第301話、エピローグ・彼等が報われる物語を


 天空が絶叫を上げる。世界が悲鳴を上げる。生まれた『力』を受け止められず、一瞬の慟哭が発生した。


 同時に、空が砕けたように見えた。割れたようにも、酷く歪んだようにも見えた。見た者により表現は様々だが、そのとき確かに蒼穹は破壊された。


 この日一番の衝撃後、龍の神威は嘘のように止む。ライト王国とクジャーロ国を分断する龍罰を残して、何事もなかったかのように、優美な午後の空気が流れるほどに静まり返っていた。


 直後、壊滅的な被害を受けた王国軍には、吉報としてベネディクト・アークマン討伐がされたと伝達される。セレスティアの奇策を実行したアルトにより、見事に首を討ち取ったと知らされた。


 エンゼ教が廃教となり、宿願が叶った瞬間だった。古き『魔王』により始められた伝説の一つが、遂に終わった瞬間だった。


 凱旋は盛大に祝われる。


「アルト王子ィィィ!!」

「王国騎士、万歳ッ! 王国に光あれッ!!」


 軍を指揮したアルトを筆頭に、国家転覆を目論む怪物であったベネディクト・アークマンを打ち倒した戦士達が、民のひしめく大通りを進む。


 戦勝の行進しながらに馬上から手を振り、喝采を浴びせる王都の国民へ応える。


「……もう少しだ、踏ん張れ」

「はいっ」

 

 満身創痍のハクトもまた、アルトの隣を行き、笑顔で応えていた。


 続くバーゲンやジークもまた、既に活躍が喧伝されており、大きな歓声を受ける。火傷の痕や怪我が目立つジークなどは一際大きく。噂の魔術師は見当たらないが、それでも紛う事なき英雄達だ。


 しかし、中でも最も大きな歓迎を受けたのは、最後の騎士団だった。


「……あっ、見えて来たぞ!」

「黒騎士ぃぃぃぃ!!」


 自らの足で歩む黒甲冑の騎士。爆発する歓声は王国最大の危機を打ち破った英傑へ向けられる。偉業に相応しき音圧で出迎えられる。


 黒騎士に従い、騎士団もまた胸を張って馬を進める。団を率いる愛らしい少女は見当たらないが、王国の守護者達はこれからも正義を実行し続けるだろう。


「…………見えて来たな」


 王城で待ち受けるのは、レッド・ライト。そして王女セレスティアだった。どちらも晴れやかな笑みで勝利の戦士団を出迎えている。


「……よくやった」

「ありがとうございます」

「手柄を譲り、アルトを立てるのはいいが、周りは一層騒ぐであろう。真実を知っている者は少ないが、裏ではすぐに広まる」


 王位争いにセレスティアを担ごうという者等は、非常に多い。本人の意思に関係なく、とても多い。


 実際にベネディクト・アークマンを葬ったのがセレスティアであると知る者は、彼女こそが女王に即位すべきとまた息巻いている。


 王はセレスティアの真意は読めないまでも、アルトの戦果がどう響くかを懸念していた。


「上手くやります。ご心配には及びません」

「……上手くか」

「はい、上手く」

 

 そろそろ先頭のアルト達が、城へ辿り着く。宮殿で待つレラザなどは、歓喜に踊り出しているかもしれない。


 変わらぬ妻に内心で微笑むレッドは、ふと表情を引き締めて声色低く訊ねる。娘へと真実を問う。


「……ベネディクトの〈聖域〉を、わざと発動させたな?」


 〈聖域〉は初動だけとはいえ発動し、あの一瞬で、その時に祈りを捧げていた数百の命が失われた。


 レッドは娘へと確信した口振りで尋問した。報告では、ほんの僅かに到着が遅れたとのことだが、そのような過ちを犯す筈がない事くらいは、娘への理解がある。


 問われたセレスティアは、華やかな笑顔のまま答える。


「はい。民は自分達に実害があるのだと、明確に思い知らなければ、大きな声で騒ぐでしょうから。また下手にエンゼ教の信仰者が増えれば、何の火種になってもおかしくありません。いけませんでしたか?」

