第12話

なんのために なにを求めて

傷つき倒れ 戦って死ぬのか

(フォーククルセダーズ “なんのために”)


閑話休題。

と言うと、俺は閑話休題ばっかりの脱線野郎だが、運営の方から(何の?)、走馬灯回す担当が余りにも過去へ未来へめまぐるしいので、ちょっと休憩させろとのこと。そろそろ名古屋での友人関係をはっきりさせた方が、これからの事を語りやすいかもと、まあそう思ったので、章を割かせていただきたい。決して万策尽きた訳では…。


「熊懐勤太郎のともだち(中学編)」

まずは長く続いた友達に小学校時代の友達はほとんどいない。中一の件で首謀者の奴らはもとより、一緒に俺から距離を置いた同じ小学校出身の奴らを許すのは、心の貧しい(聖書的じゃない意味で)俺には無理だ。


中学2年になって、 バンド的な事を一緒にやる友が3人出来た。

俺が小学校5年の時、父が古道具屋でクラシックギターを買ってきた。なんかの雑誌の付録の

“きみもギターが弾ける!”みたいな初心者本で、マイク真木の“バラが咲いた”を初めて弾いた。

中一のお楽しみ会で喝采を浴びたのが嬉しくて、バンドやりたかったが、例の件でちょっと対人恐怖になっていたところに、2年になって

「熊懐くんギター弾けたよね」と声をかけて来たのが、小学校5年の時転校して来た同じ小学校の奴で元々それほど仲が良い訳ではなかったので、イジメグループとは無関係な奴だった。

バンドがやってみたいと言う。深夜ラジオが大好きで、色んな曲を聴いているうち、自分でもやりたくなったらしい。


俺もラジオはよく聞いていた。当時はラジオが最大の若者のメディアだった。

ラジオ局も深夜放送を中心に夜の番組を、それまでのお年寄りやトラックドライバー向けから、

ヒット曲を紹介するDJ(ディスクジョッキー)番組にシフトしていた。

その頃の小中学校生のラジオユーザーは、俺の住んでいる地域では、東海ラジオ派と、CBC(中部日本放送)派にはっきり分かれていた。

別に好きなDJ毎ではなく、ちょっとした偶然で派閥が出来たのだ。


小学校高学年で、名古屋では

「子供科学教室」と言うのをやっており、毎日曜日に中区の小学校を借りて小学生達に解放していた。

交通費は要るが、市の主催の為、懐中電灯や万華鏡、日光写真などを実費で作れるので人気があった。中でも圧倒的に人気があったのが、

ゲルマニウムラジオ。この回は複数教室が参加者で溢れた。

既にテレビはほとんどの家庭に普及し、月曜日の話題はドリフ(その前はクレイジーキャッツ)だったが、親の目を盗んで深夜に茶の間のラジオを聴くのはかなり困難で、我々はパーソナルなラジオを欲していた。こっそり聞く週間平凡パンチ提供の

「パンチ!パンチ!パンチ!」のちょっとお色気のある三人娘、モコ、ビーバー、オリーブのトークは、当時の小中校男子にはまたとないご馳走だったのだ。


理科の勉強だと親から金を出させ、こっそりラジオを聞く。なんと正しい科学技術の応用であろうか!

俺などはさらに帰りのバス代でジュースを買ってしまい、3時間かかって家まで帰った事さえある。

で我々の学区のロケーションだが、CBCは鳴海町と言う所に電波塔があり、感度の悪いゲルマニウムラジオ(鉱石ラジオ)でも、なんとか受信出来た。

アンテナ線をカーテンレールに結び付けたり、AC電源コンセントに片方だけ刺す(二つとも刺すと感電してブレーカーが飛ぶ)。俺は布団の中で隠れてラジオを聴くために、アンテナ線の先を口に咥える。と言う技を編み出した。水分を大量に含む人体がアンテナになる!

とは言え感度の悪いゲルマニウムラジオでは、CBC以外はよくわからん隣国の放送のみだった。


かくして俺はCBC派になった。

この頃我らの憧れのおもちゃは、エレキットと言う、後の電子ブロックの前身で、いくつかの部品の入ったブロックを組み合わせるだけで、色々な電気製品を作れるもの。トランジスタラジオも!

