第9話

夢の中いつも同じ 貴女の変わらぬ笑顔

「お砂糖は?」貴女が聞く 湯気の立つ白いポット

なにもかも昔のままの 貴女と窓の日差し

溶けて行く私の心に いつまでも差し込んで


エルシノアは快調に進む。買ってから初期の1000km点検と2サイクルオイル(寮の近くにはホンダの店は買った北白川の店しかなかったし、学校近くの店はなんかもう行きたくなかった。スズキやヤマハの店は他にもあったが、やっぱりホンダ純正を買いたかった。そもそもエルシノアを顧客に売ったホンダ店にしか、ホンダ純正2サイクルオイルなどあるはずもない)を買いに行く以外、バイク店に行く事はなかった。

やはりホンダは壊れない神話は本当だと思う。ホンダの人に聞いた話だが、スーパーカブが余りにも壊れない為に、ホンダの他のバイク全てにもユーザーが故障を許さない。他社のだと“まあ○○だから仕方ない”とユーザーが思ってくれるが、ホンダは厳しいユーザーに応える為、金属メッキ一つでも妥協できないとの事だ。

エルシノアも初めての2サイクルと言う事で、壊れやすいのでは?と憶測する人もいたが、実際に乗ってる者の意見を言わせてもらえば、これは紛れもなくホンダだった。

2サイクルと言う事で心配だった燃費も、CL50ほどは良くなかったが、まあ大食いと言う程ではなかった。

寮でスーパーカブ50(流星号)に乗らせて貰ったが、股の間に挟むべきガソリンタンクがないのは、結構頼りなかった。

エルシノアのタンクは他のバイクより細身で、よりぎゅっとホールドできるので好きだったが、ガス欠は心配になることがあった。


甲賀に入る。

滋賀県甲賀郡甲賀町。山を隔てた三重県の(伊賀)上野市と並ぶ忍者の里である。

ちなみに正しい読みは“こうか”。

古くは戦前の少年小説立川文庫の真田十勇士。戦後はTVドラマの隠密剣士(月光仮面の大瀬光一主演)、横山光輝の漫画、伊賀の影丸。そして白土三平のカムイ外伝で少年達はいつも忍者に憧れた。

“忍者部隊月光”と言う現代ドラマもあったなあ…。

俺は白土三平の“ワタリ”と言う漫画が一番好きだった。伊賀にも甲賀にも属さないワタリ一族の話で、前作のカムイ外伝が“抜け忍”を扱った作品であった事からも白土作品の、少年漫画なのに子供騙しでない設定の複雑さが、ませた少年だった俺にはしっくり来たのだろう。ワタリ少年の使う斧や無覚と言う特殊な手裏剣などは従来の武器と違いワクワクした。


よく集団の甲賀、個人技の伊賀と言われるが、仕事の都度パーティを作る出稼ぎギルド感覚の甲賀忍者に対し、伊賀忍者は武士である上忍に使える下忍。と言う主従関係でがっちり縛られていたので、小説や漫画にあるフリーランスで抜群の技術を持つ伊賀忍法の達人が活躍できる環境ではなかったようだが、上忍の服部家の中には相手に気配を感じさせない名人忍びの服部才蔵(霧隠才蔵)と言う者がいたと伝えられているし、甲賀忍びには、道なき道を樹々を飛び渡って進む“猿飛”と言う術があり、当時佐助は良くある名前なので、真田十勇士にこの二人が参加していたとしても不思議はない。


戦国時代、伊賀や甲賀の忍びは様々な戦国大名に使え、時には同族でも敵対する事もあったらしいが、基本的に彼らは派遣社員であるので、仕えた主家の滅亡時に、命を共にする事はなかったらしい。まあ戦さが始まった時点で彼らの仕事は終わっているのである。

主家と言えば、日本で最初に忍びを雇ったのは、聖徳太子らしい。日本に渡って来た渡来人の中に忍びの術を伝えた者がいて、その末裔が伊賀甲賀に住んだと言う。聖人君主の代表みたいな聖徳太子がドロドロした情報戦を指揮していたとは意外だが、太子の息子の山背大兄王は蘇我入鹿によって亡ぼされているので、あながち過剰防衛ではない。


