第300話、物語の結末

 最強種の規格は、この世界の許容量を超えていた。物質が耐えられていない。生命が吊り合っていない。


「…………」


 遥か遠方、場所を変えてまた変えて、龍と魔王の激突が起こる度に遠ざかった末の山脈から見下ろす世界異常。


 セレスティアが見る視界の全てを、炎が満たしていた。ただの炎ではなく刑罰の火。森羅を燃やし、時を超えて焼き、滅するものなき世で猛り続ける。


 本日に神殿へ集まった全員が結集したとしても、あの飛び散った残火の一欠片で焼滅するだろう。それだけ龍の火は特別なものだった。


 これだけ離れて尚も肌を焦がす熱波に、黒い鎧姿で成り行きを見守る。確かな不安を抱えながら、静かに終結を待つ。


『…………よもやまさか、龍がこれほどの存在だったとはのぅ……』


 崇め、仰いで怯え、震え上がるのは生物も魔物も同じ。地上に存在する者として、絞り出した声を震わせるモリーも龍には心から平伏するのみだった。


 想像を絶していたというにも程がある。体熱でさえ世界を破滅に導けるというのに、更に上回る息吹きがあり、遥か超越する龍罰がある。


『私は…………ここまで龍と戦ってみせた魔王様にこそ、驚かされました』


 マヌアにとって恐怖なのは、人族そのものの魔王が龍と渡り合っていた事だ。初めの開戦から今に至るまで、殺されたと何度確信したことか。


 それでも二人・・の想像を上回り、覆し続けた。龍の上を行った。


 しかし、龍罰を目にして三人・・は確信してしまう。


「…………」

『気持ちは分か……いや分からんが、アレは受けてはならなんだ。己の肉体を過信した陛下の負けじゃ』


 自然現象としての燃焼を超えた『火』。火という概念の始まりにある真の『火』。原初の『火』。

 

