第5話

この角曲がれば

そこに君がいる

いつか君を待たせたい

そんな街角で


50ccから、125ccへのパワーアップは相当のものだった。

交差点で一番前に止まっていても、今までは後ろの車の邪魔にならない様に左側に寄って抜かせなければならなかったが、エルシノアは楽々と車の流れをリード出来た。京都は60km/hくらいまで引っ張ると、すぐ前の車に追いつくか、信号で止められるので、ナナハンに乗っていようが、ポルシェに乗っていようが、制限速度を大幅に超えた走りはまず無理なのだ。

車両の大きさ、オフロード車特有のブロックタイヤも安定性を感じたし、6速もあるシフトチェンジも、最初は面倒だったが、すぐもう一速欲しくなった。


当時京都のバイク乗りにとって、最も恐ろしいものは、市電の軌道だった。

日本で初めて路面電車が走った街、京都(最初軌道は車では無く通行人と混在していた。道行く人は誰も避けようとしないので、専門の職員が旗を持って電車の前を走り“電車が来まっせ!危のうおまっせ!“と叫びながら先導したという)。

高校時代は名古屋の市電で通学していた俺だが、大学に行く頃には全廃されていた。

京都は流石に市電発祥の地だけあり、徐々に縮小の途にあったとはいえ、通勤通学や観光客の足として、このチンチン電車は親しまれていた。


京福電鉄比叡山線(叡電)の元田中付近では、市電と交差する珍しい光景が見られ、一本バー型のパンタグラフ(と言うのは変だが、パンタグラフに当たる部分を、車掌がロープで引っ張って京福の電車が

惰性で進み、交差する市電の電線をやり過ごしたところで、またバーを電線に接触させる。という曲芸の様な事をしていた。

道路の中央に敷石を敷き詰め、そこにレールが敷いてあるのだから雨の日など、原付には恐怖なのだ。ましてや、冬の凍った線路…。考えただけで某所が縮み上がる思いだ。

実際電車が来ていなかったから、今こんな話しも出来るが、原付で交差点直進していて転倒した事がある。原付はキープレフトだから、普段は市電の軌道上を走る事はない。軌道には電車のいない時、車は走っていいが、まあ追い越し車線的に使う事が多かった。転んだ時は交差点で直進し、直交した線路で滑って。


前述の京福電鉄は普通の線路で、車の乗り入れ禁止だが、マッハ500の先輩は一度叡電の軌道を走って寮まで帰って来た事がある。終電後にやったらしいが、保線の人とかいたら危ないじゃないか!結構ハンドルが取られるらしく、もう二度とやらんと言っていた。普段はおとなしい先輩だったが、バイクが人格を作ると言うところがあるなあと思った。あんなナナハンを完全に食ってしまう2サイクル500ccを販売したカワサキは、凄い会社だなあと思う(しかもマッハ750も出したが、危険過ぎたのか短命だった)。まあカワサキに限らず、当時はパワー競争、スピード競争の時代だったのだが、エルシノアは、パワーの点では他社を圧倒する性能はなく、格上のスズキハスラー250は勿論、同じ125ccのヤマハDT-1にも煽られる始末。


しかしオフロードレーサーのデチューン版との触れ込み通り、悪路やスリップしやすい路面では抜群の安定性を感じる。

教習所では、“リーンウィズ”つまり人車一体、バイクの倒れる角度と、人間の角度が一致しているフォームが求められる。

ロードレースでは、人間の腕力ではコントロール出来ない部分を体重移動で補う“リーンイン”つまり極端にバイクより内側に体を沈めて曲がる。従って路面に擦り付けて、レーサーパンツの膝が破れるのでガムテープで補強してあったりする。

対してオフロード車は“リーンアウト”体幹は出来るだけ路面に垂直で、バイクだけ傾けて回る。悪路で車体のコントロールをするためだが、シートは低く、前傾姿勢をとらせないハンドル位置。

エルシノアに乗ってから、ヒヤッとする後輪のスリップにも、冷静に対応出来る様になった。


かと言ってオフロード走行を楽しみに行くか?と言えば、そんなナイスな未舗装路は近辺になく、当時は連れだって泊まりでツーリングに行く、と言う事自体頭になかった。元来団体行動が苦手で、旅行に行っても、次第に相手の一挙一動が気になって仕方なくなる。

多分俺は結婚には全く向いていないのだろう(そうだよ)。


そんな訳で俺の大学時代、バイクでの楽しい思い出は殆ど無かった。一度だけ、中間試験直前(二期制だった)、エアコンなどない、寮の自室で半裸で扇風機をガンガン回して、暑さにぼーっとなりながら、全く頭に入らない勉強をしていると(大学図書館で勉強すれば良いのだが、京都の“お鍋の底でお豆さんがジリジリ炒られてはるみたいな”日中に大学まで行くのは嫌だった)、

