトップ(元々はオープンカーに小さめの固い屋根を付けた。と言う体のデザイン。しかしラインナップにオープンカーはない)を選択した。彼のカローラは若者らしい2ドアだったが、エンジンがLタイプという珍しい形式だった。
カリフォルニア州が当時世界一厳しい排ガス基準を採択したため、世界の自動車メーカーは定められた年までの目標達成に必死になっていた。その年以降基準をクリアしていない新車はカリフォルニア州では販売出来ないのだ。結局最終的には優れた触媒が開発されて行くのだが、その前に希薄燃焼方式という画期的な方法で、世界で初めて基準をクリアしたのが、ホンダのCVCCだった。副燃焼室で濃い目の混合気を爆発させ、薄い混合気を満たした主燃焼室の爆発を誘発するもので、シビックと言う全く新しいハッチバックコンセプトの小型車と共に、多くの人の心を掴んだ。ホンダと言えばオートバイ、次にF1からのスポーツカー、と言うイメージにファミリーカー(環境を大事にする意識高い系のニューファミリー向け)と言うイメージが加わり、ホンダはトヨタ、日産に次ぐ大メーカーに発展して行く。
トヨタは、カリフォルニア州排ガス規制クリアに苦労し、ロータリーエンジンの開発も手掛けていたが、石油ショックにより、燃費の悪いロータリーエンジンは断念。ホンダの技術供与を受けてCVCC方式のエンジンをLタイプとして販売した。
篠崎くんが地球環境に優しい人であったか覚えていないが(タバコの吸い殻を路上には捨てず、沿道の花壇とかに“土に帰れ!”と埋めていたが、これが環境に優しい行為だったかはわからない)、トヨタ式CVCCの加速の悪さにはいつも悪態をついていた。燃費は良かったので、大学生には有難い車だったのかも知れない。
で、エルシノアで彼の家まで行って車に乗り込み、さらに名古屋南部で森田くんを拾って知多半島へ。
泳ぎに行くわけでもナンパするわけでもないのだが、やっぱり足が海に向くのがナウなヤングなのである。
日中であれば海水浴や潮干狩り。食事は大海老フライで有名な師崎のまるは食堂。まだ全国区ではなく、小さな海の宿みたいなところで、小部屋に通されて海老フライを食べた。ちょっとして少し奥まったところに今の本店食堂ができ、更に師崎港の近くに別館が出来た。
(当時の名古屋人には海老フライを特別にご馳走とは思っていなかったが、まるは食堂の大海老フライは一度食べると強烈なショックがあった。俺が初めて食べた時”まるでアメリカンドッグのソーセージがそのままエビだ!“と思った。ちなみにアメリカンドッグを最初に食べたのは、大阪の万博である。なので一度でもまるはで大海老フライを食べた名古屋人はこの海老フライを熱く語る傾向があり、後にタモリの”名古屋人はエビフリャーさえあればご馳走だと思ってる“と言う発言で、すっかり名古屋名物にされてしまった。名古屋商人は伝統を重んずる気風が希薄なので、取り敢えず売れるなら、ようわからんけど名物でいいわ。昔から名物だったでよ。と言うスタンスである。味噌カツ、あんかけスパ、ひつまぶし、手羽先など同じ理屈で、俺が小さい頃には無かったものが名物になっている)
さて俺たちを乗せた篠崎号は南知多自動車道を南下し、師崎に向かう。日中なら、当時山海海岸にあった”ペーパームーン“と言う伝説の喫う茶店でお茶をするのが普通だ。ここはサーファーの休憩所でもあり、サーファーを見に来る若者たちの聖地でもあった。アメリカンな店内には西海岸系のBGMが流れ、まるで当時流行のわたせせいぞうのイラストの様なお店だった。
(惜しくもその後閉店し、ナウなヤング難民達は、デート向きなお店を求めて彷徨う事になる)
