第8話

道すがら野の花を摘み

春を待つ貴女に贈る

今年も私の心に

変わらぬ愛の証


伝統文化の中で生きる京都人だが、実は新しいもの好きだと言われている。

そして一度気に入ってしまうと、そのライフスタイルを変える事はなく、次の伝統になる。

寮の食事に、ある日和菓子がついた。

いつもは予算ギリギリなので主菜副菜にご飯と味噌汁というシンプルなもの。お菓子など付くのは初めてなので、寮母さんに聞いて見た。

「今日は水無月を食べる日やさかい」

6月が水無月と言う旧名をもつ事は知っていた。

その半透明な三角形の求肥のようなものに餡が包まれてうっすら見える和菓子は、いかにも涼しそうだった。

水無月の晦日。旧暦なので、現在なら7月の終わりごろか?太陽光線が一番強い夏至が6月下旬なのに、何故暑くなるピークは8月なのか?と言う事を中学の理科で習った気がする。大気が暖まるのにそれだけ時間がかかると言う答えだったと思うが、とにかく、さあ梅雨も終わっていよいよ夏本番!と言う時に氷に模した和菓子を食べて涼を取る。と言うのはオシャレだ。冬の雪を氷室に保管する氷は、大変貴重で、将軍くらいしか口に出来なかったと言うが、かつては帝にも献上されたのであろう。


江戸期になると朝廷は小大名ほどの知行は保証されたが、養う殿上人も多く、生活はかなり苦しかったと言う。見かねたお出入りの菓子屋が“お朝の餅”と称して大きな餡入り餅を、毎朝差し入れしたところ、帝は大変お喜びになり、

「お朝の餅はまだか?」と催促されたと言う。水無月もせめてお菓子で、氷を想起して頂き、帝に暑い夏を乗り切って頂こう。と言う思いがあったのではないか?

京都人は、天皇さんはちょっとあずまへ旅に行かれただけで、じき京都に戻って来はる。と真面目に思っている。陛下と言わずにさん付けなのも親しみを表しており、何かと裏があるんじゃないかと勘ぐられがちな京都人だが、こと天皇さんに対してだけは一途なのである。

そういう訳で京都人の思いやりの詰まった水無月はすっかり京都の食文化として定着し、土用の鰻より先に夏バテ対策のアイテムだった訳だ。


俺は当時

「水無月が終わる=水無月を食べる」と言う風習に京都文化の粋を感じて、やけに感心したものだった。名古屋人だって、立秋の前日(節分)には、恵方を向いてういろうを一本まるごと食べる風習があるのだが、京都に比べると品がない(この風習は嘘情報です。最近京都の菓子舗では、6月中ずっと水無月を売り出しているが、最後の日に頂くから情緒があるのだ。観光客にものを売ることしか考えてない最近の京都は下品)。


新しいもの好きな京都人は、異文化の吸収にも熱心で、日本で初めて路面電車が走ったし、伝統的な京料理とは別に、ラーメンも独自の進化を遂げた。京都で吸い物とか麺類と言うと、上品薄味が定番だが、学生時代に京都で食べたラーメンは全部濃厚系だった。トンコツとは別系統の白く濁ったスープ。鶏ガラを徹底的に煮込むらしいが、初めて天下一品を食べた時は、寮母さんに頼んで作って貰った白味噌仕立てのお雑煮を連想したが、もちろん味は違った(京都のお雑煮は本当に甘い。年始参りに行くと行く家々でこれを出され、結構苦行や。と寮母さんは言っていた)。

あと京都人はすき焼きが好きで、ご馳走言うたらすき焼き。家庭は元より、学生コンパ、寮の宴会。なんでもすき焼き。うちは両親が西日本だったので免疫があったが、割り下を使わず、いきなり砂糖と醤油をぶち込み、牛の旨味だけで食わせる関西風すき焼きに、東京から来た学生はカルチャーショックを受けていた。


前述したが、京都人の朝食のパン率は日本一と言われている。

トースト、バゲット、クロワッサン、サンドイッチ、菓子パン!

京都人と言うと、朝は柴漬でぶぶ漬けでも食べてそうだが、実はパンが多いそうだ。

しかしトーストは、食パンを買い置きすればいいが、バゲットやクロワッサンとなると、焼きたてじゃないと駄目じゃないか?フランスだと早朝から焼きあげて店を開けるパン屋でパンを買って朝食に食べるのが普通だそうだが、京都にそんな朝からやってるパン屋があるのか?

ある!と言うより、このパン屋があったから、京都人の朝食がパン中心になったとも言える。


志津屋

昭和23年創業。店名は創業者の堀信(まこと)さんの愛妻、志津さんから。

多くの店舗を展開している志津屋が、その辺のパン屋と違うのは、7時開店と言うところにある。近所の方が買って帰って間に合う時間。大阪に通勤する人が昼飯に買える時間。お弁当忘れた高校生が通学前に買える時間(注:コンビニなどまだない)。東京出張のサラリーマンが車内で朝食出来る時間。

夜も22時までやっているので、京都で仕事を終えた東京の方が、駅前店に飛び込んで夜食に新幹線車内で食べる話も多い。

志津屋に対する京都人の愛は、名古屋人のスガキヤへのそれに近い。


下宿時代、自転車で通学する道に志津屋があり、豪華サンドイッチを横目に見ながらパンを買ったものだ。

志津屋といえば定番はカルネ。

京都出身タレントの杉本彩さんが、カルネ愛を語っているインタヴューをみたが、まさに東京に戻る直前に飛び込んで、カルネがあったら買わずにいられない!と言っていた。

杉本彩さんにはクリスマスにバイト(また先輩が持ってきた話で、なんと聖歌隊!当日練習して本番、いいのか…)先のディナーショーでお見かけした事がある。変な女豹みたいなコスでデビュー曲を歌っていた。

