第6話
長い前置きと簡潔な〆
悪い方の思い出は一つある。
寮には“ゲストルーム”と呼ばれた四畳半があり、押入れには布団もあった。寮母さんに届けを出すと、布団を干しておいてくれて、我々の敷きっぱなしの煎餅布団より、余程快適だった。
寮の部屋の衛生状態は使用者任せだったが、綺麗好きも俺みたいなゴミ屋敷もあるので、しばしばダニが発生した。
「某月某日、バルサンを炊きます」と告示が有ると、俺みたいな無精者でも紙くずなど片付け、食器を隔離する。火事にならない様にである(水に浸けるタイプはまだなかった)。
ダニはバルサン焚かれると隣の部屋に逃げるので、30室程あった部屋の全てで一斉にバルサンを焚く。空室や帰省中の人の部屋もマスターキーで開ける。妹の結婚式で故郷に帰った男(モジャモジャのヒゲをカミソリ3本使って、口髭だけにした九州男児は、全員に寮に侵入した不審者扱いされる程別人だった)の部屋を開けたら、レコードプレーヤーが回りっぱなしで、しかも針が降りていたので、白く粉を吹いていた。
この様に衛生面が保たれたゲストハウスは原則女子を泊める事は無かったが、彼女を自室に連れ込む奴はいた。夜、隣の部屋でコップを壁に着けていた奴らがいた事も言うまでもない。寮生は総じてモテなかった。
ゲストハウスのもう一つの使用目的は、音で皆の顰蹙を買う行為。有り体に言えば麻雀だった。
麻雀は当時の学生の社交として最もポピュラーなもので、俺は高校の頃友人のうちで麻雀をしたことがある。
麻雀のルールはそれ程難しくないが、集まった4人全員がうろ覚えで、別の友人に電話をかけて
「どっち回りで牌を取るのか?」を聞くと言うレベルで、それでもなんか楽しかった覚えがある。
一般的な高校生はこんなものだったが、当時テレビ以外にろくな娯楽のなかった家庭では団欒の為に食後に麻雀をやると言う
「家庭麻雀」と言う習慣を持つ家もあり、俺の伯父の家がそうだったのだが、泊まりに行くと
「勤ちゃんもやろうよ」2人の従姉妹に引っ張り込まれ、散々負けた。
「それでいいの?ローン!リーチピンフドラ3満貫だよ!」とか、宇宙人としか思えない言語で俺をいたぶる。
寮に入ると、毎晩どこかでゴロゴロと牌をかき回す音が聞こえ、俺もその部屋に遊びに行ったが、海千山千の雀士ばかりなので、参加することはなく、後ろで見ていて、当時イレブンPMで大橋巨泉がやっていた麻雀特集の様に
「あーーーっ!そこでそれを切る?」とか巨泉のコメントの真似をして嫌がられていた。
ある日、麻雀どころか、夜更かしをしているのを見たことがない寮生が入ってきて、俺の様に牌を後ろから見て、
「あ〜!その白くて何も書いてないやつ、予備ふだなの?それともなんにでもつかえるやつ?それと鳥みたいなやつ以外綺麗に3っつづつ揃ったねえ。白いのか鳥が出れば上がりなのかなー?」と呟いた。
宅を囲んでいた4人は牌を伏せ、卓に突っ伏した。
その寮生の部屋は麻雀していた部屋の真下だった。
それ以来流石にまずいだろうと言う事で、麻雀禁止になり、トランプしたり、卓球室で卓球したり。要は賭ける事が出来ればなんでもいいので、卓球などは俺も良くやったが、全力で打ち込んでくる球をゆるゆるのグリップでネット側に打ち返す“突っつき”と言うのが得意だった。でも一番強かったのは、後方に立ち、当時は珍しかったシェイクハンドで、丁寧にカットボールを返すカットマンで、あれには球が前に飛ばず、勝てなかった。
どうしても麻雀がやりたい奴らが目を付けたのが、ゲストルームで、寮生の部屋から少し離れた所、間取りでいうと玄関の上にあったので、麻雀の喧しい音が迷惑にならなかったのだ。
ゲストが泊まっていない時には雀荘と化していたのだが、いざゲストが泊まると布団がタバコ臭いと、寮母さんには顰蹙だった。
まあ、当時は大半の学生がタバコを吸い、従ってみんな部屋がタバコ臭いのが当たり前だったのだが。
