月光

@onoread

月光

 月光は夜になると姿を現す。淡白く光る月管を引き連れながら、ゆっくりと月から降りて街を這う。

 ラグビーボールを横にしたような、紡錘型の目をしている。その真ん中には、黒く太い一本の線が、割れ目のように描かれており、それが月光の瞳孔なのだという。

目の色には個体差があり、現在、確認できているものだけでも、赤紫や橙、緑の目を持つ個体がいる。月光の専門家たちは、あの「月のなか」には、銀色や白色の瞳を備えた月光もいるのではないかと予想を立てている。

 月光は、短い手足と細長い尻尾を持ち、四足歩行で街を這う。数百メートルほどの全身は、十億を超える細かな鱗で覆われていて、鱗は魚のように逆立っている。すべての鱗の裏からは、無数の月管が無限遠に伸び、「月のなか」と繋がっている。月管は学者によって呼び方が変わり、人間の持つ血管になぞらえて、月管と呼ぶのが主流だが、単に糸や、緒と呼ぶ月光学者も珍しくはない。

 月管は、それ自体の太さが数マイクロメートルほどの、微小なホースのような構造をしている。それらは「月のなか」から、月光の鱗の裏へと結び付いており、脈々と拍動しながら、月光に月液を送り込んでいるのだ。 

 月液の色に個体差はない。その色というのが、黄色を無理やり白くした、死にかけの太陽の絞り汁を思わせるものであり、夜の帳が降りれば、ぼんやりと光るのだ。

月液は、太く束ねられた無数の月管を通して、地面を這う月光へと送られる。まるで月からのデータ送信のように、束ねられた月管が同時に輝き脈打つ様子は、月から伸びたカーテンが、街を覆うように見えて美しい。

 月光に送られた月液は、月光の体内を循環する。透明な皮膚の表面にも流れるため、月光はまるで月液をいっぱいに浴びたかのように、温かで濡れた灯りとなる。

月光がゆっくりと移動するたび、月管は波打ち、脈々と光る。十メートルほどもある、月光の五本指の手足は、一歩ごとに何台もの車を踏みつける。しかし、月光の身体は大気のように軽く、全体重をかけたところで、車の屋根は一ミリたりとも凹まない。彼らはよく、高層ビルやタワーなどにはりついているが、人々が全く気にせずに夜の街を出歩くのも、自分たちには何の危害を加えるものではないと、小さいころから知っているからだ。

 それに月光は、朝になると消滅する。昇りたての朝日に当てられた月光は、白んだかと思うと透き通り、やがて良い夢のように、瞼の裏から消えてしまうのだ。

 そのようなものだから、月光とは何か、「月のなか」には何があるのか、といった疑問は、ヒトが文明を築き上げてから数千年、現在まで受け継がれており、未だに解決されていない。論争の激しい「月のなか」については、現在の学説では主に、月光の母体がいる母体派と、月液で満たされている海派の、二派に分かれている。

 母体派は、あの月管は緒であると主張する。月と呼ばれる、夜空に浮かんだ穴の向こうには、月光の頂点に立つであろう、月の女王が座していると言う。

 その女王が月液を作り出し、子である月光たちに、脈々と月液を送り込んでいるのだ――はじめ、そのように主張した母体派は、「では、月の女王は何を栄養源として月液を産生するのか」という、至極当然な指摘に沈黙を貫く弱さがあった。脳のなかのホムンクルスに始まる、無限後退から抜け出せないでいた母体派は、けれども今では、月液を栄養源とした、複数の生命体による生態系の存在を主張することで、一応の落ち着きを見せている。

 一方で海派は、幾多の月光すべてひっくるめて、ひとつの生命体なのだと主張する。「月のなか」は月液で満たされており、その中心に月核があるのだと仮定する。そこは細胞核のように遺伝子複製の場となっており、月核から抜け出した様々な遺伝情報は、月液の中に含まれる酵素タンパクによって転写翻訳され、機能を持つようになる。「月のなか」には、生命でいうところの組織や臓器という形で、生命維持に欠かせない、役割に特化した何かがあり、それらが協同し機能することで、「月のなか」は恒常性を保っているのだと説明する。月光とは、月核を頭脳としたときに、その手足にあたるものらしい。つまり月核は、月光を器用に使って、地球に探りを入れているのだ――海派はそのように主張し、「月のなか」にあると想像するひとつの巨大生命体を、月胞と名付けた。