欲しくて欲しくて、何度もサンタさんに願ったが、いつも12月24日の朝には失望する事になった。高かったのだ。でもあの時サンタさんに貰った

「ライオンと魔女(ナルニア物語)」は俺を違う世界に連れて行ってくれた。

でエレキットや、気前の良い兄姉貴から要らなくなったソニーや松下のトランジスタラジオを貰えたラッキーな奴は、少し高級中流層=東海ラジオリスナーになった。


こうしてブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争が、既に小学生から始まるのだ。

ちなみに、高校一年のクラスに、色白でお姫様の様な綺麗な子がいて、みんなのアイドルだった。ある男などは、“今学校で大災害があったら、あの子を背負って逃げる”と公言していたが、その子に

「東海ラジオ派?CBC派?」と聞いたら、

「うーん。いつも聴くのはFM愛知かな」と言われ、雲の上の貴族階級と言うものがある事を思い知らされた(当時まだFMラジオは高価)。


俺に声をかけて来た奴は、その後”なのにあなたは京都へ行くの“でデビューしたチェリッシュ大ファンになり、東海ラジオの番組を聴いていた。

その頃には何とかお年玉でトランジスタラジオが買える価格及び経済水準になったので、両派の対立は解消していたが、俺は伝統芸能としての、口咥え布団の中でゲルマニウムラジオを継承していたので、その番組は知らなかったが、チェリッシュには色々思い出がある。デビュー曲からして遠距離恋愛の歌だしなあ…。当時俺は自分が京都に行くとは思っても見なかったが(北杜夫の“ドクトルマンボウ青春記”の影響で信州大学か東北大学に行きたかった)、後に結婚式披露宴の定番になる

”てんとう虫のサンバ“にしても、俺の”MAD TEA PARTY“のMy Fair Lady-Birdは、この歌からの連想から結婚指輪の暗喩なわけだし。

当時絶大な人気を誇った日曜日昼の”TVジョッキー(ビートたけしではなく土居まさるが司会の時代)“奇人・変人コーナー“の賞品、白いギターはみんなの憧れだったので“白いギター”と言う歌もすんなり心に入ってきた。


そう言うわけで、この岸辺くん(仮名)がメンバーに加わった。もう一人いないか?と言う事でやはり同じ小学校出身の転校生の人見くん(仮名)をスカウトとしようと言う事になった。結局トラウマのある同じ小学校出身を2人もメンバーにする行為は、自分でもよく分からないが、イジメグループの地元出身者に対して、新しく出来た団地に住む転校者を選ぶのは、ある種のバランス感覚だったかもしれない。

人見くんは小さい時からピアノをやっており、キーボード(当時は基本オルガン)担当でスカウトしたのだが、彼は

「やってもいいけどね。僕は本当はドラムがやりたいんだ」と言った。そりゃ願ったりだと歓迎したが、彼は本当にお金を貯めて、高校に入る頃中古のドラムを手に入れた。彼の家で練習していたら、隣の家(受験生がいたらしい)から苦情が来たので、俺の家で練習する事にし、練習の日はまず彼の家に行って、リアカー(何であったのだろう?)にドラムセットを載せて俺の家まで運ぶのが日課だった。


で、ボーカルもいるといいね。女の子がいいね。と言う事で、やはり同じ小学校出身の女子に声を掛けた。誓って言うが、メンバーも誰も下心は無かった。彼女は小学校の時から恋多き少女で、そんなに美人ではなかったが(サンダーバードのペネロープ嬢似)、小学校の頃は学校一の秀才に入れあげていた。こいつはいけ好かない奴だったが、頭は良くて東大に行った、もう一人天才がいて、彼は中学から附属に行ったのだが、彼も東大に行った。実は努力家の人見くんも一浪して東大に行った。一学年3クラスの小学校の同級生が3人も東大に行くのは凄い事だと思う。俺だって近所では京大行ったと思われてたし(自慢にならん)。


女の子の知り合いなんて居なかったし、当時は男女の区別がうるさく、小学校の時俺がみんなが掃除当番さぼって帰ってしまったので、仕方なく一人で掃除してたら、女子たちが手伝ってくれたのだが、こっそり見ていた男子たちが(あれ?この頃から俺ってイジメられてたんじゃね?)

「女の中に男が一人、恥ずかしないか、恥ずかしあるよ」と囃し立てたほど、“席を同じうせず“の風潮があり、男女交際とかはなかなか困難な中学校生活だったので、音楽のテストで歌が上手く、

「バンド?やるやる!」みたいな女子はペネロープ嬢しか思いつかなかった。


彼女に打診したところ、少し考えさせてと言われ、数日後に手紙が来た。流石恋愛脳らしく、3人の誰ともお付き合いする気は無いので。とか言うお断りだった。

おい、そう言う事ちゃうし!

