第292話、龍
威厳ある素晴らしき龍翼、憎らしく輝く黄金の天使翼。二種の翼を生やす葵の龍が、高みから矮小な生命を見下ろす。世を見下す。
神と同義とされる龍となって舞い降りたマファエル。第二天使の魔力ですら傷付かず、受けただけで伝説の片鱗を覗かせる。
誰もが知る『龍』。国を滅ぼし、大地を歪め、神を喰らったとされる伝説の生物。幻ともされ、しかし過去に起きたとされる逸話がいくつも残っている神話の生き物。
それが現実に、目の前に現れたのだ。
「龍……」
仰ぎ見て漏れ出た声はジークのものか、他者のものなのか。
燦爛と天に煌めく龍を崇め、神の誕生に恐怖する。
「……団長、もう撤退すべきだな」
「なんとかならないのかっ……」
「やってもいい。ベネディクトと違って、なんとかなんて出来よう筈もないが、死は覚悟して来たからな。ただ……」
被害の規模が想像できなくなる。龍の力が放たれる毎に、取り返しの付かない爪痕を世界に遺す。
ジークの理解など及ばない。いや、ネムが想定している範囲さえも遥かに超えた爪痕が刻まれる筈だ。
「……ベネディクトが奪う生命以上の被害が出ますよ?」
「…………」
「王国が滅ぶってのも、念頭に置いた方がいい。一国で済むかも分からないがね」
口ではそう言いながらも、ネム自身も龍がどの程度の力を宿しているのかを知っているわけではない。
しかし大陸各地に残る龍の“爪痕”が、ネムを確信せしめていた。
未だ高々と燃え続ける焦土、一千年も降り続ける万雷、大瀑布を生み出した龍爪。どれもが想像すら出来ない、世界そのものを破壊した痕だった。
『お分かりの筈です。最早あなた方に取れる手段はありません』
「…………くそっ」
不幸中の幸いなのは、目の前にいるのは龍自身ではなく、龍となった天使なのだという事。意義に沿った目的があり、無作為に力が奮われるわけではない筈だ。
けれどアークマンによる〈聖域〉が実現されようとしている。たとえ龍が現れたとしても、みすみす見逃す事はあっていいのだろうか。
『————』
「…………」
本殿へ飛ぶアークマンを見つめ、ジークは深慮に徹した。決断への時間は数秒も残されていない。アークマンが目指す不穏な“白き神殿”まで、もう幾許かの時もない。
「……ネム、やるぞ」
「ですよね、承知……!」
「やるしかない。……たとえ龍に蹂躙されようとも、ベネディクトだけは殺すッッ! あの宿敵を後世に残せはしないッ!」
ジークが腹を決める。龍を前に腑抜けた脚に力を入れ、自らに喝を入れて克己する。
この場にいる者達は死に絶えるだろう。ネムもまた決意して魔術を編む。丘に並ぶゴーレムも全機を龍へと照準を合わせ、今し方に射出した。
龍に刃向かう人間達が、同時に動き始める。その兆しをマファエルが察知した。
『————』
二人はまだ、龍を知らなかった。
「————ッ!?」
「——ぐぅぅ!?」
——龍の熱線が、マファエルより吐き出された。
万物において極限の生命体が放つ、龍火を収束させた光線。直下から掬い上げるように、太古の技術で合成されたゴーレムの金属体も切り熔かし、エンダール神殿も貫通。遥か先の大地までをも難なく二分する。
瞬間的に地盤を溶かし、大気を焼き付け、熱線による斬撃は世界そのものを分かつ。
「————」
龍火の熱線は〈不運〉も宿り、丘で待つアルトも通る軌跡で放たれた。
まだ何も見えていないアルトだが、死は視えている。地底の最下層から焼き切り、秒もかからず登りくる極大の灼熱を、確かに視ていた。
「——ぐぁっ!?」
突然だった。強い爆発が右側に生まれ、アルトの身体が大きく弾かれる。
直後、
「ッ————」
現世焼却の赤い灼熱が通過する。幾重の地層も貫いて溶かし、撃ち上がった光線は空までを一辺に焼き焦がし、ようやく一撃を終える。
転がりながらも熱風で更に吹き飛ぶアルト。火傷を負いつつも、絶命だけは逃れる。
「————……っ」
「…………」
余韻の熱で空気が燃やされ、揺れて見える。
その遠く先で、這い寄っていたハクトがいる。どうやら何か
「アルト様ぁぁ!! ご、ご無事ですかっ!」
「ハクトをっ……! 私は無事だっ、ハクトを先に助けてやれ!」
側を固めていた多くの部下が滅却、蒸発する中で、生き残りがアルトを抱えて更に後方へと下がっていく。
「なにが、起こったのだ……!」
「不明ですっ! しかし、ここにいるべきではありませんっ! それだけは確かですッ!!」