さて、昼のうちにふらりとやってきて、寮母室でお茶を頂き、
「すまんのう」
と言いながら、ちゃっかり寮生の夕食を頂き(今日は要らなくなったと電話が来たり、午後10時過ぎても食べていない夕食は合法的に食べていい。ルールを守らず勝手に食べてしまう事を“盗食”と言い、寮会で厳しく追及される極悪非道の行いだった)
誰かの部屋で、大瓶のトリスを煽って、ゲストルームで倒れる様に寝るという、8回生まで勤め上げ、めでたく放校になった伝説の先輩で、俺たちは
「大御所」と呼んでいた。
大御所は今で言うフリーターで、金がたまると旅に出たりしたが、寮に来るのは決まって金のない時だった。
たまに披露してくれるギターと渋い声でかなでるブルースは、
「流石あの名曲を作詞した人」と思わせる演奏で、実は俺がソンガーシングライター目指したのも大御所先輩の影響があった。あの名曲とは、特に名を秘すが、京都の生んだ偉大なフォークシンガーで、友人の大御所先輩と酒を飲んでいるときに、大御所先輩が即興で口ずさみ、フォークシンガーがギターで伴奏した曲がベースになっている、彼のデビューヒット曲である。公にはこのシンガーの作詞作曲と言われているが、そんな経緯から、大御所先輩は某全国的歌謡系大賞新人賞のトロフィーを待っていた。彼に貰ったものだと言う。
俺が初めて大御所先輩にお会いした時、休みに父の工場でアルバイトした時に(番犬の紀州犬が賢くて可愛かったなあ。あんな犬が夜間放し飼いにされたら、ドーベルマン並みに防犯効果があるだろう。イノシシ狩りの猟犬だもの)貰ったお金を全部注ぎ込んで買った、自慢の茶木のウエスタンギターを二階の集会室でかき鳴らして歌っていた頃だった。誰も聞いてくれないコンサートだが、自己満足とストレス解消にはもってこいだった。レパートリーは一曲のみ。当時聞いていた(無理やり雑音と隣国のニュース放送の中で周波数を合わせて聞いていたTBSのパックインミュージック)ラジオで良く聞いていた、石川セリ(のちに井上陽水の嫁)の
「つぶやき岩の秘密」これはNHKの少年ドラマの伝説的な名作品で、当時ビデオテープは保管せず次の録画に上書きされていたので(超高かった)、数話しか残っていない作品の主題歌である。寄せては返す波の様な、3コードだけを繰り返す長いイントロが特徴で、歌が始まると2番で終わってしまう。
この長いイントロを延々と繰り返すと、一種のトランス状態に陥るので、得意になって毎晩弾いていた訳だ。まあこう言うギターかき鳴らしマンが何人もいたのだが、他の人は流石京都は本場なので、ブルースが多かった。
そんな頃、大御所先輩が酔っ払って、もう目がとろんとしているゲストルームに偶然行った(誰かを探していたと思う)時
「熊懐くん、君は何者だい?」と言われた。
なんて返していいか分からないので、
「いやーボクはただのお調子者ですよ」と言ったら、
「そうか、そうか」と笑った。気に入って貰えたらしく、可愛がってくれた。
寮祭(オープンハウスと呼んでいた。当時京都で有名なブルースシンガーを呼んでコンサートをしたり、大御所先輩自身が渋い喉で、あの名曲を歌ってくれたり、寮祭の思い出は尽きない。寮の大切な収入源で、俺もせっせとお好み焼きを焼いたり、ポスターを作らせて頂いたりしたが、一番収益が上がったのは、一回生からもうマスターと呼んでいい風格と多彩な料理の腕を持つ寮生が、卓球室で開いた居酒屋だった。
大いに寮財政が潤ったが、客の半数が寮生だったので、俺たちは貧乏になった。
ある年の寮祭の打ち上げで、踊り狂った客がPAのスピーカーを倒し(当時は細長い縦長のスピーカー2台と四角いミキサーアンプが主流)、腕自慢が弾いていい様に壁に立てかけていた俺の愛機茶木W−60(数字の通り6万円)の上に倒れて、ネックが折れると言う大惨事が起こった(これも悪い思い出だな)。すぐさま帽子が回され、一万以上カンパが集まったが、号泣する俺に、大御所先輩が