タイプでも無いし。

岸辺はチェリッシュの悦ちゃん、人見はアグネス・チャン(当時香港から来たばかりで“ひなげしの花”が大ヒットした超絶可愛いアイドル。その頃と日本語が進歩していないのは驚くばかり)。俺は当時東海銀行のポスターに出てた酒井和歌子がタイプ。

なんかかぐや姫に振られた3人組みたいになってなんか凄く腹が立った。


しかしもう思いつく女子はいない。恐らく俺たちが彼女に振られた(振られてねえって!)事は、女子間に広まってる事は間違いないだろうし(この事は誰にも言いませんとか、手紙にはあったケドねえ)、

で、仕方無いので、声の高そうな男子を探すと言う荒技に出た。

「ほら、ウィーン少年合唱団だってソプラノだし」

いやそれは変声期までなのだが。

中二の時転校して来た奴が声高いとか言って勧誘したら、あっさりOKだった。結構乗り気で、白いギターまで買った。それベタすぎなんだが。

この夏橋くん(仮名)の加入でメンバーは4人となり、バンド名も理科の時間に習ってなんかカッコいいと言う理由で、

「フォッサ・マグナ」になった。


バンドは高校卒業まで続き、ライブはただ一回(幼稚園のクリスマス会で大コケ)。

まあ集まって練習(目覚し時計を30分後にセットして、ビートルズのHeyJudeのリフレインをベルが鳴るまで延々やるとか)し、近所の定食屋で親子丼を食べて解散。胃腸の弱い夏橋くんは毎回お腹を壊したが、止めようとはしなかった。


曲がりなりにもバンドやってたのは、同級生で3つしかなく、一つは抜群にエレキがうまい寺内くん(仮名)率いるバンドで、グループ・サウンズではなく、ローリングストーンズとか演る本格派。ただしバンマス寺内くんの下ネタにはついて行けなかった。もう一人は余り接点のなかったフォークバンドで、メンバー5人全員ギターと言う恐るべきバンド。一回しか聴いた事がないが、全員同じ様に弾く姿は鬼気迫るものがあった(後年スペインのバンド“ジプシー・キングス”を見たとき懐かしくなった)。


岸辺くんは楽器を持っていなかったが、俺の父は古道具屋巡りが趣味で、最初がクラシックギター。

次が古いエレキギター。フォークギターも買ってきたが、なんと12弦ギター。こんなの買わないで、中古のヤマハF18(当時1万8千円。今は状態がいいと10万位のもある)でも探してくれれば、今頃お宝だったのに。12弦ギターはジャラーンと鳴らすと綺麗な音だが、細かなピックワークが出来ず大味になる。グループ・サウンズではワイルドワンズがリードギターに使っていた。父は教会のオルガン奏者だったので家にはオルガンがあったが(俺も小学校低学年の頃習わされたが、こぎつねコンコンで挫折)、学生の頃ウクレレを弾いていて、いつかはギターをやりたいと言う野望があったらしく、定期的に古道具屋でギターを買って来ては仕事が忙しくてやらずに俺にくれる。と言うありがたい父だったのだが、いかんせん低予算なのでクオリティが低く、俺はバンドでは比較的ましな12弦ギターばかり弾いていたので、母は俺たちのバンドの事を

「ジャンジャカ」と呼んでいた。


当時ベースはなかなか中古が出ないらしく、俺たちはエレキギターをベース代わりにしていた。もちろんアンプなんてものはないので、新しいもの好きの父が買ったソニーのオープンリールテープレコーダーのマイク端子にエレキのコードを挿し、内蔵スピーカーから再生すると言う荒技を使った。ベースの弦に張り替えるとネックが曲がるので、ベースの1-2弦とエレキギターの5-6弦を張った変なバリトンベースだったが、そもそもテープレコーダーのスピーカーがそんなに低域が出ないので、丁度いいのだった。岸辺くんの弾き方は、コードの音を一小節2音で弾くと言うオーソドックスな奏法だったが、結構気持ち良かった。


これと俺の12弦ギター。人見くんのオルガン(後半ドラム)。夏橋くんの白いギター(主にリードギター)。これが俺たちのフォッサ・マグナだった(今回の章冒頭の“なんのために”は当時のレパートリー。後はPPMの“悲惨な戦争”とか)。

実は中学時代のともだちはこんなもの。後半バンドに加わってくれた、大阪から転校してきた花木くん(土曜昼は吉本新喜劇を欠かさず見るコテコテの関西人)は高校に入ってジャズ研でフルートを吹いていたので、中学後半だけの短い付き合いだったが、こんな事やっていて(当時はマジ不良扱い)、全員公立高校に合格したのは大したものだ(名古屋は一校を除き私立は公立より偏差値が低かった)。


ジョージ・ルーカスの“アメリカン・グラフティ”風に後日談でまとめると、岸辺くんとは音信不通。人見くんは大変な怪我をして、今は年賀状を交わす仲。未だ年数回会うのは夏橋くんだけだ。

もう一人中学の友達いただろうって?

佐竹とは音信不通だよ。察してくれよ。



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