「……いいや」


 威厳ある面持ちを崩さないレッドは、娘の返答を受け、


「よくやった」


 とだけ、女神の如く微笑む彼女を褒め称えた。




 ………


 ……


 …




 その頃、遥か離れた南方の町で、食堂を営む女がいた。


 名前はイギー。夫を失って五十八の未亡人になるが、親から継いだ店を細々と続ける孝行者とも言える。


「……まだ開店前だ、よ」


 カウンターで巻き煙草を吸っていたイギーが、朝早くから扉を開けて入って来た少女に目を剥く。


「リリア……」

「お久しぶりです」

「良かったっ、生きてたのか……!」


 世情には疎いのか、イギーはリリアが王都で有名な剣聖という事も知らなかったようで、彼女の生存を心から喜んでいた。


 数ヶ月前、街から消えたリリアに何か不幸があったのだと勘繰るのは、あの男爵が主人ならば無理はなかった。


 イギーはリリアの近況や働き口など、詳しく問い詰めた。幸運にも恵まれた環境にあると知り、顔を見せた事を感謝した。


 思っていたよりも強い反応に驚きながらも、リリアは頃合いを見て開口する。


「……イギーさん、お母さんが男の人に貢いでいたというのは、本当ですか?」

「っ……!? 誰がそんな事をっ……」


 いや、一人しかいない。リリアにその話をするならば、あの男しかいない。


「……男爵に会ったんだね?」

「自分が渡した贈り物を男に貢いでいたと。私は誰の子かも分からないのだと言っていました」

「っ…………」


 真実を知っているであろう事は、イギーの憤然と歪む表情を見れば一目で分かる。


 リリアは急がせることなく、考え込むイギーが語るのを待った。すると呼吸を繰り返して胸を落ち着けてから、彼女は語り始めた。


「……あたしもリーナを雇った時は余裕がなくてね」

「…………?」


 求めている答えではなく、話の見えない身の上話から始まった。


「遠い親戚ってだけで雇ったんだけど、旦那も居なくなって、あの頃は失敗続きのリーナに辛く当たってしまったんだよ……」

「……母は感謝していましたよ?」

「だと良いんだけど、当時の心身共に疲れ切ったところを見た限りだと、そんなわけはないだろうね……。……だからこそなんだよ」

「何が、だからこそなんですか?」

「リーナの為に、本当の事は言えない」


 イギーの確固たる意志は、語調から強く感じられた。墓まで持っていくつもりだと、眼差しで語っている。


「たとえあの子の愛する娘だとしても、何があったかは絶対に言えない。なんでリーナが男爵から酷い仕打ちを受けても言わなかったって言ったら、それはリリアちゃんの為だからさ」