配下の肩を借りて撤退する。その途中でアルトは奇妙な光景を目にする。
「…………」
「…………」
王者たる竜が、頭を下げている。全ての竜が目を閉じて神殿の方角へ首を垂れていた。
王国軍は、竜を力付くで従えたのだと間違えていた。大人しくさせたのだと錯覚していた。けれど竜が静まったのは、その場にいる龍の存在に気が付いたからだった。
龍から、“暴れるのも程々に”と命じられたからだ。
龍から、“頭を冷やすように”と告げられたからだ。
龍から苛立ちをぶつけられて、消沈していたからだ。
全ては龍の意志のままに。竜王達は、龍へとただ忠誠を表していた。
その様子を遠目に見ていると、ある人影が竜達へ歩み寄るのを目にする。
その人影は竜の尾を掴み————
………
……
…
「…………っ」
神殿から丘なども遠く越えて、世を焼き切ったマファエル。
自慢の熱耐性が施されたローブを燃やしながら切り口を覗いたネムは、肉眼では捉えられない程の直下で光る疵口を目にする。大陸の断面、構造を初めて目にする。
『〈不運〉』
抵抗されると判断したのか、マファエルはまだ止まらない。意義に従い、人間達の抹殺を続行する。
広げた天使の翼が輝き、〈不運〉を振り撒いて排除を開始する。龍の威を借りて権能を使用した。
「————グ、ああァ!?」
「団長っ? どうしたんだい、突然っ」
何の間違いか、魔剣・バルドヴァルが龍の熱気をほんの少しばかり喰らってしまい、灼魂竜の魔力や血を蝕み始めた。
「ガァァァああああっ、グッ、ぅアアぁぁああああ……!!」
竜の比ではない侵蝕は魔剣自体も溶かしながらも、同化を通してジークすらも焼き殺そうとする。
しかし不運の訪れは、ジークのみならず。
「————ッッ!? ああっ、ぁぁぁアアーっ!!」
「ぃャアアアアアア!?」
不幸にも足場が崩れて、三人の騎士が何処までも続く大地の疵口へと落ちていく。
これから長い時間をかけて落下し、地の底でやっと死を与えられる。遠い遠い彼等の旅が始まった。
その間にも、運なく強風が吹く。
「ああっ!? ——ぐぉぉアアアアッ!!」
「ガギッ、アぁぁ!?」
風は龍の残り火で焼かれ、煽られた人間を容赦なく焼く。僅かな煽りでさえ喉や肌を焼かれ、呼吸も出来ず、激痛は外部も内部も合わせて走る。
救う手立てはなく、苦しみ悶えながらやがて訪れる死を待つしか無い。
更に〈不運〉は止まらない。急病、欠損、寿命、滑落、転倒、落石、出血、心停止、暴挙、錯乱、脱水症、火傷、暴徒、焼死、持病、倒壊、乱闘、私怨、転落、身代わり、迷子、骨折、発作等々……。
呼び込む〈不運〉は不運を呼び、ものの六秒で全壊せしめる。
周辺一帯の生命から運を剥奪し、重大な悲運に晒して大部分を殺した。動植物のみならず、微細な菌類や微生物、精霊や怨霊に至るまで一切を。
だが、…………それがピタリと止んだ。
「…………」
何処からか、神鳥の加護が神殿の
更には遥か彼方まで続く亀裂へ落ちた人間までが浮遊して地上へ戻り、熱線で開いた大地も閉じていく。
地鳴りを響かせ、合掌するように合わさって閉じた。
『…………』
「…………」
姿の見えない神鳥を捉えられないマファエルは、不吉を感じ取っていた。戦闘の意思は感じられないまでも、ここに人間を手助けし、天使に匹敵する存在がいる。
マファエルはアークマンへ向き直り、かねてより決意していた提案を示した。
『アークマン、私を守護兵器化してください。あなたから生まれた私も、適用内の筈です』
『必要ですか? 守護兵器となったなら、その姿から元には戻れなくなると承知でしょう』
一刻も早く〈寝所〉を完全復元化し、間もなく実行しなければならない。〈聖域〉へと急ぐアークマンはその案に否定的だった。
既に龍というだけで、マファエルは成功している。天使の生において、勝利している。
『肉体が幼くては動作に支障を来します。最高の状況を求めるなら必要です』
『分かりました』
マファエルは頑なに求めている。ならば議論の時間が無駄に終わるだけ、そう判断したアークマンは即座に〈聖域〉の一つを使用する。
手を翳し、同魔力から生まれしマファエルを守護兵器化した。
『————ッ』
ここで想定外の問題が発生する。
『——っ、アークマン』
『何でしょう』
『融合した肉体が強靭なので、時間がかかるようです。五十秒ほどの時間を割きます』
拙く浮遊しながら右殿内を目指し、約四十九秒間もの隙が生まれる。絶対者の庇護から離れた『空白』が、最後の希望として人類に与えられる。