カルネは丸い平べったい小さなフランスパンを横に切って、玉ねぎスライスとハムを挟んだもので、素材の味だけ。ある意味禅の境地を感じさせる味だが、京都人のソウルフードだ。このフランスパンの形と大きさには覚えがあった。中学生の時、母手作りの弁当を忘れた時、当時の中坊は小遣いが月500円くらいだったので、金がなくてパンが買えない。学帽に付けた校章に5円玉を3枚挟んであり、当時15円のフランスパンと給食の牛乳だけで情け無い昼食をし、帰って冷蔵庫に入れておいてくれた冷たい弁当を貪り食った。そのフランスパンにそっくりだったが、味は雲泥の差だった。東京でドンクが本格的なフランスパンを売り出す前に、京都にはこんなパンがあったのだ。


カスクートはもう少し食べでがあり、小降りのバゲットを丸まま使う(ハーフサイズもある)。

愛読書だった伊丹十三の著書(確か“女たちよ!”と言う題だった)に、カスクートとは明記されてなかったかもしれないが、“フランス人の昼食”と言うところがあり、フランス人は 長いフランスパンに縦に一本だけ切れ目を入れ、ハムとチーズを挟む。それだけが彼らの弁当だ。殆どパンだけ食べているようなものだが、パンがとても美味いので、副食は少しでいい。

と言うような記述があり、興味があったのだが、志津屋のカスクートはまさにそれ。カスクートとはパンの皮をパリッと噛む。と言う様な意味のフランス語だそうだが、本当にハムとチーズだけ挟んだパンが、十分な満足感を呼ぶ。

カルネにしろ、カスクートにしろ、本当にパンの味で勝負しており、志津屋は本当に大した店だ。


三条の店でカスクートとパック牛乳を買い、エルシノアに座って朝食。

一本路地に入ったので、誰もいない。

パンを縦に咥えて、ぐいっと引きちぎる。

ワイルドだぜ。

ハムとチーズだけ引きずり出てくる。

慌てて戻す。

かっこ悪いぜ。

食パンにすると4枚分(6枚切り比)ありそうなバゲットを牛乳で流し込み、エルシノアにまたがる。

これで昼まで保ちそうだ。


蹴上から山科を通って、大津に抜ける。

京阪三条から、浜大津に抜ける電車には、何度か乗った事がある。

京都の大学で勉強合宿とかをサークルで行う時は、大津にある三井寺の宿坊を借りる時がある。

俺は一回生の時だけ、映画研究会に入っていた。映画を作る人たちもいたが、なんか難しそうだったので、課題映画を鑑賞して感想を述べる。と言う会に参加していた。

一乗寺にあった“京一会館”が学生が多く通う映画館で、当時若者に絶大な支持があった藤田敏八監督作品、野良猫ロックワイルドジャンボ(プロ歌手デビュー前、大阪のクラブでリズム&ブルースを歌っていた和田アキ子主演)、八月の濡れた砂(主題歌を石川セリが歌った)、赤い鳥逃げた(桃井かおりと原田芳雄が最高!)、

バージンブルース(全裸で海に入る秋吉久美子に釘付け)などを見た。この映画館の人気があったのは、3本立てなどを平気でやるところで、安い料金で沢山見られてお得だった。


一度東映任侠映画“総長賭博(鶴田浩二、高倉健)全作オールナイト上映”と言うのに行き、切った張ったのヤクザ映画と言う事で

「待ってました!」とか一回生が声をかけようとしたら、静かにしろと怒られた。先輩達は、きちんと芸術作品(様式美)として鑑賞していたのである。

だが全ての作品で、当時売り出し始めていた川谷拓三が端役で切り殺される時だけは、歓声が上がった。

タバコの煙で霞んだスクリーンを10時間以上見続けた我々は、帰りは肩を怒らせて、風を切って、みんな健さんだった。


そんなサークルの三井寺での研修が終わって京都に戻る前、先輩が連れて行ってくれたのが、

「パラドス」と言うカウンターだけの狭い喫茶店で、おそらく当時殆ど無かった、紅茶の専門店だった。

ここで伊丹十三の著作にあった、きちんとした淹れ方で各地の珍しい紅茶を楽しんだ。

先輩の頼んだ紅茶を俺もと頼んだら、一口含んで吐き出しそうになった。

「なにこの煙臭い紅茶!」

スーチョワン(四川)と言う銘柄だったが、これが俺の初めてのプーアル茶だった。

その後俺は何度もパラドス(スペイン語で天国)と言う紅茶天国に通っている。

自分でも寮でトワイニングのダージリンやオレンジペコを缶で買って、寮生が上の部分を割ってしまって、捨てようとしていたサイホンコーヒーセット(当時コーヒーの流行は完全にペーパードリップに移行していた。サイホンはフィルターの管理を怠るとカビが生えるので面倒)を貰って、アルコールランプで湯を沸かし、ポットと茶こし(小さいやつをパラドスで買った。当時は一般的には大きい茶こしに葉を入れて上から湯を注ぎ、茶葉が開いたらOKと言う番茶の淹れ方をしていた)で入れていたが、スーチョワンだけはパラドスでしか飲めなかったからだ。


大津市を通り抜け、瀬田大橋を渡って甲賀に向かう。ここからは未知の領域だ。





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