戦国時代、忍者は一切表舞台には出てこないが、

2件だけ歴史に刻まれた事件がある。それは本能寺の変直後。

明智光秀の密書を携えた忍びが捕らえられ、主君織田信長の死を知った羽柴秀吉は、軍資金を全て制限時間内の到着ボーナスとしてばら撒き、兵達を走らせ、光秀が準備を整える間なく主君の仇を討ち、天下統一のきっかけを作った(岡山大返し)。

本能寺の変の時、徳川家康はお忍びのバカンスで堺でショッピング中だったが、本能寺の変を知るや、明智軍に追われる前に、あまり知られていない山道を伊賀者の先導で命からがら三河に戻った(家康の伊賀越え)。この功により、服部家は旗本となり、江戸城御庭番の任を承った。

大泥棒として釜茹での刑になった石川五右衛門も、秀吉を暗殺しようとした忍びだとする説もあるが、家族全員死刑(秀吉はこれが得意技。復讐を恐れてか?)になっているので、単身赴任が常識の忍者とはイメージが合わない。


もう忍者を意識せざるを得ない甲賀の町だが、特に傷ついた“くのいち”の美少女を助けたりする事もなく、なんかプラモデルを夢中で作ってた頃を思い出した。俺は接着剤付けが苦手で、どうしてもはみ出してしまう。低学年の頃一式陸攻と言う飛行機を初めて作った時、父に、

「戦闘を終えて、満身創痍で戻って来た飛行機のよう」と言われて凹んだ。

今考えると、ジオラマっぽくていいのかも。

甲賀には接着剤の工場があり、どことなく漂うそんな香りを嗅ぎながら、走っていった。


そして大好きな鈴鹿峠を下りる。ここは国道1号線なので、道はとても良く整備されている。名古屋と関西を結ぶ道路は、名神高速は走れないとして、東名阪道が名阪道と連結したが、これも自動車専用道なので小型二輪はダメ(名阪道を誤って小型二輪で走ると、覆面パトカーに乗った伊賀忍者の末裔に捕まると言う噂)。鈴鹿スカイラインは通れそうだが、有料の上地図で見ると物凄くカーブが沢山あって初心者の俺には無理がある。他にも何本か道はあるが、いずれも“酷道”と言われる酷い道らしい。

結局国道1号線か国道8号-21号線(彦根-関ヶ原-大垣)になるが、走って楽しいのは国道1号線の鈴鹿峠越えだ。夏なのにひんやりした空気を楽しみながら、適度なワインディングロードを走る。


古来多くの旅人がこの難所を登って京に入った。古い歴史では、ヤマトタケルの命が伊吹山で毒蛇に噛まれ、鈴鹿の峠を下って、現在の鈴鹿市辺りで息絶えた。と伝えられる。なんで故郷の大和に帰らんかったのかなあ?と思うが、神話や古墳の時代にも政治闘争はあったのだろうと思う。父帝に疎まれて、次から次へ各地に軍事派遣された人だからなあ…。


鈴鹿と言えば、鈴鹿サーキット。

俺は小学生の頃、日本グランプリジャスト世代で、式場壮吉のポルシェ914の圧倒的なパフォーマンスに対抗して、プリンス自動車がスカイライン1500のボディをストレッチして、グロリアの2000cc6気筒エンジンを押し込んだ急造のスカイライン2000GTで挑んだ第1回は多分2年生。富士スピードウェイに舞台を移して、ポルシェカレラ6とプリンススカイライン2000GTRの激闘。

プロトタイプレギュレーションになってからのポルシェカレラ10とプリンスR380の死闘は夢中になってテレビ中継を見た。

そしていつだって俺たちのヒーローは生沢徹。


日本ではまだF1グランプリは開催されておらず、ホンダが本格的に参戦して世界で戦っていた。他社を圧倒する強烈なパワーの12気筒エンジンはしかし重過ぎ、エースドライバーのジョン・サーティースに、中坊の俺は、

「苦労かけるねえ」と手を合わせていた。

なんで俺たち世代がモータースポーツにあの頃熱くなっていたかと言うと、それはひとえに、グリコのキャンペーンCMで火がついた

「レーシングカー(は当時の言い方。現在はスロットレーシングカー)」に全お小遣い、お年玉を突っ込んでいたからで、学校が終わってから(直接学校に持って行くのは禁止なので)家に帰って急いで隣町のおもちゃ屋にあるコースに自転車で行ったが、1時間50円だったので自分の愛車は走らせず、凝ってる高校生の“コイル手巻き強力モーター”とかの走りを見ている事も多かった。