「…………」

「リーナが真実を一番知って欲しくないのは、あんたなんだよ」


 リリアがいくら願っても、イギーは頑なだった。決意は本物で、それはイギー自身もリリアの為を思っての黙秘だったのかもしれない。


「……じゃあ、これだけは答えてください」

「答えられるものならね」

「お母さんはあの人を愛していたんですか?」

「………………驚くだろうけどね。不器用でも一途な愛を示す男爵に、リーナも心惹かれたんだ。あの二人は恋愛で愛を育んだ末に、リリアちゃんを授かったんだよ」


 当時、リーナと生活をしていたイギーが言うのならば、これは真実だろう。


 つまり、リーナはその謎めいた男に貢いでいたわけではないと言う事だ。


 そこで、リリアの頭に推測が思い浮かぶ。得られた情報と各人からの発言を加味すると、母が貢いでいたという男は…………母を脅迫していたのではないだろうか。


 だと考えたなら、母が男へ金品を渡しても不思議ではない。


「…………」

「頭のいいリリアちゃんなら、何か察したのかもしれないけど、それ以上は止めてあげて。絶対にリーナは望んでない……絶対に」

「……また顔を出します」


 丈の合わない椅子から降り、頭を下げてイギーへ別れを告げる。


「………………リリアっ」


 去る少女を、イギーは躊躇いがちに呼び止める。


 何を言おうか決めていたわけでもなく、振り返って目を合わせるリリアへ、口を開けては閉じるを繰り返す。


 けれど、息を吐いてみれば、適当な言葉はスルリと溢れていた。


「……元気でやんなよ? 困ったらっ、いつでもここに帰って来ればいいんだから」


 後悔、贖罪、親愛、同情、使命感、イギーを動かしたものは自覚される事なく、それでも本心からリリアへ告げられる。


 受け取ったリリアは、母と挨拶に来た時のような温かい言葉に、懐かしさを覚えた。


「……ありがとうございます、おばさん」


 欲しかった答えは得られなかった。それでも最後は笑い合い、リリアは故郷を後にする。


 悲しき境遇を乗り越えたとしても、必ずしも報われるわけではない。欲す真実が、当たり前に手に入るわけではない。現実は困難の連続で、非常に複雑だ。


 それでも、大切な想い出と確かな繋がりを故郷に見る。


「…………」

「はぁ……」


 町外れの森で待機していたミストの上で、腹を出して寝ているレルガに溜め息を漏らす。金剛壁を目指す旅でも、辿り着いた先でも、よく見た馴染みの寝相だ。


 いくら何かを被せても、装いを正しても、寝息もそのまま器用に足で跳ね除け、自ら腹を出して何故なのかペチンとひとつ叩き、すぐに元の状態へと戻ってしまう。


「……レルガ、帰るから起きて」

「うぅ〜ん……オマエが代わりにやっといてぇ……」

「馬鹿を言わないで。起きるのはレルガにしか出来ない。さっさと起きて」

 

