第3話

君のその髪

陽だまりに光る

どうか僕を見てほしい

そして微笑んで


奔流の様に流れ込む走馬灯の映像を見ながら、俺は目をしばたかせていた。

「なんで売ってしもたんかなあ…」

関西弁で呟く。

物への執着が結構キツイ俺は、もう壊れてしまったiMacなどをまだ雑多に物置に放り込んでいるのだが(Mac miniと小型液晶モニタを入れれば、再生出来るかも?と)、バイクはそうはいかなかった。特に2サイクルはメンテが難しく、オールドモデルをレストアして乗り続けるには、技術とお金が要る。

ブツブツと言い訳を言いながら、俺はポーズを解除する為に、▷ボタンを押した。

夢設定のご都合主義?

そうなんだよ。ついてるのサ。


熊懐勤太郎(20歳 冬)

そのバイクには見覚えがあったが、見るのは初めてだった。俺が下宿生活していた頃、唯一の娯楽が

「平凡パンチ、週刊プレイボーイ」だった。

実家暮らしでは買うことが出来ない男性誌。

俺は人並な男子だったので、この大学を受験する前日、生まれて初めて新京極の映画館で日活ロマンポルノの

「一条さおり 濡れた欲情」と

「白川和子 団地妻 昼下がりの情事」と言う、後で考えると日本映画史に残る名作を見ているのだが、その頃は、そんな事より、

「18禁が観れる!」

だけだったなあ…。

平凡パンチでは、もちろんグラビア目当てで、ロマンポルノ女優の山科ゆりさんのグラビアがお気に入りだったが、突如全くの素人モデルのグラビアに、完全に目を奪われて、数回しか無かった彼女の登場を待ち望んでいた。

麻田奈美

この時代の女神とも言えるヌードモデルは、乳房を晒す写真集として、史上初の出版業界のトップセールスを記録。本名経歴は謎のまま、

「娘の美しい姿を記録したい」と言う母親の希望で写真家の青柳陽一が撮影し、平凡パンチに掲載して大反響となった。

股間を林檎で隠した有名な写真である(当時テレビでも乳房は平気で映されていたのに、ヘアヌードは絶対禁止だった)。

俺も大丸百貨店の屋上のブロマイド売り場で、巨大なポスターパネルを購入し、下宿に飾っていた。

貧相な学生下宿の唯一のインテリアだった。


俺はどちらかと言うと週刊プレイボーイ派で(記事が新左翼寄りで、当時の学生の指向にあっていた)、平凡パンチは麻田奈美が掲載されるときしか買わなかったが、こう言う男性週刊誌の裏表紙には、あたかも小学校の頃の週刊少年サンデーの裏表紙に、富士や丸石、ブリジストンの自転車(流れるウインカー!とかね)があるごとく、オートバイの広告が掲載され(後はマンダムとか整髪料)、その広告で下宿の頃、毎回の様に掲載されていた一台のバイク。


ホンダ エルシノア

ホンダが、モトクロスレース界での覇権を得るべく、極秘に開発していたモトクロスマシン。4サイクルが社是であった(本田宗一郎曰く“2サイクル?あんなポンプみたいなもん、エンジンじゃない”)ホンダで、モトクロスに参戦するには重量、パワーの面で、どうしても、2サイクルエンジンが必要だった。若いスタッフが宗一郎に無断で開発に着手し、雷が落ちるのを覚悟で報告したところ、

「勝てるエンジンを作れ」の一言で許しを得たと言う。

何しろホンダとして初めての2サイクルエンジンなので、教科書の様なオーソドックスなピストンバルブ方式だった。より新しいリードバルブ方式は部品の追加が必要で、その細かなチューニングや、故障リスクを考え、シンプルなピストンバルブ方式を選択したと言う。しかし流石にエンジンのホンダ。初の2サイクルエンジンを搭載したプロトタイプは、いくつかの大会で優勝し、スタッフに製品化のGOが出た。