 『火』を防ぐ手立てはない。事象も環境も耐性も硬度も無関係に燃やし、物質非物質に限らず強制的に完全滅却してしまう。


 認めたくはないが、腹立たしくもセレスティアも同感だった。


 龍の繰り出す全てが破滅的。だが息を呑みながらも、魔王はやはり魔王だった。あっさりと受け止め、避け、上回った。


 だが龍罰だけは受けてはならなかった。


「…………」

『これ以上は目をつけられかねん。儂は去る』


 どうしようもなく加速する鼓動。確信する自分を裏切ってくれと、願うセレスティアは忙しなく騒ぐ心臓に手を当て、ジッと炎の巨影を見続ける。


 モリーは放っておくのも決まりが悪いと付き添っていたものの、龍の関心を買っては最期。決した勝負に背を向けて、棲家へ帰路に就く。


「…………」


 兜の下にある無感情な瞳から、涙が落ちる。


 セレスティアが絶望した。その高度な智慧がクロノの死を確信して、最終的な答えを出してしまう。膝から崩れ落ち、魔王の死を受け入れてしまう。


『……王女様』

『…………』


 憐れむマヌアに、居心地悪く骸の頬をかくモリー。限度知らずに賢いだけあり、何を考えているのか分からないセレスティア。


 けれど予想外にも人並みの感情で失意に晒されている。かけられる言葉はなく、気遣う声も上げられず、人外の二人は自ずと沈黙していた。


「………………————」



 ————滅尽の炎を、極大の黒力が蝕み始める。



 『火』の瞬間焼却を上回る途方もない魔力を放ち続け、漆黒が龍罰の中心を持ち上げる。徐々に増大し、膨れ上がっていく。


 直下の土台から発生した濡羽色の魔力が溢れ溢れて、龍火を押し上げ、緩やかな螺旋を描きながら吹き飛ばす。


 中央付近の滅炎を、漆黒の柱が押し退けてしまう。


『馬鹿なっ!! このような魔力は、あ、あり得ぬッ……!!』

『…………』


 舐めるなとでも言いたげに、三名の浅はかな推察すらも捻じ伏せる。跳ね除ける。


「…………」


 その闇色の叱咤は温かな光となって、乙女の心中に射し込んでいた。


 一方で、


『…………』

「…………」


 舞い降りた龍天使・マファエルは、空から魔王を見る。


 無限の魔力を用いて『偽物如きが』と龍罰を打ち上げ、黒い渦巻きの残滓を漂わせ、中央の一点に悠々と立つその男を。


 本来なら魔力すら燃やし尽くす龍炎を、止め処無く解放した魔力による物量で消してしまった、もう一つの『魔王』を目にする。


 それでも、マファエルに恐怖は無かった。


『……あなたは私を倒せません』

「まだ言うのか……。やれる事は一通りやったんだろ? でも俺を傷付ける事すらできていないじゃないか」


 魔王は嘆息混じりに言うが、今の発言こそがマファエルに確信させている。


『あなたは、私を殺せないでいる』

「…………」

『私が諦めるよう、選択肢を奪うような戦い方をしています』


 魔力による苦痛を与え、天使の部分を苛み、いかなる攻撃手段も無駄と教え込む。それだけだ。


 そこに殺意を感じる事はなかった。ノロイから向けられていた害意や悪意はなかった。ネムがアークマンに向けていた殺気はなかった。


『あなたは、私を殺せません。殺そうとしていないのだから』

「…………」


 指摘された魔王は…………長めに目を閉じて、改めてマファエルへ告げた。


「……殺せるわけがないだろ」


 微かに語気を荒立たせていた。


 それはマファエル天使に当てはめられたものではない。


はただ、母親を探していただけなのに……」


 ヒューイの目的はただ、母親を連れて故郷へ帰る事だったのに。


『ピュイ……』

『……こいつ、かあちゃん探してる』


 人間の勝手で突然に母親を奪われて、けれどそれでも、どうしようもなく会いたかった。


『かあちゃんの匂いを辿って、ずっと旅してる』


 だから、旅に出た。


 未知の恐怖に溢れる世界へと飛び出し、たった一人で母を探し始める。


 しかし長い旅をしても見つからず、憎んでいる人間を頼ってまで探していた。まだ幼い子が言われた通りに、窮屈な中で我慢していた。


『かえせって言ってる。かあちゃんと帰りたいって言ってる』


 母に会いたかったから。寂しくて仕方がないのに、怖くて仕方がないのに、傷付ける心配のないクロノへと強気にすがっていた。


「お母さんを取り戻したくて、勇気を振り絞ってここまで旅をして来たんだ。その彼をどうして殺せるっ……」


 ヒューイの旅が終わる。最悪な形で。


 辛く恐ろしい長旅を我慢して、やっと見つけた母親の前で、マファエルに乗っ取られた。


『母ではありません。種族が違います』

「ヒューイが母と呼んで、彼女が受け入れたなら、彼等は親子だ」


 殺されかけても子を想い、這っていた母を思えば、面影残る彼を諦められない。


 愛情深く、純真無垢だった龍の子を思えば、どうしても拳は握れない。殺せない。


『その理屈で言うのなら私はアークマンを——』

「なんとも思ってないだろ?」

『…………』

「他の生命なんて何とも思ってないんだろ?」


 魔王が歩み出す。


「どこまで行っても俺は君の敵で、ヒューイの味方だ。だからいい加減に————挫けろ」


 ヒューイを助け出す唯一の道は、マファエルを諦めさせて一時撤退させた後に、引き離す方法を見つけること。


 その為には、マファエルの心をくじく必要がある。




 ………


 ……


 …




 真っ向から全てを受け、天使の魂魄にまで知らしめる。龍罰に囲まれた焦土の中心で、また二強がぶつかる。


『————ッッ!!』

「っ…………!」


 爆炎を撒き散らして加速したマファエルと正面衝突し、手四つロックアップ。激突で地鳴りを生み、天地を鳴動させながらも、両手を組み合わせて押し潰す。段階を遥かに引き上げて、腕力でマファエルを挫く。