 あの時、母を失って父に捨てられなければ出会わなかった二人。あれが無ければ決して有り得なかった現在。別れて出会い、今がある。


 彼女等の物語もまだ道半ば。それぞれの物語はまだ続く。




 ………


 ……


 …




 帰還したリリアは心機一転。シスター服に着替えて王国の祝勝を記念したパーティーへ赴いた。


 会場へ到着して案内される途中、先を見てしゃがんだ黒騎士がリリアを気遣う。


「俺が相手をするから、リリアは休んでいてもいいんだよ? よく分かんない人達ばっかだから、疲れるでしょ?」

「そんなわけにはいかないです。黒騎士教の宣伝に打って付けなのですから」

「そう?」


 むしろ落ち着いた自分と違って、休んでもらいたいのはそちらだと視線で訴えるも、伝わった様子はない。


「早めに切り上げようか。セレスにもそれとなくお願いしてあるからね。なんかまた変な願い事されそうで怖いし……」

「気を付けましょう」


 黒騎士が会場となる公爵家所有のパーティーホールに入ると、注目は一気に彼へと集まった。


 誰も彼もが声をかけようと、目の色を変えている。特に女などは獲物を狙う肉食獣そのものだ。


 しかしまずは、先程まで話題を集めていた王族の元へ向かわせるべきだろう。黒騎士は噂の剣聖を連れてレッド・ライト王へ、簡単な挨拶を述べた。


「この度は王国の危機を回避できた事、そして長年の因縁に終止符を打たれました事、誠におめでとうございます」

「其方の協力なくしては、とてもではないが成し遂げられなかった。ライト王国を代表し、民を代理し、心より礼を言う」


 固い握手を交わす王と黒騎士に、心の中で拍手喝采が打ち鳴らされる。幻聴にて皆が聴こえていた事だろう。


「そちらの勇敢な剣士にも、礼を言う。謝礼を惜しむつもりは無い。また別の席で話そう」

「ありがとうございます」


 リリアへは頭を下げる事はなかったが、立場を尊重すれば黒騎士も異議は挟まない。


「現場にいた私からも礼を言う。龍という緊急事態に、よくぞ駆け付けてくれた」

「……胸騒ぎがしたもので。間に合って良かった」

「うむ。そこで差し支えなければ、どうやって龍を倒したのか訊いても良いだろうか。私達もだが、民が知りたがっていてな。締めが曖昧では、作り話と揶揄されかねない」


 アルトの疑問は、現在の王国民が抱く思いだった。


 龍を倒した例の異変。黒騎士は何を起こして、あのような事象が生まれたのか。気になって眠れない者は多い。


「一度きりの秘宝を使った」

「まさか……遺物か?」

「……そうだ」


 俯く黒騎士はその時を回想して、壮絶な龍との死闘に恐怖していた。


 それもその筈。現場で少しばかりの体験を共にしていたアルトは、これ以上ない同感を示す。戦いになっていた事自体が、奇跡だ。黒騎士も持てる力を全て駆使し、逃げながら、誤魔化しながらに、最強の秘宝を使用したに違いない。