レース車のCR125/250と公道走行可能市販車のMT125/250。

販売目指して、アメリカの砂漠を貸し切りにして、テストを繰り返していた時、スタッフが慌てる事件が起こった。

立ち入り禁止を知らず、勝手に一人のアメリカ人が自分のモトクロッサーをトランポに積んで現れたのだ。

「スティーブ、困るよ。今日は貸し切りなんだ!」

顔見知りらしく、現地のエージェントが静止するが、構わず男はスタッフに近づき、

「へえ、最近はホンダも2サイクルやってるんだ」

スティーブ・マックイーンだった。


こう言うのを週刊誌の特集で読んでたから、ホンダが新しい2サイクルオフローダーを発売する事は知っていた。

そのうち、TVCMで実際に砂漠をバイクで走り回るスティーブ・マックイーンの姿が放映された。

スティーブは当時日本のCMに出演依頼が最も難しいと思われたハリウッドスターで、独軍の軍用オートバイに似せた英車トライアンフで鉄条網に飛び込む

「大脱走」の名シーンで世界中の映画ファンに強烈な印象を与えたので、各オートバイメーカーはCM起用に躍起になっていたと思うが、この奇跡の様な出会いで、ホンダは新車の完成とCM契約の2つを同時に得た事になる。

骨折する事故を起こすまではレースに参加もし、その後も休日(オフ)はこの砂漠でオフロード走行を楽しんでいたスティーブは、強引にテスト車に試乗して、アルミ剥き出し未塗装のガソリンタンクが空になるまで帰って来ず、帰ってくるなり

「こいつを売ってくれ!」と言ったと言う。

かくしてCR250の最初のオーナーとなって、CMにも出演。と言う、ホンダにとってアメリカンドリームそのものの様なホントの話。その時のイメージか、当時の市販車としては異例のシルバー一色のタンク塗装。

そしてMTのタンクには、これも異例だが

「HONDA」ではなく、スティーブがレース中に骨折したレース場、美しい湖の湖畔にそのレース場はあるのだが、その湖の名が記されていた。

「Elsinore」


しかし雑誌を見ても、CMを見ても、何しろ寮の駐輪場にはスズキハスラー250もヤマハDT1もあったが、ホンダCL50に乗っていた俺は

「ホンダなら4サイクルでしょ」としか思わなかった。

だが、街角で駐輪していたエルシノアを見て、俺は麻田奈美以上にときめいてしまった。

北欧系のプラチナブロンドの美女にしか見えなかったのだ。

モトクロッサー特有のフレームになんと言うエレガントな外装!

その頃高校の頃の友人から、アメリカ版プレイボーイ、密輸?した無修正のを見せて貰った事があったが、ヘフナー好みのゴージャス美女の中でも、プラチナブロンドの美女はインパクトがあった。

「あ、プラチナは上だけか…」と思ったのは余計だが。


レースマシンCRのエンジンをただデチューンして、保安部品を付けただけ、と言うMTは、アマチュアチームがよくチューンアップして参加していたし、数年後には、なかなか2サイクルで参戦しないホンダの、4サイクルマシンでは勝てない小排気量の125ロードレースで、MT125をロードレーサーに改造したプライベートチームのマシンが、ヤマハ、スズキ、カワサキの2気筒ファクトリーマシンを抑えて年間最多勝を得ると言う椿事もあった。


ホンダの意欲作エルシノアが世界展開も殆どなく消えて行ったのは、決して不慣れな2サイクルによる故障などではない。ホンダらしく、故障知らずだった。まあ2サイクルを知らないホンダユーザーが、オイルを補給せず、エンジンを焼きつかせる事はあったらしいが…。

彼女の不幸は発売直後の、俺の1年の下宿生活の秋。突然日本を襲った、俺が寮に入る決断をした最大の理由、石油ショックのせいだった。

前述のカップヌードル頼りの生活で、便乗値上げという悪習が食料品を直撃した。

みるみる2倍、3倍に上がる食料品に、

「これ、昨日の倍じゃないですか」と抗議したら、

「じゃあ他の店で買いなはれ。よそも同じ値段でっせ」と言った婆あの顔は忘れられん。今日仕入れた訳じゃなく、昨日と同じ棚にそのままあるのに…。

石油と関係ないトイレットペーパー買い占めといい、クレイジーな時代だった。


この嵐の中で、銀髪の美女は消えて行った。

ホンダの2サイクルエンジン技術は後々の250、500ccクラスのロードレースレギュレーションに生かされて行くのだが、営業的には、ソフィア・ローレンをCMに起用した

「ラッタッタ」ホンダロードパルの大成功に貢献した。


当時の私はどうしてもエルシノア姉妹の妹、グラマラスな姉MT250にはない繊細さを感じる美少女、MT125が欲しくてたまらなくなった。

ここで前述した免許取得とバイク購入になる訳だが、当時の価格で15万は今だと30万くらいの感覚か…。

もちろん石油ショックは、実家の経済にも大きな影響があったと思う。私学に入れて貰えて、まあ仕送りは最小限でお願いしていたと思うが、さらに自動車学校費用とバイク購入費用を無心するには、時期が悪すぎた。







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