俺は余りお金はかけられなかったが、マイコントローラーはお年玉つぎ込んで買ったなあ…。


1号線から23号線に分岐する辺りで、急に雲行きが怪しくなった。

前夜TVのヤンボーマー坊天気予報では京都は晴れ。名古屋も晴れだったが、途中はわからない。ポンチョ式のカッパは持って来たが、夏とは言え、ずぶ濡れはまずい。

そろそろお昼だから雨宿りがてら昼食にするか。

23号線を離れて四日市市街に入る。

そのまま進んで、石油コンビナート地帯に入ると、途端に空気が重くなるのだが、この元町と言う旧市街は、それほどではない。

さて、何を食べるか?

ガソリンが足りなくなったり、故障した時、沿線のバイク屋に預けて名古屋か京都に戻るため、なけなしの3000円を財布に入れて来た(当時の俺は使い過ぎない様に仕送りの銀行預金を1000円づつおろしていた。今思えば、この貧乏生活の反動がバブル期の超無駄遣い生活になったと思う。反省)。


「うーん、変なとこ入って高かったら困るしなあ…。ああここならいいか、ラーメン屋だしな。

“来来軒”か。なんだか漫画に出てきそうなベタな名前だな。あれ?違った“来来憲“か。なんでこんな名前に…」

俺は、いかにもな中華料理店の暖簾をくぐる。

「さて、ラーメンはと。あれ?あれ?」壁には

「名物大トンテキ」の張り紙。

「グローブトンテキ」とも。

繁盛しているお客の大半は、中華料理ではなく、何やらでかい肉と格闘している。

「すみません。大トンテキとグローブトンテキはどう違うんですか?」と店員のおねいさんに聴くと

「同じです。お客さんが野球のグローブみたいだとグローブトンテキと言うて注文しやる人もいますんで」イントネーションは完全に関西だが、微妙に違う伊勢弁で答える。


定食でもラーメンよりは高いが、京都や名古屋のトンカツ定食よりは安い大トンテキ定食を注文する。

出てきたジュウジュウ言ってる肉塊を見て絶句した。

確かに少年野球のグローブくらいはある。大きさも厚みも。筋切りの為に切れ込みを入れているので、焼くと指を入れるところみたいに割れる。

分厚い!

頬張る。噛みごたえあるが固くて噛み切れない訳ではなく切れる。

弾力があってうまい、焼いたニンニクもいい。タレもただのソースじゃなくて、バーベキューソースの様で、それでいて和風の様でもあり…。りんごとか擦って入れてるのか甘みもある。これご飯に掛けるだけで食えるなあ。


何か食感が初めての肉なので、壁の説明を読む。

「ふーん、肩ロースか…、初めて食べる。筋がありそのまま焼くと丸まるので筋切りをして焼くとグローブ型に、か。肩ロースはロースやバラより安いので(注:当時は)、大きなお肉を提供できます。と」

正直豚肉としては、こんな旨い食べ方知らないなあ…。また来よう。

俺はすっかり満足して店を出る。

(四日市大トンテキは、来来憲店主が体を壊して廃業した後も、暖簾分けした弟子や元常連が各地で開業。本店店主も回復してべつの町で営業。B級グルメの祭典“B-1グランプリ”で注目を集め、四日市の多くの店でメニューとなっており、現在は四日市名物となっているが、当時は地元四日市の人しか知らない一店だけのグルメだった)


その後は幸い雨も上がり、産業道路である23号線=名四国道を走り、揖斐川、長良川、木曽川(木曽三川)をまたぐ大鉄橋を渡って名古屋に帰った。

産業道路だけあって、日中から大型トラックがビュンビュン走っており、路肩に寄るとそのまま車間すれすれに追い抜いて行く。風圧でよろめくほど。

かといって左車線中央を走ると、前後と右をトラックに挟まれて将棋の詰み状態。

と言う有様で、今回の帰省の行程で一番神経を使った(現在は、大型トラックは原則中央車線を走るという23号線ローカルルールが徹底し、またこっちも海千山千になったので、単車でもそれほど怖くない)。


実家に帰ると母が洗濯物を取り込んでおり、

「今年は早いお帰りだね。ええっ!バイクで帰ってきたの?」と驚いた。

そうだよ。と、なんでもない風に答えながら、顔は達成感でいっぱいだった。

これが俺の初めての長距離ツーリング。

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