「名前は?」

「……な、名前?」

「それ程の秘宝なら、名があるだろう」


 古いが故に名前が失われたか、はたまた使う事がなかったから黒騎士が忘れたのか、少しの間が空く。


「…………ミ、ギす……トレート」

「禁忌の秘宝〈ミッギス・トレート〉か……。確かに名前からも重大な危険さが感じられる」


 アルトも納得して、マートン公爵や王の右腕とされるジョルジュとも挨拶代わりの歓談。


 その後はセレスティアに案内されて、多くの貴族や著名人からの交流を捌いていく。


 白いドレスで参加する眩しいセレスティアを気にしながら、ぎこちなく黒騎士への売り込みを終わらせていく。


「伝説をまた増やされましたな、黒騎士殿」

「誇れるようなものではありませんよ」

「いやいや、龍殺し・・・など世界的に見ても、歴史的偉業以外の何物でもないでしょう?」


 もっぱら彼等が褒めるのは、龍を屠ったという功績。


「…………」

「…………」


 セレスティアとリリアは来る人来る人が、その話題を掲げる度に兜の目元を伺う。その向こうにある瞳の色合いを気にしている。


「倒せたのは、中の龍が手を貸してくれたからです。王国を救ったのは、あの龍ですよ」

「なんと……! 王国を救いし龍ですか!?」

「えぇ、でなければ私などでは歯が立たなかったでしょう。宜しければ真実を広めてあげてください」


 決まった言葉を返し、また貴族の一人を乗り越える。


 自宅への誘いも多忙を理由にセレスティアがそっと制し、女の誘いも自身の美貌で押し潰し、また七組を終える。


「そろそろお疲れでしょう。部屋を用意してあります。休まれてはいかがですか?」

「慣れていなくて申し訳ない。そうさせてもらおう」

「こちらへ。ご案内します」


 苦笑して提案されると、黒騎士は列となって挨拶待ちをしていた者等へ謝り、断りを入れてから会場を後にした。


 部屋に辿り着くと、鎧を闇に消して長椅子へ腰を下ろす。


「ふぅ〜……終わる気がしない!」

「必要最低限は済ませられたので、もう会場に戻る必要は御座いません。ゆっくりとお寛ぎください。今はそれよりも……」


 手際良く動くリリアがカーテンを閉じ、セレスティアが扉の鍵を閉める。


「——思い知らせる必要があります」


 錠をかける小気味いい音と重なり、厳粛に告げられた。


「っ……!」

「最早、看過すべきではないでしょう」


 表情が消えたセレスティアが、唐突な変化に慌てて居住まいを正したクロノの側へと歩み寄る。控える位置にいるリリアと違い、接触しそうな距離感まで迫る。


 隣に腰掛けて無言で見上げ、クロノの手を取って自慢の美貌にて圧をかける。


「犬猫の調教と同じです。我が物顔でいるそこへ、クロノ様の手で刻み付けるのです。でなければ、同じ過ちが繰り返される一途でしょう」

「…………」

「全てはクロノ様の思うがままにあると、余す所なくクロノ様の物であるのだと思い知らせるのです」


 それはクジャーロ国なのか、はたまた別の敵対勢力なのか、不穏な方向へとクロノを誘導するセレスティアに、リリアは不信感を募らせる。


 その絶大な力の矛先を、意図して歪めているように聴こえていた。


 一方でクロノは、冷静にその元凶の正体を訊ねた。


「……セレスは、俺に誰を躾させたいの?」

「私です」

「“私”!? 今の全部“私”の話っ!?」


 不穏な空気を醸して個人的な話をしていたセレスティア。驚きを露わにするクロノへ尚も説教の如く続ける。


「クロノ様は義務を怠っています。もう既に見過ごせない段階にまで至ってしまいました」

「信じられないけど、俺、叱られてんの?」

「なのでクロノ様には、私に手を出す練習をしていただく事にしました」

「勝手に決めちゃダメっ。そんな裁判に直結するような事案を一人で決めないでくれないっ?」


 真面目な表情の頬を赤くして、セレスティアは至って平然として諭す。


「ご心配は無用です。私と少しずつ治して参りましょう」

「病気みたいに言わないでもらえるっ?」


 揶揄からかわれているのだろうと思いながらも、瞳に情熱を燃やすセレスティアを前に、助けを求めてリリアへ視線を向ける。


「どう思う? いかに魔王って言っても、部下に手を出さないのは俺が悪いんだってさ。これが参謀なの信じられる?」

「リリアも王女様のお手伝いをします」

「っ……!?」


 既に逆隣で奮起していたリリアを目にして、クロノに“もしや非常識なのは自分なのでは?”という疑心が生まれる。日本の価値観に慣れていて、この世界でも疑問は感じなかっただけで、王国ではそうなのかもしれない。いや、そんなわけはない。だがしかし……。


 疑心暗鬼になり警戒しながら身構えるクロノを挟み、楽しげな二人は姦しく話しかける。いつもよりも口数多く、他愛無い会話を進める。


 都合が良いのか悪いのか、そこで王からの呼び出しを受ける事に。


「……ここにもお酒がある。ジェラルドに持って行ってあげようかな」

「ご自由に」


 後はセレスティアが対応するとの事で、二人を残してクロノは酒瓶を片手にカジノへ。裏口から入ると、そこには早速マルコの姿があった。


「マルコ、ジェラルドはいる?」

「うす、兄貴なら事務所にいる筈です」

「そっか、ならちょっとだけ味見しておきな。どうせジェラルドに全部飲まれちゃうから」


 差し入れと言って希望者へ、高級なブランデーの味を少しばかり分け与え、二階の事務所へ上がる。


「ジェラルド、お酒の差し入れだよ」

「……気が効くじゃねぇか」


 珍しく読書をしていたジェラルドは、ソファから起き上がり、早々にグラスを用意し始める。二つ。


「…………いつも一緒にいるあの影は今日もいないのか。戦ってくれたお礼を言いたいんだけど、まだいないの?」

「あいつはボスにビビって出て来ねぇよ。あんたの前には二度と現れないってよ」

「俺は何もしてないよね……。なんでそんなに嫌われたんだ……」


 龍を倒してしまった魔王に、ノロイは関わりの一切を拒絶していた。今頃は別荘と呼ぶオズワルドの元で、騒いで遊んでいるだろう。


「その紙切れを会長さんのところへ持って行ってやってくれ。マルコが嫌がってる」

「ヒルデ? 分かった。これから行くよ」

「まぁ、待てよ」


 ジェラルドはグラスへ注いだブランデーを置き、自分のグラスで飲みながら言う。


「……あんたがいれば静かでいい。少し付き合え」

「おっ、ならちょっと味を見てみますか」


 これもまた珍しくジェラルドはクロノへ酒を勧め、静かな内にいい酒を嗜んだ。味も申し分なく、いつまでも余韻だけで楽しめるほど香りも芳醇だ。


 香り立つブランデーも程々に、ジェラルドから預かった資料をヒルデガルトへ届ける事に。


 しかし商会本部にはおらず、午後は自宅で休暇との事で、そちらへ向かった。


「…………」

「すんません、すんませんね」


 庭で午後の穏やかな一時を満喫しているところへ、仕事を持ち込んだ魔王がやって来る。談話していた老婆の側仕えを下がらせたヒルデガルトは、言葉もなく視線で苦言を呈している。