 この二派の決着がつかないのは、人がいまだ「月のなか」を見ることが出来ないためである。人は航空技術を持っていたし、宇宙開発も進めていた。しかし、月は大気圏を出ようとも、宇宙空間に出ようとも、まるで世界それ自体に欠陥があるかのように、穴であり続けるのだ。

 アポロ十一号は、月面にたどり着く前に帰還命令が出されたし、アームストロング船長は、その生涯で一度も、月面を踏む機会に恵まれなかった。

 アポロの名を冠した宇宙船は、その後も十二、十五と打ち上げられたが、いずれも月にはたどり着けなかった。アポロ計画最後となった十八号は、乗組員が管制塔の命令を無視し、自力操縦で月を目指し続けたが、全員が餓死し、宇宙船それ自体が棺となった。世界一高い宇宙葬として話題になった、『アポロ十八号事件』以降、人々は月を目指すことを諦め、地上から月を観察する調査に切り替えた。

 月は動くことなく、一日中、人々の頭上に浮かんでいる。日中はただの円い深淵であるが、太陽が沈み始めると、徐々に白みが増していく。「月のなか」が月液で満たされていくのだという主張もあるが、当然ながら仮説にすぎない。とにかく、月が白い円を象った時、月の淵に、鱗で覆われた月光の指が掛かり、「月のなか」から尖った顔を覗かせるのだ。そのまま、ずるりと降りてくる。

 面白いのは、これが大気圏内でも、宇宙空間でも見られる現象だということだ。これには、数多の研究者が頭を抱えた。まったくもって、理解不能な現象なのである。

そもそも、宇宙空間に浮かぶ星の光を、地球で観測する場合、そこには必然的に、時間的誤差が生じる。

 それは人間が、光によって視覚を得ているという事実と、光の速度は、光速を超えることが出来ないという二点の事実によって説明できる。例えば太陽は、地球から光速で、八分かかる距離にある。それはつまり、太陽から発せられた光が、地球に、或いは人間の目に入り、網膜を焼き、視神経を発火させるまでに八分かかるということを意味するのだ。ゆえに地上の人々は、「今」燃えている太陽ではなく、八分前の太陽を見ているのである。

 さて、ここで月光である。人はかつて、国際協力プロジェクトの一環で、月と地球との距離を計測したことがある。超長基線電波干渉計と呼ばれる仕組みは、APEX・アルマ望遠鏡・サブミリ波望遠鏡・南極望遠鏡に始まる、八つの最高性能を誇る望遠鏡を同期させ、地球それ自体を望遠鏡に見立てるというものだったが、現代の地球が誇る最新技術を以てしても、月との距離は測定不能であった。というのも、どれほど倍率を上げても、逆に下げたとしても、観測する月の直径は変わらないのだ。

これでは話が進まないので、仮に月との距離を、三億光年とする。すると、降りてくる月光は、地球から三億光年もの距離を、泳いでやってくることになる。この時、地上の人々が見る月は、三億年も前の月であり、それは月光にとっても同様で、彼らが見る地球の夜も、三億年前のものなのだ。しかし、三億光年先の月から降りてきた月光は、現に今、夜の街を這いずり廻り、高層ビルに張り付いている。月光が高層ビルに張り付くためには、月光と高層ビルの時間軸が一致している必要がある。

要するに、月光は「今」、存在する必要があるのだ。

 そうなると、月はやはり、地球と全く離れていないのではないか。月とは天体ではなく、成層圏のオゾン層に存在する、オゾン濃度が希薄な穴ではないか――

しかしそれは、天体望遠鏡が否定する。幾万枚も撮影された宇宙写真。その中心には、深淵がくっきりと映っているのだ。円い闇の中に星々の明かりは一切見えず、代わりに、地上から見るのと変わらない大きさの月光が、無表情な瞳で、こちらを見つめているのである。