「前より良くなるから」と慰めてくれた。
前の年には酔っ払って転んで前歯を折った寮生に
「また生えてくるから」と慰めていたので、あまり信用してなかったが、茶木楽器(元々ウッドベース専門メーカーだったが、当時ギブソンスタイルのフルアコースティックギターやウエスタンギターを製作していた。憂歌団の内田勘太郎愛用のフルアコギターはChakiである。海外でもギブソン以上の仕上げに評価が高く、受注生産となったフルアコは三年待ちとか。ウエスタンギターは生産していないので、知る人ぞ知る知るお宝に)に話を付けて、美しい貝の象嵌で飾られた新しいネックになった。
この修理は実は半年くらいかかり(茶木が忘れていて、結果的にカンパ額で治った)、その間家から持ってきたクラシックギターしかなかったので、仕方なくボサノヴァの練習をしていたら、”花のようなエレ“他が出来た次第。
さてこの大御所先輩がある日凄い格好で現れた。珍しく飲んでいない。
カッターに蝶ネクタイ。
「先輩、食い倒れの人形ですか?」
「馬鹿言いたまえ、ボクは就職したんだよ」
一同驚愕。なんと京都で有名な某タクシー会社に就職し、寮住まい。既に二種免許も取得して客を乗せているらしい。
腰まであった髪も短めにカットし、侍の様に後ろで縛っている。会社的にはこれでいいらしい。
「大御所先輩!立派に更生されて…」嘘涙を流す我々に
「君たちもつまらん授業なんか受けてないで、うちの会社入りなさい」
このタクシー会社は、低料金、京都一高い運転手給与、充実した福利厚生で、業界の風雲児と言われる経営者が一代で作り上げた会社で、自動ドアではなく、運転手が降りて客のドアを開けるサービスが、観光客の心を鷲掴みにしていた。この会社を指定したり、運転手を指名したりするリピーターも多かった。
「うちの社員食堂ね。バイキング形式でいろんなもの食えて、従業員ただ。部外者も300円で食べ放題だぜ。その代わり取ったの残したら5000円」
当時歩いていける飲み屋や中華屋で散々飲んで食って
「じゃあお開き〜1000円オールね」とかの時代(就職して初めての、たいして美味くない飲み会で一人3000円。今日は安かったね。とか言われ、愕然とした俺だった)だが、300円で食べ放題は破格ではないか!学食だって300円だとうどんくらいしかない。
当然の事だが、俺ともう一人の寮生は後日この社員食堂を訪れる事になる。食事自体はそれほど感動しなかったのか、二度と行かなかった(近年懐かしくて京都に行った時何度か訪れている。高年齢で座ったままの運転手にあったメニューで、多分20代の当時は、揚げ物系がほとんどないので、余り感動しなかったのだと思う。今行くと京野菜を使った煮物等、年相応に嬉しい料理ばかり。最後に行った時は550円だったと思う)。
上賀茂と言う場所は余り行ったことがなく、寮にあったアトラス関西版で下調べしたのだが、結構道に迷った。こういう時は事故を起こしたりするものだ。今でこそ事故よりはましと思えるが、一旦停止違反で捕まった。
今回は免停ではなく反則金で済んだが、エルシノアで警官に止められたのは過去1回しかなかったので、(ガソリン給油口の蓋に付いていた、空気逃しのホースを“改造車じゃないか?と疑われた。お生憎様、買った時から付いていた純正の部品です)
反則金も痛いが、当時は新左翼思想の残り香が色濃く残っており、押し並べて学生は警官が大嫌いだった。地方公務員採用試験に落ちた先輩のところに警察官採用のパンフレットが送ってきて、先輩が悔し泣きする時代だった。
「随分高い食事代についたなあ」
後ろに乗ってきた友は、その日の食事を奢ってくれたが、5000円に打ちのめされた俺は、何を食べたか覚えていない。
これが俺のエルシノア史最悪の経験。
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