「……ただでさえ王都が騒々しいと言うのに、休暇さえ満足に送れないのか」

「渡しに来ただけだから。カイン君に言われて、ここに持って来たの」

「…………あいつめ」

 

 意図を察したヒルデガルトは、それ以上は責めずに書類を受け取った。


「休みなら何か付き合おうか? 俺も時間あるんだよね」

「軍の凱旋に合わせて、稼ぎ時に最近は忙しかったんだ。普段なら付き合ってやってもいいが、今日は疲労を取る為にも早く休む」

「疲れてるところ申し訳ない……」


 休みの邪魔になる。クロノが帰路へ向けて歩み、ヒルデガルトへ別れを告げる。


「じゃあ、ゆっくり休んでね。また会いに——」

「おい、そこの馬鹿者」


 呼び止められて遮られ、どうしたのかと待つクロノへとヒルデガルトが歩み寄る。


「うん?」

「…………」


 席を立って一歩半の中途半端な距離まで歩み、相対すように腕組みして睨み上げている。クリクリとした切れ長の目で覇気を放ち、緊張感を漂わせ始めた。


「…………」

「………………な、なに?」


 威圧感を放ちながらクロノの顔をジッと見上げ、暫くの間も無言で視線を交わす。


 そして十分な時間を置いて、ヒルデガルトは睨むままに告げる。


「…………頭が高い」

「頭が高い……?」

「そうだ。やはり貴様は頭が高い」


 機嫌が悪いのか、更に目付きを厳しくされる。


 やはり休みを邪魔したのが悪かったのか、とりあえずクロノは少しだけ頭を下げての会話を試みる。


「じゃあ、こんな感じで————」

「————っ」


 しゃがむと同時にヒルデガルトが踏み込み、背伸びするように踵を上げた。背筋も伸ばして顎も上げ、一瞬だけ一点で重なり合う。


 触れてハッキリと分かる柔らかな感触。軽くながら初々しく唇を合わせられる。


「…………」

「…………」


 一歩下がって元の位置に戻り、目を丸くするクロノと目を合わせる。呆然とするクロノとは対照的に、先程となんら変わらないヒルデガルト。


 穏やかな風に煽られ、時も忘れて視線を交わらせる。


「…………私は休む。もう仕事を持ち込むな」

「あ、はい」


 少しばかり見つめ合うも、キスに言及する事なく屋敷へと戻っていってしまう。


「………………うんっ?」


 取り残されたクロノの疑問は当然ながら晴れない。


 しかし、いつまでも呆けているわけにもいかず、ヒルデガルト邸を後にする。


 誰も彼もがいつもと様子の異なる気がするクロノは、アーク大聖堂の時計塔の上で悩んでいた。沈み行く夕陽を眺めながら、女心をあれこれと想像していた。


「ふむ……」


 すると、背後に軽い衝撃を受ける。


「と……」

「…………」


 カゲハが背中から抱き着き、何も言わずにいる。


 これもまた珍しく、初めての事だった。


「…………」

「どうしたの? なんかモリーに嫌な事された? お爺ちゃんだから若者の心の機微が分からないんだよ。新人にも当たりがキツイし……」


 思い当たるのは、自分よりも女心に理解のない老骨だけだった。


 けれどカゲハは、涙声にも聞こえるか細い声で言う。


「……主は、傷付いてはいけません」

「…………」

「カゲハは救ってもらいました。だから主が傷付く事は、あってはなりません」


 弱々しく告げられるカゲハの発言を聞いて、仲間から感じた違和感の真相にようやく思い至る。


(あぁ、そうか……みんな、慰めてくれてたのか)


 組織では、龍と魔王の間に何があったのかは知れ渡っている。


 知っていれば、魔王が無理をしているようにも見えるのかもしれない。気落ちしているように見えたのかもしれない。


「……あれは…………確かに助けなくちゃいけなかったね」

「っ…………」

「俺は神様じゃない。当然、できる事には限りがある。それは理解してる。でも俺の知らないところで失われた命じゃない。まだ手の届くところにあった。目の前にいたヒューイあの子くらいは救えなきゃいけなかった」