どちらにしても夜なので、ここは空いておらず、師崎で一店だけ深夜近くまで営業していた喫茶店に行く。(まだカラオケ喫茶はなかったので普通の喫茶店。すでにカラオケと言う言葉はあったが余り普及してない頃で、エイトトラックと言うカセットの化け物みたいなカートリッジを抜き差しする方式だったので、レパートリーも少なく、旅館の宴会場で番頭さんがリクエストを受けて操作するレベルだった。やがてジュークボックスみたいなレーザーディスクカラオケになってリモコンで選曲可能になり、現在の通信カラオケに発展する。篠崎くんは早くから“カラオケはミュージシャンの敵になりうる”と警戒していた。生バンドの仕事を奪った。と言う意味ではその通りになったが、カラオケによって音楽の裾野が広がった事は間違いない)
クラシックな喫茶と軽食の店で、かつてインベーダーゲーム(大流行はもう少し後)と共に必ずあったおみくじ機があった。
上が灰皿になっていて、周りに十二支か十二星座のコインを入れるスロットが取り巻いている。当時50円だったか?どのスロットからコインを入れても同じところに落ち、重みでおみくじが落ちてくる仕掛けなので、偶然に過ぎないのだが、これが的中した事があった。
「小吉 願い事半ば叶う…」などなど書いてあったおみくじが出て来たのだが、その後注文を取りに来たウエイトレスに
「カツカレー」と言ったら、
「すみません、カツもう全部出ちゃって。カレーなら出来るんですが」
これが後に“師崎おみくじ事件”と言われた事件の真相である(いや内輪でだけだが)。
俺はここで2人のミュージシャン。自称ソンガーシングライターなど足元も及ばない本格的ミュージシャン達を引き合わせたのだ。
篠崎くんは就職と同時に音楽活動からは足を洗った模様なので、この出会いが名古屋の音楽シーンに貢献したわけではないが、俺にとっては(誠に勝手ではございますが)大きな成果だった。
俺は京都で録音した、カセットを持って来ていた。
カローラのカーステレオからは、内海にふさわしいビーチボーイズとか、山下達郎とかがかかっていたが、俺のカセットを聞いて貰った。
うちには、バンドをやっていた頃から、“リンガホン”と言うクソ高い英語教材があり(多分姉が買って貰ったものかと思う)この教材の付属カセットデッキはかなり特殊なものだった。当時ステレオカセット機はすでに発売されていたが、このリンガホンは左チャンネルに入っている録音を消さずに再生しながら、右チャンネルを録音出来る。本来の目的はマイク付きヘッドフォンで先生の発音を再生しながら、自分の発音を録音して後で比較する。と言う画期的なカセット機だったのだが、これは当時最先端の4チャンネルや8チャンネルのオープンリールマルチトラックレコーダーと同じ原理で、つまり先にギターを弾いて、後からボーカルを吹き込む。歌は何回でもやり直し出来ると言う大変有難い機械だった。
これで録音し、別のモノラルカセット機にダビングしたデモテープを当時よく作っていて、フォッサ・マグナ解散記念にラジオDJ風番組を作ったりした。
「下手くそだけど、まあ聞いてみてよ」
「おお!流行りのメジャー7か」
「うん、ギター壊れたんで、クラシックギター京都に持って行って、ボサノバばっかりやってたんだ。イパネマの娘弾いてたら、なんかこういう曲が出来た」
「これ映画の題名だよね」
「うんエルシノアが欲しくてたまらなかった頃の詩」
「失恋の歌じゃないんだ(俺の大失恋の事は、二人とも知っていた)」
「うるさいな、そう言う詩もいっぱいあるわ!」
高校時代はポエムを書いて彼女に手紙で送っていた俺(これは恥ずかしい)。
大学時代はソンガーシングライターとして創作ノートを作っていた俺。このノートが引っ越しのどさくさで紛失したのは、大変喜ばしい。こんなもの黒歴史でしかない。
森田くんが、
「面白いな、熊懐さん(一応先輩なので)他の詞もあったら見せてよ。作曲したい」
と言う訳で、曲がついてたのをまた2曲カセットで送る約束をし、後は歌詞を送って森田くんに作曲して貰う事に。
「せっかくだから、ちゃんと録音すれば?僕もキーボード弾きに行くよ」と篠崎くん。
「いやあそんな大げさな事。俺の歌如きで。スタジオ借りるお金もないしさ」
「別に自宅録音でいいじゃん」
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