「熊懐!鞍馬行くぞ、鞍馬」

「鞍馬って、京福ですか?」

京福電鉄は途中から窯風呂で有名な八瀬や比叡山ケーブルカー口に向かう叡山線と、貴船、鞍馬に向かう鞍馬線に分かれ、最終的には福井にある路線と連結する予定があったのだが、実現しなかった。だから名前は京福電鉄なのである。なお俺の大学は、当時通学に使う国鉄(まだJRではない)と各私鉄の一つでもストライキで止まると、休校になるが、京福電鉄は当時条件闘争が厳しかったのか、最後までストが妥結しなかったので、人気があった。今の方はストライキで電車が止まるとか、想像も出来ないかもしれないが。


「いんや、バイクでさ」

「バイクで鞍馬ですか?先輩の好きな木野じゃなくて?」

鞍馬線の木野には京都精華短期大学と言う、当時珍しい共学制の短大があり(今は四年制)、当時京都の男子学生の間では、

「あそこの子は別格」扱いだった。デザイン科とか芸術系の学生なので、古着屋で買った和服を仕立て直した洋服。とか言うとお分かり頂けるだろうか?後は、黒ずくめのロングヘアに黒い帽子、当時よく聞いていた、カルメン・マキみたいな格好。まだ髪を染める習慣は殆ど無かったが。

木野駅前に“リトル・レアータ”というブルーグラスを聞かせる喫茶店があり、精華短大生の溜まり場になり、またバイトのウエイトレスも粒よりの学生だったので、先輩はしばしばバイクで通っていた。


一度興奮して、

「熊懐!聞いてくれ!今レアータにすごくハクい女がいてさ。窓際でタバコ吸ってたんだけど、ちゃんと吸っててさ」

当時男女問わず学生の喫煙は自立のシンボルだった(もちろん俺もチャレンジしたが、喉が弱く挫折。寮ではお客の接待用にラークを買っていた。新生やピー缶を吸ってる寮生が洋モク目当てに時々来る)。だが殆どの学生は肺に吸い込む事をせず、ぷかぷかふかすだけ。この吸い方だと、友達の友達の友達の…ツテを辿ってようやく別の葉っぱを手に入れても、ハイにはなれない(そうだ)。

「でさ、吸い込んだ煙を鼻からちゃんと出すんだけど、どう言う訳か片っぽうしか出ねえのよ。鼻詰まってやんの」

絶対に関西弁にならないと宣言している自称江戸っ子の先輩が、興奮して話していた。それってセクシーか?


話が脱線したが、寮に残っていた学生の殆どが、バイクに二人乗りして、鞍馬に向かう。

ハスラー、DT-1、バンバン、ダックス、スズキの750(マッハ500修理に出した店でなんと盗まれて、代わりに中古のスズキのナナハンを貰っていたが、4サイクルはイマイチ眠いとこぼしていた)、カワサキW1(メグロ譲りの右チェンジタイプの初期型)、カブ50(別の奴に“流星号”とレッグシールドに落書きされて怒っていたが、案外気に入った模様)、そしてエルシノア。

近くの酒屋でバヤリースとサイダーを箱買いして積む。鞍馬までは2時間近くかかったが、

山道を登るにつれて風がひんやりしてきた。

鞍馬なんて鞍馬天狗とか牛若丸しか知らなかったが、ヤナ場が作られ、川床で鮎を食わせる乙な料理屋があるのだが、貧乏学生達は、持ってきた瓶入りのジュースやサイダーを(当時の学生の三人に一人はスイスアーミーの十得ナイフを持ってるので、栓抜きは無問題)川で冷やして飲んだ。

水遊び?何人かがサンダル(洗礼者ヨハネが履いてる様な皮紐サンダルが流行ってた)脱いで川に入ったが、すぐ出てきた。指先を付けてみたが、冷たいと言うより痛い。

「勉強?そんな野暮はしねえよ、涼みに来たんだろ?」

帰ると夜だったが、風呂に入って(浴場があるのも寮の良いところ)、すっかりリラックスして寝た「勉強?まあ明日から」

これがエルシノアでみんなで走った唯一の思い出。石油ショック以降、ガソリン代も馬鹿にならない(しかも2サイクルは燃費が悪い)ので、大学への行き帰り以外は使わなかった。

ただどこ走っても、京都はいいんだよね。


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