 ところが、結果を見れば、助けられたのは自分の方だ。


「…………」

「主はっ、傷付いてはいけません……」

「泣かないで? 大丈夫だよ。俺はもう前を向いてるから」


 悼む気持ちは持ちながらも、悲しんでばかりではいられない。不甲斐なさを嘆くのは容易だが、険しくとも失った命の為にも前進しなければならない。


「この世界には色んな力がある。道具も。その中にはきっと……」


 どうすれば手が届いただろうか。


 声無き悲鳴は確かに聴こえていた。助けを求める心の叫びは確かに受け取っていた。


 親子の嘆きと縋る思いを背に、それでも救うどころか子自身に決断を選ばせてしまった。このような事は、もう二度とあってはならない。


 その為には……。


「…………」

「カゲハをお役立てください……」

「ありがとう。心配かけちゃったね。魔王、反省」


 おどける魔王にいつもの明るさを感じ、やっと離れたカゲハがクロノを見上げる。


 夕陽の黄金こがねを受けるクロノは、驚くほど優しげに微笑み、カゲハを見ていた。


 安心させるだけに足る時間を見つめ、それから沈む陽をまた眺める。


「…………」

「ただ次は…………次こそは、英雄が報われる物語が見たいよね。やっぱり、笑顔で終われる幸せな結末が一番だ」


 強者が溢れるこの世界で、この美しくも醜い世界で、愛するこの世界でかくも憧れる王道の英雄譚を。


 鮮やかな茜色の空を眺め、目に馴染んだ王都を見下ろし、今ふたたび奮い立って決意した。


 その思いに応じたわけではない。けれど新たな巨悪は各地で目を覚ましている。英傑やその卵もまた然り。物語に困る事はない。


 次の物語は、すぐそこに……。

 







〜・〜・〜・〜・〜・〜

第一部『エンゼ教編』完結



これにて、第一部が終了です。

ここまで読み切った方に感謝を。完結までお楽しみいただけたなら、続きも期待していいかもしれません。あくまで私の“面白い”を表現したものではありますが。

それでは、また会う日まで。ありがとうございました。



・今後のこと

第二部『勇者伝説編』仮は、また時間を見つけてまとめて書いておきます。多分、掲載する。書くのはやはり好きなので絶対に書きますが、先の事は分からないので。おそらく次からは章を丸々一気に公開すると思います。


・ギフトについて

根気強くサポートしていただいて、ありがとうございました。ただ暫くはまた潜むので、当面は結構なのでね。限定にあるものを読みたくなった時にでもギフトして楽しんでくだされば幸いです。


・コメント返信について

再開時から全てに返信するつもりでしたが、余裕がなくてできませんでした。なので少しずつやっていこうかと思っています。

ただ、最後まで読んだ方で楽しんでいるであろう方のみが対象です。作者にとっては残っている読者さんが正義ですからね。当たり前ですけど、読まなくなった人に返してもしょうがない。更に厳選して返し易いものに限定させてください。


・この前の近況ノートでの注意事項について

無視してくださいと明記してあったら、本当に無視で大丈夫ですので。納得できる根拠が気になる方は、また近況ノートにでも記載しておきます。……するまでもなかったら、止めておきます。


・旧十章『ラルマーン共和国訪問編』及び、限定ノートにある旧版五章九章について

公開を求める声が以前からありました。ギフトできない方もいらっしゃるので、正直……限定の鍵を取って公開する事も考えたんですけど、ゴチャゴチャするのが私は嫌だなと。予定を変えて今のお話になった事で、変更された設定やいなくなったキャラがいるからです。同時に存在する状態を、あまり好ましく思っていません。いや、めっちゃ好ましく思っていません。

それと、旧十章に関しては改稿して二部で使う予定があるので、限定にも載せていません。


こんなところかな…………はい、という事です。カルパスを食べながら失礼しました。また何か変化がありましたら、ナッツ食べながらご報告します。

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