 勿論、視覚的な大きさは同じであっても、月光の周りの星々がそれを否定する。この写真では、月光はおよそ数十億光年近くの体長を持つことになる。

 地上では数百メートルのはずなのだ。しかし、その全てが嘘かであるかのように、月光は、月という宇宙の穴から顔を覗かせ、地上でもゆっくり這っている。彼らは何億か何京光年、あるいは恒河沙阿僧祇光年という無窮の宇宙旅行を楽しんだ後に、地球に降り立ち、家庭用自動車を軽やかに踏み、東京タワーに絡みつきながら、深夜も灯りが絶えない東京の街を見下ろすのである。

 研究者たちは考え、数年も数世紀も考え、ようやく導き出した解は、馬鹿らしくも単純で、最も簡潔なものであった。


彼らは地球に向かって、縮みながら降りていくのだ。




『月光は縮みながら、月から地球へと降りていきます』


 中学校の理科の教科書には、そう書かれている。地球の自転の仕組みや、昼と夜の違いに合わせて、可愛らしい月光のイラストも添えられているのだ。

 宇宙の果てにある月から、月光が顔を出している。その鼻先にはもう一匹の月光の尻尾があって、その月光は尻尾から頭に掛けて、急激に小さくなっている。そして縮み切った月光が、夜の地球に降り立っているのだ。


 人々は、毎晩月光を見ている。

 月光の生態を研究する大学院生や、月光写真家になろうと決断した会社員の男性、月光の奇跡を信じ、崇拝する月光教の信者たちが、熱い眼差しで夜空を見上げる。

もっとも、彼らは少数派である。大多数の人間は、自分が生まれ落ちたこの世界で、夜になると月光という名の怪物が這いまわる状況を、疑いなく受け入れている。

 月がゆっくりと、静かに光りだし、街を歩く誰かが声をあげた。月の淵に、鱗で覆われた指が掛かり、無表情な月光が顔を出す。

「ね、月の向こうにはさ、いったい何があるのかな」

 快活そうな女子高生が、夜空を見上げて呟いた。

「やっぱり、月光がうじゃうじゃいるのかなぁ」

「やめてくださいよ、気持ち悪い」

 彼女の隣にいた、黒髪の女子高生が顔を顰める。

「えぇ~、でも、それが一番有力な説なんでしょ?」

「さあ。私はあまり、月光には興味がありませんから」

 つんと澄ました彼女の頭上に浮かぶ月から、ずるずると月光が降りてくる。月から無数に伸びた月管は、まるで勢いのない滝のように地上を濡らし、二人の住む街並みを、ほのかに白くさせていく。

 頭上が微かに明るくなった。彼女たちの真上に、月光が降りてくるのだ。気が付いた少女は、月を見上げて両手を振りながら、おぉい、と声をあげる。

 月光は、彼女たちの頭を前足で踏みつけながら、ゆっくりと地上に舞い降りた。手で触れば確かに存在するのだが、頭に一切の重みを感じない。温もりの欠けた、ざらついた鱗の感触がする。

「あ~あ、行っちゃったぁ……」

 月光の一歩は、ゆっくりだがとても大きく、彼女たちを優に超えていく。鱗の裏から伸びた月管の束が、月液を循環させながら光り、幽かに夜道を照らしている。

「んん~っ! やっぱり行きたいなあ、月の裏側! ね、絶対にいつか、二人で行こうねっ! 約束だから!」

 黒髪の少女は、「ええ?」と眉を下げて嫌がったが、無理やり指切りされてしまい、深い溜息をつく。指切りをすると、いつか本当に叶ってしまいそうな気がしてくる。


 あの訳の分からない月に、私たちが――


 頭上の月を見上げれば、次の月光が顔を覗かせている。

 地上は昔から、この月光に照らされているという。

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