『〈不運〉』


 けれどマファエルには〈不運〉が味方している。


 隕石が右太腿に着弾する。不運にも三度目の隕石が降る地点に、またしても魔王が在った。


「…………」

『——っ、〈不運〉』


 運の有無など知った事ではないと、隕石も我関せずにマファエルの手首を力付くで押し潰す。


 制御不能となったゴーレムの金属片が、今更ながら魔王へ降り注ぐも、構わずマファエルを潰す。


 そこは常に〈不運〉の絶頂。絶えず襲い掛かる不都合好都合な不運。魔王はそれでもマファエルを潰しにかかる。


「届かなかった命がたくさんある……!」

『————ッ!!』


 両手を組み合わせたまま膝蹴りで、咬み付いたマファエルの逆鱗を打ち上げる。


 これまで歩んだ道のりで、手からこぼれてしまった命を想い、まだ手が届き得る目の前のみを見据える。


「この子はまだ間に合う」

『グッ……!?』

 

 そのまま器用な脚技を使い、マファエルの各急所を蹴り付ける。破壊されないながらも著しく撃破的な蹴りに、龍体が曲がる。


『————』


 それでも、腕力で勝てなくとも、マファエルには息吹きがある。腹から迫り上がる異なる灼熱を、至近距離から魔王へ放つ。


『——————ッ!?』


 出した炎を押し戻すように、突き出た手が口を押さえ付けた。


 牙も炎も押し込み、強引に地面へと押し付けられる。


「ふんっ」

『————』


 しかし長い尾が魔王の首に巻き付き、尾の筋力のみで痛み分けと投げ飛ばした。


「っ…………」


 鋭く投げ飛ばされた先で見たのは、先程とは比べ物にならない規模の息吹きを吐こうとするマファエル。より収束させ、より熱く、より激しい、烈火の砲撃だ。


「っ……!?」


 回避しようと脚に力を込めるも、遥か後方の導線上が、エンダール神殿方面だと察する。


 突き抜ける。この炎は間違いなく神殿も大地も突き抜けて、その方面にいる生命を焼き殺す。


 〈不運の絶頂〉は、魔王に回避を許さなかった。


「————」


 これも捻じ伏せる。そう決めた。


 だが至極の〈玉〉を準備する時間はない。殴り破ろうにも、被害は二強で揃って同規模以上とするのは明らかだ。かと言って、他にこれを返せる技もない。


 この世に存在するかも分からない。


 そこで…………たった一つだけ、この龍炎を真っ向から上回るものに思い当たる。唯一と言っていいものを、幸か不幸か肌で感じていた。


(あいつも、たまには役に立つじゃないか)


 イメージは固まった。黒翼が鼻に付く天敵を想起し、あの絶対貫通を義務付ける白滅の光流を再現する。


 けれど魔力の質だけは誤魔化せない。


 直感的なものだったが、クロノは自身が得意とするところで補った。考えを纏めながら黒々と魔力を溢れさせる右手を、迫る息吹きへ突き出した。


「————ッ」


 単一の方向に放射される闇黒の魔力。底無しの魔力を一方向の進路で、惜しみなく放出する。ただ放出する。


 それも、最高速度・・・・で。


『————っ!?』


 龍の息吹きが、黒い息吹きに受け止められる。


 クロノの魔力操作技術と魔力操作強度は、世界常識とも別次元にある。弾丸は僅か十グラムでも人体を貫通する威力を誇る。つまり、速さは力、量は重さ、どちらも超越の次元にあるならば。