「最後の希望ってやつは、こんなにも分かり易いんだねぇ」
判断はジークを待たずして決まる。数多の呪物や魔具を所持する混沌としたネムは、最前線にいるにも関わらず〈不運〉から逃れていた。
「仕留めようか」
熔解を逃れたゴーレムで、アークマンを総攻撃に見舞う。ネムの表情は龍により、切羽詰まっている。ネム自身が覚えのない、後が無いという感覚。最早、彼をして賭けの類だと分かる。
残された時間は、四十七秒。
『皆様、お護りください』
「——させないよ」
魔眼により歪みが生まれ、ほぼ同力で金属体を打ち払っていた兵器剣の軌道が変わる。
空かした兵器剣。払えなかった金属体の陰から、彼が現れる。
「グッ、アアっ!! これが、限界だぞッッ……!」
『っ——!?』
竜化した部分から炎を上げながらも、金属体に乗るジークが魔剣・バルドヴァルで斬る。
龍の炎など振れるわけがない。触れてはならない。だからこそ、ただ逃がすだけ。吸った熱を、竜の吐息に混ぜて吐くだけ。
それがどれだけの燃焼となるかなど、誰にも分からない。
「オオオオオオオオオッッ!!」
竜爆に混じりし、龍の
託された二の矢。受け取ったネムはジークを構う事なく、惜しみなく術を注ぐ。
『——ぐぅぅ!?』
「頼むよ、ズラッカ」
“ズラッカの人差し指”。赤紫に変色した薄気味悪い人差し指を取り出し、口に咥える。瞬時にネムを覆う魔力の質と雰囲気が切り替わる。
ズラッカの指と同じ色合いの、傲慢で横暴な気質を表した生々しく邪な魔力。それはネムに操られて煙のようにアークマンへと向かい、纏わり付く。
【凶行・ズラッカ】と同じく、遠隔操作による外界への接触を可能とする。
『ぐっ、ゥゥ————』
風味だけながら龍が混じった炎で焼かれ、衣どころか素体を焦がしながら
その隙に素の身体をズラッカの魔力によって握り締められ、微かな圧迫感を感じるまでになる。
魔力は天使を階段に打ち付け、殴り付け、引っ叩き、やりたい放題だ。まるで人形が、純にして残酷な幼子にやられる仕打ち。
不作法にも魔力により全身を掴み、手足や首を折ろうとする圧を受けたアークマンに、強い危機感が発生する。
だがネムの術は更に積まれていく。
「————」
魔眼によりアークマンを取り囲むように周囲を歪ませる。
魔眼と魔術の融合技。〈
『————っ、ッ——!!』
“震え”で満たされた歪みの球体内で、アークマンの肉体にヒビが入る。
『っ……!? それではっ!』
ここで同じ過ちを犯してしまう。長き時をかけて染み付いた癖はすぐには治せなかった。いや、他に取れる手立てもなかった。
第二天使の魔力による力技により、物理的な干渉をする魔力を祓ってしまう。加えて震えや魔眼の干渉も焼き飛ばしてしまう。
我に帰って察した時にはもう、ネムは次なる術を編んでいた。
「次の宝を使わずに済んだか。日頃の行いだねぇ」
杖を突き出し、ハクトの血による刻印がアークマンの魔力を引き寄せる。引き寄せて引き寄せて、天使の魔力を核心を突く一矢に変える。
残された時間は、二十八秒。
矢尻の狙う先は——
『————っ!』
「よし、取った」
魔力で拘束したアークマン。天使達が過剰に守り抜く〈寝所〉を狙う事も考えたが、起きてくる龍を考慮した時、殺されるだけだろう。また夜に儀式が行われて、詰む。
念入りにズラッカの指による魔力で固定し、天使の矢を放つ。
「今度こそ堕ちな、ベネディクトさん」
『守護の要よッ』
今一度の魔力解放が頭を過ぎるも、アークマンの見立てでは貫かれる。武器として完成した魔力矢は、これ以上ない程の貫通力となっているという自覚がある。
ならば守護兵器による拡散が適当とされる。
「ゴーレムよ」
受けて立つのは、未知の金属体だった。龍には消滅させられるも、第二天使の魔力ですら消せない未知数。数多の金属体を頼り、兵器の剣や槍をかち合わせる。
衝突力は五分五分。ネム自身を襲うものも含めて、正確に払う。
「————」
加えて魔眼も使用。盾になろうと割って入った兵器すらも歪め、第二天使の矢を妨げる事を許さない。
矢は、確実にアークマンを撃つ。撃たなければ第一天使と龍により、世界が終わる。
しかし、
『——私は倒れられないのです』
マファエルが完成するまで、残り二十六秒。
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