第7話

熊懐勤太郎(21歳 夏)


凍りつく冬も終わり

東風(かぜ)吹いて雪を消したら

小さなこの家を出て

私は行こう貴女の部屋へ


初めてエルシノアで帰省したのは3回生の夏休みだった。

高速バスにしろ、新幹線にしろ、帰省にはそれなりのお金と準備がいる。

ちょっと飯でも食いに行こうか、王将にしようかそれとも珉珉か?という具合に簡単に名古屋には帰れない。

最悪な京都の夏を逃れて、実家に帰っても暑いのは変わらないのだが、とりあえずクーラー(エアコンと言うよりこう言った方が相応しい、集中型で各部屋に床置き式の機器が取り付けられていた。暖房共用だが、どちらも余り効きは良くなかった様に思う)があり、母のご飯が無料で貰えて、まあこんな楽な事はない。ただ結構田舎なので、街へ出るのは結構大変だった。


実家を出て名古屋駅前の有名な

「大名古屋ビルヂング」の森永キャラメルの看板を拝むのに、最短1時間半はかかる。

このビル名は、しばしば笑いのネタにされているが、これはこのビルの全国規模の所有会社が所有ビルに付ける名称であり、戦前はこの表記の方が多かった様だ。ただ“大”を付けるセンスはどうなのか?と言う気はする。“大日本帝国”と同じ匂いがする。

そもそも帝国を名乗る事すら結構微妙である。おくゆかしさを小泉八雲に激賞された、江戸-明治期の日本人にしては、ちょっと引く感がある。


帝国とは、ある王が隣接する王達を従えてその上に君臨する皇帝となった国の事で、大和朝廷の遠征期ならともかく、“王政復古”した天皇(天皇と言う称号は元々宗教的なものであり、皇帝=Emperorの意味はない)、つまり帰って来た国王の統べる国としては、帝国と言う名称は、かなり吹っかけている。

英国はイングランド国王がスコットランド、ウェールズ、北アイルランドを併合して、連合王国となっており、イングランド王がスコットランド王、皇太子がウェールズ王を兼ねる事で統一王国の体裁を取っているが、それぞれの国の規模が江戸期の各大名領を凌ぐ事を思えば、帝国と名乗って不思議はない。

神聖ローマ帝国は、オーストリア王を皇帝として、現在のドイツ、東欧の一部、スペインを領土としていたが、各地は諸国王、諸侯が統治しており、明治政府が規範とするべき、中央集権型国家と言うより、江戸幕府的性格だった。そう言う意味では英国の方が中央集権が進んでいるのに、植民地を含めた“大英帝国”と言う表現はあっても、国内では帝国は名乗っていない。


旧藩勢力を押さえ込んで一刻も早く統一を成すために日本が手本にしたのは、当時新興勢力として日に日に存在感を増していたプロシアだった。弱体化したオーストリア王家を蚊帳の外に置いた“小ドイツ主義”を唱えたプロシアが、明治維新の直後、ついにオーストリア以外のドイツ語圏を武力統一した際、真の多民族統一帝国だったオーストリア=神聖ローマ帝国に対して、言わば対抗意識でドイツ帝国を名乗ったのだが、これで文化言語がほぼ同一の国内だけの統一でも、帝国を名乗っていいんだ。と言う先例となった。

なので伊藤博文が明治憲法を制定した際、ドイツに倣って“帝国”と称したのは弁護の余地があるのだが、“大”だけはちょっと微妙だ。伊藤の性格から来ているのだろうか?いずれにせよ、この時期の日本の政治家は今に比べると、圧倒的に若いのである。

何しろ伊藤博文は10代の頃戊辰戦争に参加するまで、長州しか知らなかったのである。

「大きゅうなったけぇだ」

と言うのは素直な感想かも知れない。


しかし大名古屋ビルヂングの大は、もう少し別の理由がある。

昭和28年の「町村合併促進法」により名古屋市と周辺市町村との協議が始まり、

「大名古屋構想」が模索される。

戦前の名古屋は、西は豊臣秀吉生誕地の中村公園界隈。東はゾウ列車で有名な東山公園。

北は庄内川まで、南は名古屋港までの範囲内であった。

戦争中、上野動物園では空襲で檻が壊れて猛獣が市街に放たれる事を恐れ、動物を殺す事を軍部が命じた。他の都市でも同じ命令が下されたが、名古屋の東山動物園の園長は、せめて草食動物の象だけはと、密かに名古屋郊外の山野に象を匿い、命を救った。戦後子供達の願いにより、日本各地の小学生が、平和の使節として国鉄の用意した特別列車「ゾウ列車」で名古屋を訪れた。


この象が隠れていた郊外とは、愛知郡猪高村。後に名古屋市と合併して千種区猪高町。現在は名古屋市名東区。今は名古屋の高級住宅街で、象が放牧された頃の面影はないが、意味不明にアップダウンの激しい自転車泣かせの道路が当時を偲ばせる(どうせ荒野削って宅地にするならもっと真っ平らにして欲しかった)。