 力任せな魔力放出は、ある一面で息吹きに比肩する。


 クロノしか成し得ない強度で放出される魔力風は、龍罰の燃焼を上回ったように、速さと量の暴力で龍の息吹きを受けてみせた。


「オオオオオオオッ!」

『——————ッ!』


 押し戻す事は叶わずとも、即席で進退付かずの接戦を見せる。実際の火力や威力は龍の息吹きと比べられるものではないが、単純な圧力は息吹きと競る程となっていた。


 けれどマファエルは狡猾な一面を覗かせる。


 息吹きを瞬時に光線へ変える。現時点で更なる収束がされた熱戦は、龍罰に次ぐ威力だ。いかに圧の暴力と言えど、中心を突き抜けて突破してしまう。


「っ…………」


 魔力を放つ手の平に短い熱線を受け、明瞭になった視界で眼前を見るも…………マファエルの姿はない。


「………………っ!」


 熔けた地中の気配を察して、手を突っ込み、マファエルを首から引っ張り出す。勢いのまま投げ飛ばそうと特段の力みを込めた。


 狙う先は————


「っ、————!!」


 遥か雲上にまで浮上していたエンダール神殿の『本殿』。


『——————ッッ!?』


 逆軌道の流れ星となって、本殿まで直線で飛ばされる。雲を超えて流れ、本殿の底を突き破って着陸した。


『……無駄です。あなたが〈寝所〉の大敵なのは明らか。どちらかが死ぬまで戦闘は続きます』


 小賢しい投げ技に警告を発していた。マファエルに敗北の芽はない。龍罰を経験し、まだ適合を進める龍体は、強さの先がある事を知らせている。


 余計なやり取りは、何の意味もない。


 跳び上がって来た魔王と、消失した本殿跡で睨み合う。


「…………」

『最早、魔力も無いのでしょう。あれだけ盛大に使用すれば当然です』


 マファエルの心を挫くべく、多大な魔力を割いていた。そのような戦闘法を選んでしまった。


 それでも尚、龍の為にマファエルへ向かう魔王に、天使ながら呆れていた。


『無駄です』

「ッ……!」

 

 黙々と歩み寄り、切り付けた爪を避け、関節を外そうにも守護兵器に間接はない。折る骨もない。無力化への取っ掛かりがない。


『無駄です』

「っ——————」


 考え付く全ての方法を実行し、いよいよ万策が尽きた時、光線により遥か上空にまで飛ばされる。手の平で受けるも、瞬間的に何キロメートルもの距離も飛ばされる。


「……またさっきのを撃たれる前に何か手を打たないと」


 眼下にある空の陸地で、また炎を激らせるマファエルを見下ろし、思慮深く策を考える。


 その向こうに広がる世界は、大災害と言っても生温い。苦しくとも渋くとも、急がなければ被害は拡大するばかりだった。


 と、異変は突如として表れた。


「…………」


 空のクロノは思考も中断し、その様を見つめる。


『っ……、不可解ですッ……』


 マファエルは自身の尾を身体に巻き付け、身動きを封じていた。縛り上げて拘束していた。


『説明できません……、不可解ですッ』

「…………」


 もがき困惑を極めるマファエルを見れば、彼女の意思でないのは明白だった。


 ならば、どうした事なのか。


『理解が及び——————』


 刹那の時を、クロノは見た。


 最早、機能として不要となり、まばたきすらしなくなった空虚な龍の眼。つい先程までは愛嬌のある瞬きを繰り返していた、子龍の眼。


 思い出す。


 ピュ〜〜ィ!!


 彼を思い出す。


 崖の出会いから始まり、二人で竜と戯れた時を想い、共に母を探した彼を思い出す。


 賢く、勇敢で、けれど臆病で寂しがりで、遊び事が大好きな赤子の龍。母を追って大冒険を遂げた、勇者のような男の子。


「……………………そっか……」


 悲しげで、辛そうに、弱々しく、悔しげに呟かれた。


 耐え難い苦渋により眉間に皺を寄せ、一度だけ目を伏せる。やり切れない思いを、無理にでも押し殺す。胸に溢れる激しい悲哀を黙して堪える。


 そしてまた、自らに尾を巻き付ける龍を見る。


「………………分かったよ、ヒューイ」


 不甲斐ない魔王へ、短い時間を相棒として過ごした龍が、何かを伝えたのだろうか。それは分からない。偶然なのかもしれない。


 それでも、魔王はやっと決意する。


「助けてくれて、ありがとう……」


 やっと、彼との惜別を受け入れる。その勇気に、救われる。




 ————俺も、覚悟を決めるよ……。




 諦められなかった命を、諦めた。


 届かなかった命に、届かなかったのだと諭されて。


「ッ…………」


 ヒューイはその温和な気性に反し、龍としての潜在能力が非常に高かった。その為に、借り物の力と言えどもマファエルの心をへし折る事が、今のクロノにも叶わなかった。


 二人は、それに気付いてしまう。もう取れる手立ては無いと、確信に至ってしまう。


「っ————」


 大好きな彼を、その手で送り出す。


 悲しみは転じる。他者を傷付ける事を怖がっていたヒューイの身体を使い、暴虐の限りを尽くした悪意の天使を、ひとえに撃滅する・・・・


 送り出すのに、処断するのに、苦戦であってはならない。戦いですらあってはならない。


 初めて、マファエルを葬るべく拳が握られる。瞳に荒れ狂う激怒が正しく反映され、今のマファエルを倒せるだけの、あまりに、あまりにも、あまりにも過剰な『力』が込められる。