この他に戦後守山区(旧守山市)、天白区(旧愛知郡天白村→昭和区天白町)、緑区(旧愛知郡鳴海町、知多郡有松町、大高村がすったもんだで合併)がある。緑区の時は名古屋市が促進派、愛知県が反対派で、総理大臣を巻き込む騒ぎになったそうだが、結局緑区が誕生し、拡大版200万都市名古屋が生まれた(この時の後遺症か平成の市町村大合併の時は名古屋市は拡大されていない。日進町=現日進市には断られたと言う噂である)。

と言うわけで、大名古屋には歴史的経緯がある。


名古屋駅前の名鉄百貨店の隣にある名鉄バスセンターから名鉄バスに乗って、実家の天白区に向かう。地下鉄東山線で伏見乗り換え、地下鉄鶴舞線終点の(当時)八事から市バスで帰る方法もあるが、料金が高い。東京や大阪の電車代の安さが羨ましい。名古屋市内には、地下鉄の他、国鉄、近鉄、名鉄が一部運行しているが、いずれも競合して並行営業する路線がないので、安くする理由がないのだ。

2時間かかって地元に到着。

計算すると寮から京都駅に出るバスの時間と、この名古屋のバスの時間の合計は、新幹線に乗っている時間を遥かに凌駕し、高速バスの所要時間に迫っている。


地元の年寄りは、栄や名駅に行く事を未だに

「ナゴヤ(イントネーションは渋谷)に行く」と言う。高校生の時年賀状の配達アルバイトで自転車で年賀状を配った時、住所が“愛知県愛知郡天白村○○番地”の賀状があった。実家は戦前は名古屋じゃない街なのである(小学校一年の時転校してきた小学校校舎を、となりのトトロで発見)。授業中に教室に蛇が入って来て大騒ぎになり、用務員さんがコークスをくべるトングで器用に捕まえて、瓶に入れて焼酎に漬けたのである。蝮だったのである。三年生の時初めて市バスが開通して、旗を振って歓迎したのである。雉とか狸も普通には見かけたのである。名古屋駅がゴールじゃないのである。


とにかく名古屋の実家は遠いなあ。と言うのが感想でだった。同級生で岡山県に実家がある人などは、旅費を考えるとなかなか帰れないとこぼしていた。一度帰郷する前に京都駅で昼飯食おうやと約束したのだが、約束時間に彼は現れず(繰り返すが携帯もメールもない時代)、仕方なく一人で にしんそば食って新幹線に乗った。新学期になってどうしたのか聞いたら、

「すまん、旅費がどうしても足らなくて、朝から駅前のパチンコ屋で増やしてた。その日は一進一退で、夕方になってようやく旅費が出来た」とのこと。彼は生活費の一部をパチンコで稼ぐセミプロだった。


パチンコを知らない人のために説明すると、パチンコはギャンブルではないので、出た球はタバコ、お菓子、缶詰その他生活必需品と交換出来る。しかしどう言うわけか、パチンコ店の近くには、ライターやボールペン等決まった箱入りの賞品が異常に好きな人が必ずいて、小さな窓を通して現金で買い取ってくれるのだ。最初パチンコ行った時、ビギナーズラックで勝ったのだが、手渡された5本ほどのボールペンを貰ってウロウロしてたら、知らないおじさんが、

「にいちゃん付いて来」と言って、小さな窓に沢山のボールペンを差し出し、聖徳太子一枚と伊藤博文数枚を受け取り

「な?」と言って去っていった。

パチンカーの黄金時代、スリーセブンの頃である

(因みに俺は通算の獲得賞金が負け金額と同じになった時点でリタイア)。


と言う訳で、このどえらげにゃぁ遠い名古屋の実家までバイクで帰る。と言うのは、ちょっとした大冒険であった。浮谷東次郎が中学生の時、市川-大阪間を原付(当時は合法)で往復した事を綴った“がむしゃら1500キロ わが青春の門出”(この私家版を本田宗一郎に贈呈した事からホンダとの繋がりが出来たと言う)の1950年代に比べれば、舗装状態も道幅も遥かに改善されていたが、寮食堂の備品だった“アトラス”を見ながら作戦を練った。

「ふーん、蹴上から大津に出て、国道一号線で鈴鹿峠超えか…。で四日市で名四国道と」

距離から計算すると朝7時ごろに出れば、昼過ぎには着く計算だ。

飲み物は寮母さんが毎日食堂に置いて行ってくれる大薬缶の麦茶を水筒に確保と。喫茶店に入ると高いし、京都と違って自動販売機も少ないだろう。俺コーヒー余り好きじゃないしな(UCCの缶コーヒーは自販機で見受けられたが、サントリーが缶入り烏龍茶を発売する前は、そもそも甘くないノンアルコール飲料は自販機には無かった。宴会で下戸はバヤリースを飲んでいた時代。寮ではサイホンやペーパードリップでコーヒーを飲む寮生が多かったが、俺はその頃伊丹十三の本を読んで、缶入りの紅茶を淹れてアフタヌーンティを嗜んでいた。紅茶と洋モク目当てで部屋を訪れ、特に話題もなく、荒井由実を聞いて帰る寮生が結構おり、喫茶店のマスターになった気分だった)。


朝食は?

ちょっと贅沢するか。

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