 抑えられていた原因が取り除かれ、抱いていた真の激情が、これでもかと右拳に乗せられる。


 これまでとは比較も馬鹿らしく、『力』強く握り締められる。物語を彩る都合の良い救いは与えられず、伸ばした手を拳に変えて、自らの手でその“子”を討つ。


「終幕だ」

『ッ————!?』


 背後の空間に拳槌を打ち込み、魔力を弾けさせて超加速する魔王。龍の子を弔うべく、天使を屠るべく、雲を越え、天へと昇る本殿へ向けて滑空を始めた。


「————」


 まるで別物に変わっていた。


 その激憤が燃え滾る瞳。魂が凍る凄まじい威迫を発する剣幕。自らに向けられる怒りの度合いと、応じて抱く魔王の殺意を受け取ったマファエルは、——確信的に死を悟る。


 殺される。『威』が、『力』が、形を成してやって来ている。


 これは話が違う。


『リッ!? り、離脱が最優先事項ですッ! 離れてください!』


 マファエルは使えぬ・・・龍の身体を捨てて逃げる事を選ぶ。後に残るのは守護兵器化した死骸のみ。けれど死骸の尾は、剥がれかけのマファエルごと絡みついて離さない。


「今さら逃げるなんて許されないっ! 覚悟が出来ていなかったのは、俺達だけだっ!」

『ッ……!?』

「その子は俺達なんかよりも遥かに強い子だ! 誰よりも勇敢で、綺麗な心を持っているッ!」

『〈不運〉ッ!!』


 やはりマファエルに残されたのは、運頼りだった。口汚なく唾を飛ばすように、権能をなりふり構わず振り回す。

 

「だからせめて……俺の手で送ろう」


 近くの雲から飛雷する雷が、右腕から溢れ出した魔力に呑み込まれる。


 落ちる隕石も、奇妙な飛行体も、魔蟲の群れも、巨大な魔力に呑まれて邪魔立てを許されない。クロノの急滑空を止められるものは何もない。


 いかなる不運も捩じ伏せ、幕引きへ向けて流れ落ちる。


 地上からも、その様子はよく見えた。


「……黒い翼が、羽ばたいてる」


 最高速度で飛ぶ金属体の上で、空を見上げるハクトが呟いた。天を喰らうように漆黒の巨翼が唸り、何処かへ飛翔していく。


 誰もが足を止めて見上げ、退避も忘れ、大いなる黒翼に見入っていた。


 何故なのか、とても切なく、悲しく、哀しまずにはいられない。


 けれど美しく、温かく、胸を満たすものを見て取る。


『〈不運〉っ、〈不運〉、〈不運〉ッッ!』


 運も叩き伏せ、黒翼が喰らう。阻む一切を滅し、遮る全てを黒に呑み込んで進む。


 止める手立てのない黒い流星は、マファエルの足掻く本殿へと一直線に流れ落ちた。


『〈不運〉、ふう——————』


 瞬刻、マファエルは禁忌の意味を理解する。


 ————目の前に降り立った魔王。


 右半身から極黒の闇を噴出させ、激情に染まる双眸をただ一人に向ける。刹那の時で、天使一人にのみ向けられる。


 視界の半分を黒で染めながらも、対面したマファエルは消滅する未来を知る。


 不運にも龍に取り憑いた禁忌を知り、真の絶望を知る。


 これまでと一変した魔王の気質を前に、意義に反した自身の過ちを遂に理解した。


「————」


 深い愛情と激しい悲哀により、悪意の天使へと憤怒の拳は打ち込まれる。




















 魔王と小さな勇者の物語が、幕を下ろした。


 








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